月虹 1-2-3 |
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左之助に言われて、前歯の欠けた小さい子が、おずおずと剣心に貝独楽を差し出した。視線が泳ぐのは、異質な外見と腰の刀に怖じているからだ。 だが、受け取った剣心が、 「いい独楽だ。」 と言ったのを聞き、途端に様子が変わった。 「ほんと! 父ちゃんがやってくれたんだ。これなら絶対勝てるって。でもオレ全然勝てねんだ。そんで、けどうちの父ちゃんは……。」 「そうか。どれ。」 柔らかく笑って童子の頭をぽんと軽く叩くと、剣心はおもむろに紐を巻き始めた。 その手元を、左之助が見つめている。 いい独楽だ。 そう呟いた声に、古い知己に再会したような懐かしみを彼は聞いた。 掌の中の貝に向けた微笑に、無防備な親しみを見た。 他人の秘め事をうっかり覗いてしまったような気まずさに目を逸らし、だが濃やかな動きを見せる指先に視線が吸い寄せられる。 「てやんでえ。」 目と意識をそこから引き剥がし、紐を巻き始めた。 結び目に気を配り、念を入れて、巻いていく。 だが――。 いい独楽だ、と言った声が頭の後ろに聞こえる。垣間見た一瞬の微笑が意識にちらつく。 身体の内側を引っ掻かれるような苛立ちを覚え、手がおろそかになって紐が崩れた。 「ちっ。」 舌打ちをして、やり直す。 だからなんだ。 関係ねえ。 こいつには負けたくねえ、そんだけのことだ。 対峙したときの凄絶な眸を思い出した。 身の内に震えが奔って、また紐が乱れた。 指と紐を唾で湿して、再度巻く。何かと張り合う必死さで巻く。 そんなんじゃねえ。 怒りに似て、羨望に似て、焦りに似て、だがそのどれでもなく、またその全てでもあった。自分に説明のつかない感情の動きを、垣間見た微笑みのせいとは、小さな貝に対する嫉妬にも似た劣情とは思いたくなく、左之助はそれを自分の向こう意気に負わせようとした。 三度目に、ようやく巻ききった。 そのとき、 「ほい。」 と、気の入らない声と共に、剣心が貝独楽を投げた。 樽に張った布の上でシュルシュルと音を立てて貝が踊る。 そこに続いて左之助が鋭く独楽を入れた。 こちらは打ち手の苛立ちと昂ぶりを体現してでもいるように、猛烈な速度で回転し、暴れまわる。 左之助がトトトと樽を横から叩くと、左之助独楽がみるみる敵方に寄っていった。 そして剣心が応戦する間もなく、狙う剣心独楽を樽の土俵から弾き飛ばす。 「っしゃあ、見たかあ!」 「おろ。」 両手を握って大きく掲げた左之助に対して、剣心は「とほほ」と頼りなく笑うばかりだったが、貝独楽の持ち主の子どもが「やっぱり」とでも言いたげな切ない顔をしているのを見ると、またぽんと頭を叩いて、 「次は勝つよ。」 優しく言った。 それを左之助が聞き咎めた。 「ああ? 次は勝つだあ?」 子どもの得意さで目を輝かせていたのが瞬時に面変わりし、剣呑に気配が尖った。 「てめえ、馬鹿にしてんのか。大口叩いてんじゃねえや」 猛々しさをためた眼光を剣心に叩きつけながら、左之助の手が独楽に紐を巻きはじめる。 すると、その気迫に呑まれてか、子ども達ばかりか負ぶわれた赤子までひっくるめて、あたりは水を打ったように静まり返ってしまった。剣心だけは相変わらずのほほんとしているが、左之助ひとりのせいで周囲の空気は場違いに張り詰め、皆、洟をすするのも憚って成り行きを見守っている。 そもそもベーゴマなど子どもの遊びなのだ。大人が興じるものでもなければ、まして目を吊り上げて争うようなものでも、本来はない。