動物園へ行かないかとこの人をデートに誘って、手ひどくやられたことがある。
だからそんな話はしないつもりだった。だが、矢田貝今日太郎がおれの膝にくつろぐ様子があんまり微笑ましかったせいか、あるいは一年越しの念願叶ったうれしはずかし初体験以来ついぞ二度目のチャンスに恵まれずにいるこの一か月でよほど溜まっていたせいか、ついぽろっと言ってしまったのだ。
「そーいやさー、もうすぐキリンの赤ちゃんが生まれるんだってよー」
「キリン? どこで?」
「………」
そりゃそうだ。マサイの村でもあるまいに、普通そんじょそこらでキリンは生まれない。
しまったと思ったが仕方ない。おれは観念して、町はずれにある動物園だと告げた。そして、健康状態さえ大丈夫なら誕生直後から見られること、それはほん数日のうちであろうこと、それらがこの夏休みのあいだ当の動物園にインターンシップに行っている大学の先輩から仕入れた新鮮で正確なネタであることなどを言い足した。
町はずれにあるその小さな動物園は、特にこれといったアイドル動物がいるわけでもない、こぢんまりとした地味な動物園だった。前にうっかり誘ったときは、だからいいかと思ったのだ。人ごみも商業主義も人間中心思考も唾棄する緋村さんだが、こんな朴訥とした動物園なら「むしろ逆にいけるんじゃ?」と思ったのだ。だがそれは誤算だった。生きた動物を「展示」することに緋村さんはやはり異を唱えた。
それだものだから、おれがその沈黙を批判の前兆だと受けとめたのは当然のことだろう。
まさかそんなことを緋村さんが言い出すなど、ありえないことだったからだ。
だがそのありえないことを、緋村さんは言った。
「行く」
へ?
「もう少し詳しくわかるか」
ハイ?
行くって、まさか動物園に?
「グゥルルルルルウゥ……」
膝の上で猫が唸る。大型肉食獣のような野太い声。あいかわらず猫っぽくなく、どこか何かの前兆を思わせる。前兆? 何の?
「左之助?」
「へ」
「キリンの出産が近いのだろう?」
「ああ、おう……」
「そして生後すぐから見ることができる」
「って聞いてる」
「よし」
という代わりに、緋村さんはやたらきっぱりとうなずいた。
「キリンが生まれたら一緒に動物園に行こう」
「え」
「たまにはよかろう?」
緋村さんが何を指して「よかろう?」と言ったのかは定かでない。だがいずれにせよそれが「たま」では描写の控え目すぎる椿事であること、そしておれにとっては願ってもない降ってわいた幸運であることにまちがいはない。
緋村さんとデート。
動物園にデート。
ワッホーイ!
猫は大きなしっぽをくねらせて膝を降り、おれは最新情報を得るべく先輩に連絡を取った。
それから五日後。気温はまだまだ暑いが暦と空は早くも秋、からりと晴れた空にぷっかりと白い雲が浮かぶ、八月最後の日曜日。
きれいに晴れた青空のなか、その不思議で魅惑的な生きものの前に、おれと緋村さんは言葉もなく立ち尽くしていた。
生後二日目のキリン。それは、いついかなるときもクールでスマートな緋村さんをして動揺させるほどに愛くるしい生きものだった。身長はおれと同じくらい。つまり約百八十センチメートル。かたちも模様もしっかりキリンで、しかしサイズだけがものすごく小さい。まるで成獣のキリンをスモールライトで小さくしたような。それにやっぱり赤ちゃんなので線が幼く、そして緋村さんがうっとり指さして言ったように「ツノがねている」のだった。
そう、シカやサイのツノは生後生えるが、キリンのツノは生まれながらに備わっている。ただしぺたりとねている。母親の産道を傷つけないためだ。それが、生後数日から十日も経つ頃には立ち上がってキリンらしい顔になるのだという。
こんなマニアックな情報の出所はもちろん緋村さんだ。そして今回緋村さんが一日を惜しんでここに来たがったのも、実にそのためだったに他ならない。
キリン新生児昨夜誕生、すでに公開中、との報を届けたおれに緋村さんは言った。
「事は急を要する」
「なんで?」
「数日もすればツノが立つ」
「へ?」
「その前に見たい」
「………」
おれは知っている。緋村さんは「少し」が「すごく」の人である。興味が「なくはない」といえば、おれ語翻訳「かなりある」。「少しある」は「すごくある」だ。
