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悪いが自信はある。触れさえできれば絶対気持ちよくしてやれるのに。うっとりとろーり夢見心地に溺れさせられるのに。むずかしいことではないはずだ。ちょっと強引にでも抱き寄せるとか、強く迫るとか、あるいは適当な口実で無理矢理そういう状況をつくってしまうとかすればいいのだ。どうとでもやりようなんかあるはずだ。
なのに、できない。
どうしてもできない。
それで軽蔑されたり、幻滅されたり、がっついてると思われたり、せっかく見直したのに見損なったとか言われたりしたらと思うと。さっきの観覧車みたいな時間を永遠に失ってしまうかもと思うと。氷みたいな切り捨てる目で見られたらと思うと。
ばかみたいに、こわい。
このおれがおあずけ状態のまま一か月も(その前は一年も!)指をくわえてただ見てるなんて、去年までのおれを知ってる奴が知ったらひっくり返る椿事だし、別になにもそんな他人を待つまでもなく、おれ自身こそひっくり返りたい気分なのだが、でもどうしようもない。
どうしようもない。だからこんなにもどうしていいかわからないのだ。
ハアー。ため息。
な、マイケル。人を好きになると人間弱くなんのかな。
黙って問いかけて腹を撫でる。前肢後肢を伸ばして気持ちよさそうに身悶えるマイケル。
でも今日はなんかいいかも。いい感じだし、風呂も借りたし、マイケルも気持ちよさそうだし、服は洗濯中だし、スースーだし。しかし楽観は禁物だ。
――なんせ緋村さんだしな。
酒にも車にも甘い言葉にも酔わない人である。
「流される」という状況が想像できない。
こないだの初エッチは「さあしよう」とスタートの合図をもって始めた、いわば一種のゲームだった。そしてポジション争いの戦いでもあった。じゃあ今度は? 毎回ああなのか? それにあのとき事後に緋村さんがあの超絶愛くるしいフェイズスリー状態で口走っていた「今度は交代」とかいう破天荒なネタはまさか生きちゃいまいな?
何度目かにハアーとため息をついたとき、背後に気配を感じた。
「ひ、緋村さんっ」
あらぬ妄想を中断させられた男はたいていうろたえる。しかもそれが当の妄想対象とあってはなおさらだ。そんな状況の男に特有の(そして共通の)反応を見せるおれ。マイケルを撫で回す手がおろそかになり、咎める目がおれを見上げる。あーハイハイ。悪い悪い。
だが、ご奉仕を再開しようとしたおれの手が再び猫の腹に触れることはなかった。
緋村さんがマイケルを追い払ったからだ。
ちょっと意外だった。
気のせいでなければ、マイケルを押しのけた緋村さんの手つきは、なんというかその……邪険だったのだ。なんだかんだ言って猫たちを溺愛している緋村さんである。けじめに厳しい人だから、猫に立入禁止区域に立ち入る例外は認めない。かわりに、許された場所にいる猫をそんな風に追い払うところなどみたことがない。なのに今のはまるで「そこをどけ」と言わんばかりだった。
いつにない挙動にびっくりしているおれの目の前で、もっとびっくりする事態が発生した。
緋村さんがマイケルに取って代わったのだ。
あまりのことにおれは言葉がない。
ついさっきまでマイケルが寝そべっていたところに、今は緋村さんがいる。(つまりおれの膝の上に!)
