―faraway,so close!― 1 2 3 (全)

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* 11 *

 彼は深い深い眠りの底にいました。
 気がつくと、すぐそばにあの人が立っています。
 ああ、あの夢だ、と、彼は思いました。
 横たわる彼の傍らにあの人がじっと佇んでいる夢です。
 ときどき見る夢でした。
 その夢のなかで、その人はただただ彼を見つめています。海と空の深いまなざしを注ぐばかりで、もの言いたげに緩んだ唇は、言葉はおろか、かすかな音さえも発することはありません。彼もまた、かすかに向こうの景色の透け見えるおぼろな姿を、ひた見つめに見つめる以外にできることはありません。
 たったそれだけの、けれどかけがえのない夢です。深い眠りの夢の中の、そのまた深い眠りの底にいる時にしか見られない夢です。目覚めて戻る先が独りきりの世界であっても、どんな夢よりも夢のような、宝石のような時間です。
 その姿の全てを記憶に焼きつけようと、瞬きも惜しんで目を凝らしていた彼は、その人がゆっくりと腕を上げるのを見てたいそう驚きました。夢の中のその人がそんな風に動いたことなど、これまで一度としてなかったからです。燃える夕焼け色の髪がさらさらと流れる音や、ゆったりとした僧服の衣ずれの音さえ聞こえます。けれどその身体はやはり少しおぼろで、向こうの景色が透けて見えています。
 一体どうなっているのでしょう。
 それだけでもうこれ以上ないほどに驚いていた彼は、桜貝のようなつややかな唇がふわりと開くのを見てますます驚き、思わず起きあがろうとしました。
「………!!」
 その瞬間、ものすごい激痛が彼の全身をがんじがらめにし、呼吸を奪いました。
 彼はびくとも動けず、ただひたすら息を詰めて痛みが去ってくれるのを待ちます。身体を動かした拍子に仔鹿の頭がずり落ちてしまったことにも気づいていないようです。
 その様子を見て、傍らに立つその人が、(はなびら)の散るように膝を折りました。
「なんという」
 美しい声でした。
 音もなく降る雪のような、透きとおった朝つゆのような、悲しいほど美しい声でした。
「なんという忌まわしい呪いを、私は、お前に」
 その人の瑠璃色の目は、秋の空を映す湖のように澄んで、深い悲しみの底に沈んでいます。彼がゆっくりと身体を持ち上げ、胴を串刺しにした岩から身を引きはがすのを、じっと見つめています。一体どれほどの激痛が彼を襲っているのでしょう。眉ひとつ動きはしませんが、逞しい首筋はびくびくと震え、額にはぎらつく脂汗が噴き出しています。
 どれほど経ったでしょうか。
 ぽかりと開いていた腹の穴はいつしか塞がり、苦痛を押し殺して細く絞られていた息もやがてため息にも似た開かれた呼吸に変わっていき、そしてなおしばらく沈黙が続いた後で、彼は静かに微笑んで言いました。
「やはりあなただったか。あの夜、俺を呼んだのは」
 目はその人に向けたまま、彼の手が仔鹿の顔をすくい上げました。血を吸ったどす黒い地面同様、細い鼻面も白いのどもごわごわに固まっています。くったりと力のない頭を腹に乗せると、小さな命のぬくもりが彼に自分のいるところを教えてくれました。
「なにひとつ忘れはすまいと思ったが。そうか。よりにもよって、よもや声を忘れたか」
 それを聞いて、その人はまたはらはらと涙をこぼしました。
「なぜ泣く」
「業の深さに。己れの罪深さに。お前の自由を願ったはずが、私がお前を永遠の鎖につないだ。死という免罪と解放を奪ってしまった」
 その人の目からは、朝つゆのような雫が尽きない湧き水のようにこぼれ続けます。
 しばらくして彼が空を仰ぎました。
「あなたの言った通りだった」
 その人も顔を上げ、彼の視線を追って上を見ました。
 二人の頭上には、険しい谷に切り取られた空の帯がかかっています。空は海のように青く、太陽のように輝いています。
「あなたが何を言いたかったのかが、今ならわかる」
 空は広く高い。
 鉄の鎖と名前の鎖から解放され、慌てふためく人間達を尻目に初めての自由の空に舞い上がったとき、彼はその言葉の意味をようやく理解しました。
 諭すように、哀しそうに、その人が言わんとしていたことは、自分の意志で翼を動かしたことのある者にしか、本当には分かり得ないことだったのです。
「世界は美しい。生命は限りない。今ならわかる。あなたが俺に自由と命を与えてくれたからだ。どうすれば翔べるかを教えてくれたからだ」
「私ではない、お前だ。お前が自由なる者だったのだ。翔ぶべき者だったのだ。私には天の裁きさえ過分だった。塔の中で朽ちさらばえる余生が相応しかったものを」
 破戒僧に下る天の裁き。
 その凄まじい光景は、彼の記憶と網膜にくっきりと焼きついています。
 土色の僧服も、燃える夕陽色の髪も、新雪のようなぬける肌も、すべてが返り血に浸っていました。時間が経って黒ずんだ上に新しい血がかかってぬらぬらと赤く忌まわしく光り、その中で金色(こんじき)の瞳だけが何にも侵されずに輝いていました。
 振り返らずに去れと言った自分の言葉に逆らって舞い戻った彼をその人の金色の目が怒りの刃で刺し貫いたとき、彼は何が起こったのかを知りました。見ずとも聞かずとも、一瞬にしてすべてを理解しました。
 その人は、不殺(ころさず)不偽(いつわらず)不裁(さばかず)を天に誓う僧籍の身でありながら、一生を清浄と正義に捧げた高僧でありながら、王家を導く叡智の声でありながら、王家に飼われる一羽の鷹を解き放つために、彼の肉体と名前を支配する者を絶やすために、たったそれだけのために、戒律を破り、禁忌を冒したのです。
 つよい魂をもつ鷹よ。誇り高く、自由であれ。振り返らずにどこまでも翔べ。
 なんということでしょう。
 そう言ってその人が唇で羽根に触れたとき、あんなにも不吉な胸騒ぎを覚えたのは、この事あるの予感だったのでしょうか。
 そして皮肉なことに、彼の口から迸った悲鳴が瀕死の鷹匠の命を呼び戻し、鷹匠に最後の力を振り絞らせてしまいました。
 殺せ! お前の爪とくちばしでそれを始末しろ!
 絶対の力で彼を支配する鷹匠の命令にどうして逆らい得たのか、彼の脚はぎりぎりで向きを変えました。けれど進路を完全に変えるには至らず、避けきれなかった右の爪が血に濡れた美しい頬をかすめました。
 四つの爪の先が滑らかなものを切り裂いた残酷な感触は、彼を射抜いた黄金のまなざしと共に強く焼き付き、どれほど長い年月が過ぎても生々しさを失うことはありませんでした。
 鷹よ、死ぬな。世界はお前のものだ。生きろ。どこまでも自由に。
 ふわりとやさしく笑ったのを最期にその人は持っていた剣を天に突き刺し、それに応えるように上空から一条の稲妻が落ちました。太陽の欠片が落ちたのかと思うほどの閃光と轟音でした。
 そしてそれらが消えた後には、大きくえぐられた地面の穴だけが残っていたのでした。