その緋村さんがはっきり「見たい」というのである。
「その前に見たい」
どんだけか。
いつも通りのクールな無表情の下で、一体どんだけ焦がれていることか。
それでも表面的にはいつも通りに無表情なのがあんまりいじらしくて、おれは強引に美術館を「本日臨時休館」にさせた。
翌日の月曜なら緋村さんが管理人を務めるこの私設「比古刀剣美術館」は休館日だが、あいにく動物園も休園日である。本来なら休館の影響も動物園の人も少ない平日が望ましいのだろうが、火曜ともなればもう四日目だ。草食動物の成長が早いというなら、何かのまちがいでツノが起きてしまわないとも限らない。
「よし。今から行くぞ。今日は臨時休館だ」
そうはいかない。いくら来館者の極めて少ないマニアックな施設とはいえ、まさか日曜は休めない。
「んなもんかまうか。今はこっちのが大事だろが。こんなチャンスが次いつある。おれが休みつったら休みだ。ほら、準備しろ。行くぞ」
有無を言わさず断固敢行。勝手に戸締まりをして臨時休館の札を出し、置物のようになっていた緋村さんを半ば運び出す勢いで連れ出した。緋村さんは黙然とじーっとおれを見ている。気分を害しているのかもしれない。だがかまうものか。緋村さんのためならおれは何にだってなるのだ。
そんなこんなでやってきたにもかかわらず、仔キリンと対面を果たした緋村さんはとても幸せそうだった。
ごくごくわずかだが頬が染まって、あの不思議できれいなクロマトグラフィーの瞳がキラキラ輝いていた。手を打ってよろこんだり感傷的に熱く語ったりなんかしなくても、ただ黙って立ちすくみキリンを見つめるその表情こそ、内心のあふれる感動をよく語ってあまりなかった。そして、たまらないほど美しかった。
「よかったな、見れて」
「うん」
本当によかった。おれもうれしい。一緒に見られてうれしい。
「ありがとう。きみのおかげだ」
緋村さんはそう言って、首を横向けておれを見上げた。
はじめてのデートは眼鏡屋さんだった。緋村さんの眼鏡とおれのサングラスを買った。あれは去年の九月だった。あのとき誂えたのが、いま緋村さんがかけている、このスマートな銀ぶち眼鏡だ。四角いフレームの奥で瞳がかすかに潤んでる。なめらかな小さい頬が花色に染まってる。ジューシーな果実みたいな唇が、まるでキスでもねだるみたいにゆるんでる。
緋村さん――。
緋村さん。
いけない、こんなところで。人が見てる。
かまうもんか。
あっ……。
………。
ん、ん……。
「緋村さんっ」
「おー! 相楽じゃんかー!」
欲求不満な十八歳の切ない妄想をぶち破って登場したのは、くだんの情報源の先輩だった。
「早えな、おい。今朝電話したとこじゃん。でも正解。絶対早い方がいい。かわいいだろ、キリンの赤ちゃん」
そこまでまくしたててから、先輩はさも今はじめて気がついたとでもいう様子で、緋村さんに会釈した。
「あ、どうも。あなたが相楽の」
おれの――。
先輩が頭の中で思い浮かべたのは絶対別の言葉だったはずだが、賢明にも口に出してはこう言った。
「ともだち。キリン好きの」
先輩は担当の係長さんと園内巡回中だったから長くは話せなかったが、いくつかのアドバイスと自作の園内ガイド虎の巻を貸してくれた。そしてこう耳打ちした。
「あれがウワサの超絶美人の彼氏かー。お前が骨抜きだっつう。うん、たしかにすっげえ美人だ。ウワサ以上に手強そうだけどな。ま、がんばれ」
言われるまでもない。
それからおれたちは先輩の虎の巻を片手にさほど広くない園内をくまなく見て回った。
キリン効果のおかげか、丁寧な園づくりへの正統な評価か、動物園を好かないはずの緋村さんも、今日はこの動物園に対してかなり好意的になっていた。
キリンの赤ちゃんは四度も見たし、うち一回は「キリンさんのごはんタイム」で飼育員さんの話も聞けた。先輩の虎の巻のおかげで、キリン舎とグランドの間にある穴場ポイントから、キリンが水を飲む様子も間近で見られた。黒くて太くて長いぬらぬらした舌におれはどん引きだったが、緋村さんはいたくお気に召したようで、ずいぶん長く熱視線を注いでいた。(あんな淫猥な悪魔のしっぽをあんなに熱っぽく見つめるなんて!)
