・八月の雨とキリンとおれ・ 1 2 3 (全)


<2>

 欲求不満なおれの乙女な妄想はとどまるところを知らない。
 だが事情を知れば誰だってそれも仕方のないことだと思うだろう。
 やっと一年越しの念願叶って一度は思いを遂げたというのに、この夏はじめのあの日以来、キスさえやっとの状態に戻って久しい。そんな一か月の苦行生活で、おれもいい加減ガマンの限界だった。

 あっ! や、だめだ、こんなところで
 だめじゃねーだろ? こんなんなってるくせに。ん?
 あんっ
 気持ちいい?
 あっあっあっ……
 そっか。気持ちいいんだ。ここ? ここも? ……ここも?
 ああっ……! あ、や……左之……あっ
 やじゃねーだろ? 「いい」だろ? 気持ちいいときは「いい」って言えって教えただろ?
 あああっ。や、あっ、だめだ、ほんとにもう……もう……
 もういく? いいぜ? いけよ。見ててやるから
 やっ、いや……あっあっ
 なに、汚すの心配? んじゃ、こうしててやろっか?
 ちょ、や、やだ、汚な……あ、やめ……ああんっ
 ………
 気持ちよかった? ん? だよな。いっぱい出したもんな。かわいいよ、緋村さん。じゃあ今度はおれも気持ちよくしてくれる? ……ここ、座って。口開けて。もっと。もっとだ。もっと。そんなんじゃ入んねえだろ? そう、いい子だ。そのまま、しゃぶって? さっきおれがしたみたいに。そう。舌も使って。んっ……いい、すごくいい。ああ……最高だ……。緋村さん……
 ………
 いくぞ。こぼすなよ。……のんで。だめだ
 ……そう、いい子だ。よくがんばった。いい子だな
 な、今さ、おれのがここを……ずーっと……入っていってんだよな。緋村さんの中に。わかる? 感じる? ここ。な。じゅわーって。
 ……後でこっちにもたっぷり入れてやるからな。
 あん……
 ………
 着いたぞ。降りよう。
 あれ、大丈夫ですか? 酔われました?
 おう、軽く気分悪くなったみたいなんだけどな。大丈夫大丈夫。
 歩けます?
 おう、へーきへーき。サンキューな。ほら、しっかり。あ、ここ段差。気いつけろよ。


「はい、お兄さん、どうぞ乗ってください。あ、そこ段差。あと頭、気をつけてくださいねー」
 が、言われると同時に盛大な激突。
 そう、約束は破られるために、警告は無にされるためにある。気をつけるのはお前だ馬鹿者よ!
 目の前をチカチカさせたままかろうじて腰かけたおれに、緋村さんの声。
「大丈夫か」
 どうだろう。大丈夫じゃないかも。っていうかむしろ中身が。いやそれは元からだけど。
 チカチカがおさまると、緋村さんがおれを見つめていた。
 深く静かな瞳。
 あからさまに心配そうではないが、情感豊かで美しい。
「大丈夫大丈夫。ハハハ」
 ついさっきまで三文アダルトファンタジーな妄想でこの人を汚していたのがうしろめたい。すると、そんなおれをさらにうしろめたくさせるように、
「悪くないものだ」
 美しい瞳をエレガントに外に移して、緋村さんはそう言った。
 わずかに微笑さえ感じさせる面持ち。
 悪くない? って何が? 観覧車? それともデート?
「動物園というのは、もっと人為的で人間本意のものかと思っていた」
 あ、動物園ね。
「今の姿をきちんと見もしないで、先入観で決めつけるのは、いかんな。気をつけているつもりだったが」
 いやでもまあそんなそこまで反省せいでも。
「ありがとう、左之」
「へ?」
「今日、連れ出してくれて」
「……おう」
「自覚があるかどうか知らんが、きみは時に人の思惑を無視して突如強引な挙動を取る」
 う。
「そんなときのきみは人の意見に耳を貸すということをしない」
 む。
「無鉄砲で無計画」
 ぐぅ。
「だが、それは必ずしも不快なばかりではない」
 ………。
 そっとかすかに微笑む、たったそれだけのことがどれだけおれに力を与えるか、きっとあなたは知らないだろうけれど。
 緋村さんの視線がおれから外に移る。
 おれも緋村さんの視線を追って、外を見る。
 窓の向こうでは雨が降っていた。
 夏の終わりのにわか雨。
 ざあざあと世界を打つ雨音が耳に心地いい。
 おれたちはほとんど何もしゃべらず、黙って外を見ていた。
 向かい合って座ったまま、ただ黙ってじーっと雨が降るのを眺めていた。
 それは不思議な情景だった。
 動物園に雨が降る。動物と人間に雨が降る。おれたちはそれを少し上から見渡している。二人きりの空中の密室で。
 おれのお馬鹿な妄想とはまるでかけはなれた世界。
 手さえ触れていなかったけれど、おれは緋村さんをとても近くに感じていた。