岩にもたれる人魚のようにおれの脚に乗り上げ、首をもたげて庭を見ている。と思うと、今度はぽすんと頭を落とし、重ねた手に顎をのせて「ふう」と息を吐く。おれは唖然としながらも、一気にエレクトしたものが緋村さんに触れないよう身体をずらしてモゾモゾした。それにしてもこの緋村さん、挙動がいちいち動物っぽい。なんだろう。もしかして動物仕様のフェイズフォー? それか何かに憑かれたとか? それでこんな挙動に出たとか。だとしたら何だと思う? やっぱり猫? 意外に犬? あるいはオーソドックスに狐? もしかして手首がくいっと曲がってたりして。そう思ってそーっとのぞきこんでみたが、そんなことにはなっていなかった。緋村さんはいたっていつも通り。していること以外は。ああ、それにしても手のやり場に困る。
と、緋村さんが口を開いた。
「やんだ」
見ればたしかに雨がやんでいた。
雨上がりの明るさはやっぱり夕方に似ている。
降参する兵士のように挙がっていたおれの手が緋村さんの肩を包んだ。
「珍しいじゃん。どったの」
浴衣姿のしなった背に潔いシワができている。縁側に流れる袖。その袖から伸びたしなやかな腕。本来が手首まで覆われているべきだからか、たかだか肘から先があらわになっているだけだというのに、ハッとするほど乱れて見える。
腿の上で組まれていたその手がほどかれ、おれの膝に乗せられた。脚の上の横顔はいつもと変わらないクールな表情。なのに膝に乗せられたすがるような手だけが別人のようにしどけない。そして、
「猫はいいなと思って、真似をしてみた」
そんなかわいいことを、いつもと変わらない淡々とした声で言う。
「そっか。猫はいいなと思ったんだ」
猫にしてたみたいに頭を撫でると、緋村さんは少し身じろいだ。
ひざの上の手に手を重ねて、軽く開いた指の間に指を絡めて、横顔の耳にそっとキスする。
「好きだ」
緋村さんは何も言わなかったが、伏せられたまつげがぴくんと動いた。肩。腕。首。頬に唇で触れながら、掌でゆっくりと円を描きながら少しずつ移動していく。ゆっくり、静かに、ごく軽く。そう、猫にしてたみたいに。でももう片方の手は袖の中をまさぐっている。なんかもう、着物ってエロい。帯一本解けば即スースーだし、第一解かなくてもあっちこっちスースーだし、入っちまえば中はイケイケだし。だってほら、袖に侵入しただけでもうこんなに無防備。二の腕から肩まで遡上してわきに届いた時、緋村さんの膝がよじられて衣ずれの音がした。あわせの奥に白い腹がのぞいている。ちっちゃいピンク色がくりっと凝って粒になってるのまで見える。着崩れてるわけでもないのにどんだけウェルカムなのか。
「緋村さん」
二度呼び、おれを見るまで待った。
「今日すげーかわいい」
今度はわざと触れるように身体を密着させたからおれの欲求ははっきり感じただろうに、緋村さんは動じない。もしかしてもう奔放なフェイズツーなのか。だがおれを見上げる顔はいつもの緋村さんだ。目だけは熱くとろけているが、欲望に貪欲なフェイズツーなら逆にもっと反応するんだろう。
すると緋村さんはその情欲的な目をおもしろそうに細めて言った。
「今日?」
おお。なんとありえない反応。どうしよう。どうしようどうしよう。
「ん。いつもサイコーだけど、今日超かわいい。すっげーそそる」
その超かわいい顔の眉と口の端がかすかに動く。これはいわゆる「苦笑」の表情。最初はおれの率直な(露骨な)物言いにかと思ったが、続いたせりふからすると、これは自身に向けられた「自分としたことが」の苦笑だったようだ。
「……少々酔ったらしいな。どうりでさっきから調子が狂う」
え。
酔った?
酒にも車にも甘い言葉にも酔わない緋村さんが?