数字を勉強中のチンパンジーたちも見たし、ジャングルみたいなニシゴリラの檻の前で、どこにいるのか皆目わからないニシゴリラを、伸び上がったりしゃがんだりして二人で探したりもした。あまりの鬱蒼とした茂りっぷりに、「こりゃシロウトには無理」と諦めかけていたら、ちょうどそこへ担当らしき飼育員さんがやってきた。これ幸いと訊ねたところ、なんと飼育員さんも「いやあ、私らにもちょっと」。容易には見つけられないというのだ。そんなん何かってときにどうするんだ。困るだろうに。いや、用があるときはバナナとかを投げてやるとね、どこからともなく出てくるから大丈夫なんですけどね。ほほー、なるほどねー。
シマウマ舎では、グランドシマウマとグレービーシマウマのちがいについて話し(緋村さんが)、グランドシマウマのお尻がいかにセクシーかという点について熱弁をふるった(緋村さんが)。言われてみればまあ確かにグランドシマウマのお尻も悪くはないが、おれにとってはそれよりもグランドシマウマのお尻のセクシーさを力説する緋村さんの夢中な姿の方がはるかに魅力的で誘惑的だったのは言うまでもない。
そんなこんなで小さく地味ながらも丁寧に愛情が注がれた動物園のあれこれを満喫し、ちょうどお昼を過ぎて「人も増えはじめたことだしそろそろ帰ろうか」と言っていたその矢先――。
まさかの雨がおれの頬を叩いた。
「えー、聞いてねえよー。あんなにいい天気だったじゃんかよー」
そう、朝はいたって好天だったのだ。
だが見れば周囲のほとんどが折りたたみ傘を開いている。
ということは、天気予報はこの雨を正しく予言していたのだろう。
そこまで気が回らなかったおれと見かけによらず大雑把な緋村さんは、出かけるにあたって天気予報など調べようともしなかった。
だからもちろん、
「ま、すぐ止むだろ」
おれ予報に根拠はない。
「どっかで雨宿りでもすっか」
「ああ」
という代わりに小さくうなずいて、緋村さんはとあるものを指さした。
「あれがよかろう」
「へ」
「屋根もある。いい雨しのぎになろう」
え、あれ?
いや、まあ確かに屋根はあるけど。雨しのぎにはなるだろうけど。でも先生、あれですか?
「行くぞ」
とも言わずにスタスタと歩きはじめる緋村さん。おれは慌てて後を追う。
っていうか二人であれに? まじで?!
おそるべし先輩の虎の巻パワー。
おそるべし近代史オタクの熱意。
おれは先輩に心から感謝しながら、緋村さんと肩を並べた。
虎の巻にいわく。
――この動物園には、現存する日本最古の現役建造物が三つあります。ひとつはゾウ舎。大正十三年築。ひとつはカバ舎。昭和四年築。どちらも戦禍を生きのびて受け継がれ、今に至るまで現役獣舎として活躍しています。(空調、耐震が悩みのタネ。機能的には建て替え希望)
これら二つが緋村さんを魅了したのは言うまでもない。大正年間竣工の建築物というだけなら他にいくらもあろうが、現役獣舎というのはちょっとない。緋村さんにとっても予想外だったようだ。切り妻屋根の妻面にゾウのタイル画がはめ込まれたゾウ舎の壁に手を当てて、感慨深げに見上げていた。
そして虎の巻が教えるもうひとつの「現役日本最古参級」が、今おれたちが向かおうとしている
竣工昭和三十一年。直径十メートル、高さ十二メートル。カゴはわずか十二個という、かわいらしい観覧車。いまどきの巨大観覧車からすればおもちゃみたいな小ささではあるが、それでもれっきとした観覧車だ。観覧車のカゴは空中の密室。二人だけの密室。デートで観覧車といえば……。
緋村さんっ。
(ギギギーッ……ゆら〜〜〜ん)
いけない、こんなところで。外から丸見えじゃないか。
(ギッ、ギギッ)
かまうもんか。
さ、左之……。
緋村さんっ。
(ギッ、ギギギッ)
んっ……ん、んんっ……。
(ギギッ、ギッ)
あ……ん……。
ンガフーッ!!