 ヤマカンおれ予報に反して(当然ながら)雨はなかなか降りやむ気配を見せなかった。
「濡れていくか」
「それも悪くねえ」
 緋村さんが言い、おれも言った。
 ここから美術館までは歩いて二十分ほどだ。暑い季節でもあり、何より二人の道中だ。一緒なら濡れて歩くのも悪くない。
 小やみになったりまた雨足を強めたりする気まぐれな夏の雨の中、妙にはしゃいで肩をぶつけ合いながら、美術館までの道のりを楽しんだ。
 帰り着いた時には当然ながら二人ともずぶ濡れだ。緋村さんは真っ白いシャツを着ていたから大変なことになっていた。
「緋村さん、すげえびちょびちょ。シャツも透け透けじゃん。エロー」
「お互いさまだろう。先に湯を使ってこい。着替えを出しておく」
 緋村さんの居宅である離れでシャワーを浴びて出てくると、脱衣所に湯上がりと浴衣が揃えてあった(ちなみにここでいう湯上がりとは世間一般のバスタオルではない。ガーゼ生地の大判てぬぐいのことだ。緋村さんちに普通のパイル地のバスタオルはないのだ)。浴衣を適当に巻きつけて縛り、こんなものだろうと思っていたら、交替でシャワーを終えた緋村さんが「なんだその着方は。どれ、着つけてやろう」とおれを立たせた。
「こう?」
 言われたとおりに直立した途端、問答無用で帯が解かれた。
「わあっ」
 紐一本でとめられた布は、それが解かれればパラリと思い切り開いてしまう。おれが思わず叫んだのも仕方ない。浴衣の下は素っ裸だったのだ。(だってパンツはずぶ濡れだった!)
 だが緋村さんは動じない。
 うごくな、とたしなめ、涼しい声でおれに命じる。
「そでの先をつまんでピンと張れ。そう、腕を左右に」
 こ、こうですか?
「姿勢を正して。目線を上げろ」
 つってもこれすっげー気になるんですけど、スースーの下半身。
「……緋村さん?」
「なんだ」
「スースーするんだけど」
「気にするな」
 って言われても。
「こら! しゃんと立て」
 ……ハイ。
「降ろしていいぞ」
 え、腕?
 従順なカカシになったおれに、緋村さんは手際よく浴衣を着付けていった。
 褄を取り、裾を合わせて、腰の低い位置に帯。シュッ、シュッと小気味よい音を立てて差し回し、次いで自分もうしろに回って手早く締める。ギュ、と引き締まる感覚。膝立ちになっておれの腰に腕を回す緋村さんの顔がついさっきまでスースーだった(今も若干スースーしてはいる)下腹部あたりのごく至近に向かい合っている図は、欲求不満もいいとこなおれの下半身には少々刺激が強すぎたが、緋村さんがあんまり手際よく迅速だったので、差し迫った問題に至る間もなく着付けは完了した。
「よし。できた」
 うん、というようにうなずく緋村さん。心なしかご満悦そうにも見える。
 理由は鏡を見るとわかった。
「おお。カッコイイじゃん、おれ」
 うれしくなって振り向くと、緋村さんもうなずいた。
「きみは何を着てもさまになる」
「惚れなおした?」
 とでも言ってやろうとしたのだったが、しかしおれもその時になってようやく気づいた。遅いといえばあまりに遅いが、それまでいきなり剥かれたりカカシにされたり密着されたりして、とてもそこまで目が届かなかった。というかむしろ目を逸らす方向だったのだ。だからおれがその時まで緋村さんの姿をよく見ていなかったのは致し方ないと思う。
 緋村さんも浴衣を来ていた。濃い藍の少し色褪せた浴衣は、実に自然に緋村さんの身体になじんでいた。いつもの洋服とちがってスッと直線を描く浴衣のラインは細くしなかやかな身体を涼しげに簡略化していて、その立ち姿の潔さは水墨画か浮世絵のように水際立っていた。緋村さんこそ何を着ても何をしてもサマになるってんだコノヤロウ。
 こうしておれは幾度でも緋村さんに惚れなおす。

 午後もまだ早い時間だというのになんだか夕方じみたまったり感に包まれて縁側に座った。
 雨は静かに降りやみつつある。空がさっきより明るい。その刹那的な仄明るさが黄昏を思わせるのかも。今日ってこの流れだとさすがに泊まってけるのかな。それでもけじめがどうとかって帰らされるのかな。でも。ついほのかな期待が沸いてしまう。期待というか、煩悩というか、下心というか、ムニャムニャムニャ。
 膝には猫。マイケルだ。おれは彼に意識を集中し、欲望から目を逸らそうとした。
 ここに住む四匹の猫の中で、実はこいつが一番気分屋だ。特に人に触れられることに対して気まぐれで、気分がよければ腹を見せてもっともっとと求めつづけるくせに、気が乗らなければ手を伸ばしただけで逃げてしまう。おおむねいつでも大人しく触れさせる谷田貝今日太郎や、最初は必ずじゃれつくもののしばらくするとこれまた必ずうっとり四肢を投げ出して従順になるクロのようには決まった反応を返さないのでむずかしい。
 うん。今日はいい感じだ。みよーんと伸びてわきを見せている。これはマイケルがリラックスしている兆候。では第二段階へ。前肢のつけねを親指でくりくり。
 そのときだ。
 それまで必死になってなんとか逸らしていた意識がいきなりそっちに突進してしまったのは。
 どっちって決まってる。
――ああ、これが緋村さんなら。
 一度いってしまうともうダメだ。とどまるわけがない。
 緋村さんはマイケルよりもっとずっとむずかしい。けどおれなら絶対緋村さんを気持ちよくしてやれる自信がある。そう、絶対だ。最初は頭と背中。はずかしがりでスキンシップに慣れない緋村さんも比較的大丈夫なゾーンだ。ゆっくりそーっと撫でて、背中がほぐれるまで。それから肩。腕。首と耳。耳のうしろ。腹と足はむずかしい。けどその分どっちもとても感じるところでもある。だからその頃にはもうトロトロのエロエロで、快楽に身を委ねてされるがまま。熱く吸いつく肌。ジューシーな唇からもれる濡れた吐息。かすれた喘ぎ声。しなう白い背、乱れた髪。やがて溶けきった瞳がおれを見て、――さの……早く……。

 フンガー!



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