だが左之助はこの寒空に威勢よく印半纏を脱ぎ捨て、右手にはペッペと唾を吐いて指を擦り合わせ、睨み殺さんとばかりの凄い眸を剣心に向けていた。それが不可解な感情が形を変えて表れたものだとは、左之助自身こそ気づいていない。 ベーゴマ対決とは思えない妙な緊迫感のなか、二人は樽を挟んで向き合った。それぞれ樽から一、二歩距離をとって手の内に貝独楽を構え、子ども達はその外側に大きく輪を作った。何事かと足を止めた通行人もちらほらと混じっていた。 この状況で間に入ることのできる者などない。 見合った二人は、呼吸を合図に、同時に腕を振った。 貝が指先から離れた瞬間、即座に紐を引いて回転をかける。その速度と安定がそのまま推進力と維持力となる点は木製の独楽と変わらないが、天然のバイ貝の貝殻に鉛を流し込んで作ってあるだけに、力加減以上に安定の按配にこつが要る。 定法通りに紐を引ききる最後に、剣心の手が妙な動きをした。引き抜くのではなく、押し戻すようにひねったのだ。 「あれ?」 「え?」 見ていた子どもの幾人かが気づいた。 貝は大きく揺れたが、倒けるかと思われたところで持ち直し、樽の上で自転し始めた。 だが勢いがない。 これは失敗だ、と皆が思ったのも最初のうち。剣心の貝は次第に回転速度を増し、流れるように土俵上を泳ぎ始めた。対する左之助の貝は先程と同様の勇ましいまでの旋回ぶりで、主はしきりに樽を打って敵に攻撃を仕掛ける。しかし剣心の応戦はなおざりで、勝負を貝と運に委ねてしまっているようにも見える。貝の持ち主を含めた少数の剣心方は、もうだめだ、と書いた顔で彼らの貝と剣心を見ていた。 旗色が徐々に変わっていくことに最初に気づいたのは左之助だった。 追いかける自分の独楽が徐々に威力を失っていくのに対し、当たられるままに流れていく剣心独楽は一向に衰えず回り続ける。むしろ当たられるごとにそれを自力に換えているようにさえ思え、左之助はますますいきりたって独楽を仕掛けた。 と、信じられないことが起こった。 全員が呆気にとられ、左之助もぱっかりと口を開けて、樽を叩くのを忘れた。剣心の貝独楽の回転速度が急速に落ち、ついに停まった、と見えたその途端、今度はゆっくりと逆回転を始めたのだ。そして失速前以上にシュンシュンと音を立てて速度を上げ、よろめき始めていた左之助の独楽をいともたやすく打ち倒した。 一瞬の静寂の後、ほぼ全員が叫び声をあげ、興奮と驚きでとんでもない大騒ぎになった。 すごい。今のなに。どうしたの。小さいお兄ちゃん、すごい。なんで逆に回ったんだよ。紐を引くとき何かしたんだぜ。オレ見たもん。何したの。教えて。僕も。おいらも。僕にも教えて。 剣心に貝独楽を貸した子どもは、一躍人気者となった見慣れないお兄ちゃんのすぐ横で、嬉しまぎれに顔を真っ赤にして、飛び跳ねている。 ひとり面白くないのは左之助だ。 苛立ちと焦りがますます募る。 「やい剣心! なんだ今の。くっそ、てめえ、なにしやがった。教えろ!」 「おろ?」 澄ました顔で幼くとぼけてみせた剣心は、 「と言われて教えるとでも?」 つんと顎を上げて、小憎らしく笑った。 そしてくるりと子ども達に向き直ると、また張り替えたように柔らかな笑顔に一変して、 「ささ、童ら、主らにはこっそり教えてやろう。怖いお兄ちゃんには内緒にござるぞ?」 声をひそめて、囁いた。 ちらりと左之助に目を流すことも忘れない厭味っぷりに、左之助が顔を赤黒くして唸った。 「てめえ、むかつく! もっぺんだ、もっぺん! おらおら、早くしやあがれ!」 |
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