ていうか、
「何に?」
「それはちょっと言えないな」
などと緋村さんは言わない。ただ黙っておれを一瞥するだけだ。
だがその視線の挑発的なことといったら前代未聞だった。
おれは自称酔っ払いの脱力した身体を抱き上げた。部屋に入り、足で障子を閉てると、緋村さんは一瞬だけ「行儀が悪い」と言いたげな目をした。閉てきる直前、庭でマイケルの毛づくろいをしている谷田貝今日太郎と目が合った気がした。
その日の緋村さんは最後まで緋村さんのままだった。奔放で開放的なフェイズツーになることもなければ、率直であどけないフェイズスリーが出現することもなかった。最後まで基本の緋村さんのまま、誇り高くストイックで自律的で真摯だった。情理と感覚の間を揺れ動いてがんばっていた。ものすごくがんばっていた。そうしてがんばる緋村さんの姿はヤバいくらい胸を打った。緋村さんはいろんなものと戦っていたのだ。動揺とか、抵抗感とか、羞恥心とか、あるいは強すぎる快感とか、思い通りにならない自分の身体とか、どっかいきそうな意識とか。そんなありとあらゆる敵を相手に、四面楚歌的に戦いながら、でも逃げも投げもせずそれらに向き合っていた。おれも最初はいっそ早いとこフェイズツーとかに出てきてもらった方がお互いラクだろうと思ってハイペースにとばしていたのだが、途中でそれはちょっとちがうのかも、と気づいた。
「もうちょっとゆっくりの方がいい?」
こくこくとうなずく汗ばんだ顔が明らかにホッとして見えた。
おれはやっと思い出していた。
ひと月前、生まれて初めて知ったあの感じを。好きな人とするセックスのしあわせを。
そんな大事なことをどうして見失っていたのだろう?
それからおれたちはゆっくり時間をかけてそれをした。
前回ほどではないによせよやっぱりかなりどんくさかったし、それにおれとしたことがありえない下手を打ったりもしたが、そんなこととは全然関係のない次元で、それはとても素晴らしい時間だった。対等で相互的な。二人でキリンを見たり、ニシゴリラを探したり、観覧車に乗ったり、雨に濡れて歩いたりするのとも少し似た。
隙をうかがったりチャンスを狙ったりして悶々としていたこのひと月、おれは何をしていたのだろう。
多分そんな必要はなかったのだ。
自分の欲求しか見えていなかったから、緋村さんの気持ちを見てなかったから、ちゃんと向き合っていなかったから、だから皆目わかっていなかったけれど。
きっとおれは山のようなサインを見逃した。
親愛表現の苦手な緋村さんがおそらく勇気をふりしぼって出し続けていたであろう貴重なサインを。この人に猫の力を借りたいと思わせるほど絶望的に。
静かな寝顔が切ない。
「ごめん」
「……なにが」
てっきり寝てると思ったが目を閉じていただけだったらしい。
潤んだ目で見上げられて、おれは別のことを謝った。
「なんかちょっと止まんなくなっちまって。ごめん」
途中で少し我を忘れてひどくしてしまった。
頭の霧が晴れて我に返ると、緋村さんが全身を強張らせて震えていた。ほっとしたような、泣きそうな顔。震える腕はおれじゃなくシーツを掴んでいた。
「ゆっくりするって言ったのに。ごめん」
もちろんそれから後はちゃんとゆっくりやさしくしたけど。でもきっと怖い不安な思いをさせたはずだ。緋村さんはあんなに一生懸命がんばっていたというのに。
だが緋村さんはおれの頬を引っぱって言った。
「馬鹿。謝るな」
「いーでででで」
「それではまるでおれがひどいことをされたようだ」
「……………」
ああ。
そうだ。
そうだった。
いかんいかん。
わかったつもりが、ついこれまでの感覚で考えてしまう。これは己の欲望を果たすためだけの物理的なセックスではない。どっちかがどっちかをどうにかするとかじゃなく、二人でするものなのだ。
えーっと、だからつまりこういうときは………。
うまい言葉が見つからない。
次は加減するから? いやそれじゃ一緒だ。慣れたら気持ちよくなるから? うわ最悪。それじゃエロオヤジ。
あぐねた末に、おれはまたまったくちがうことを言った。
「でさ。結局、何に酔ったわけ?」
よほど意外だったのだろう。緋村さんはそれとわかるほど意外そうに瞬いた。そして小首をかしげてつぶやいた。
「夏の雨とか、キリンとか……」
そこで珍しく言葉が宙に浮く。
「夏の雨とか、キリンとか? それから?」
「内緒」
などと緋村さんは言わない。
その代わり、べらぼうに濃厚な一瞥をくれて、キュッと口角を上げた。
その目つきがあんまり挑発的だったものだから、男としては到底看過するわけにはいかなかった。