「ああ、あなただ。本当に。やっと」
 彼はまだじっと横たわったまま、しみじみと深いため息のような声を漏らしました。
「待っていた。俺は、いつかきっとまた逢えると。必ず再び逢える日があると、そう思って、だから……」
 昂ぶった口調で言い募った彼が、そこで息切れしたように息をつぎました。
 それを見守る人の目から、一度は止まっていた涙が、またはらはらと零れだします。
「待っていたというのか。こんなにも長く」
「だが俺は自由で、待つ人があった。森も空もあった。鳥も獣もいた。世界は美しく、生命は限りなかった。待つことは、苦ではなかった」
「それでも長すぎることに変わりはない」
 その間に国は滅び人も絶え、星には火の雨が降り、やがて凍てつく冬の時代が訪れました。星の反対側では大地が割れて海ができ、山ができて、また崩れました。
 かつて人間たちが築いた建造物もほとんどが失われました。その人がずっと閉じこもっていた石の塔だけが、溶樹にびっしりと覆い尽くされながらも、むしろ溶樹に守られるように、今も奇跡的に塔の名残を留めているのみです。
 その間に彼は空の星の死さえ看取りました。その星は昼でもまばゆいほどの光を放って消え、その後にはカギ型の星雲ができました。
 気がつくと彼は鷹から人間に変わっていました。
 いつか彼の待つその人と再会できたときに言葉が交わせるようにと、稀に現れる人語を話す鳥や動物が彼に人の言葉を教えました。覚えた人語を忘れないようにと、種族も世代も時代も超えて、さまざまな生き物が彼の話し相手をし続けてきました。
 やがて、人間が滅びた後に新しくできた不思議な生態系が、外の人間の関心を呼びました。この星に特有の変わった動物や植物や現象がたくさんあったからです。最初、彼らは珍しい生き物や事物を持ち去ろうとしました。しかし彼がことごとくそれを阻止し、長い攻防の末に不可侵の約束がなされました。外来の人間には、立ち会いの下での観測だけが許されました。
 星の生き物たちは、親から子へ、子から孫へと彼の物語を語り継ぎ、星じゅうの生き物が彼を支え、彼の幸せを願ってきました。
 彼が星とみんなを守っているように、みんなもまた皆で彼を守り続けていたのです。


「なんという」
 そう言ってその人はまた泣きます。
「私が死ぬなと言ったばかりに。どこまでも生きろと、愚かな望みを口にしたばかりに。名前の約定に縛られて、お前は死ぬこともできずに、今日まで」
 美しく貴い涙が次々と僧服に散っていくのを、彼はじっと見ています。
「こんなにも長く。あなたはさっきそう言った」
「言った」
「では、あなたも同じだけの時間を見てきたのか」
 その人がゆっくりとまばたく度に、まつげに留まっていた小さな水滴が宙に散ってきらきらと光ります。
「お前を」
 長い沈黙の後で、涙に赤らんだ二枚の葩がそっと開きました。
「ずっとお前を見ていたよ」
 彼は黙ってその人を凝視し続けます。話の続きを待っているのか、驚いて声もないのか、その様子からはどちらとも判りません。
「どことも判らないどこかから。遠い遠いどこかで、ずっとお前を見ていたよ」
 それを聞いて、彼は遠い目をしました。小さな声に耳を澄ませるように小首を傾げ、ゆっくり何度かまばたきました。
「そうか。だからだったのか。いつもあなたが傍にいるような気がして仕方がなかった。どこかすぐ近くにいるのではないかと。振り返るとそこにあなたがいるような気がして」
 今度その人が再びはらはらと泣き出したのは、自分のいるあたりを素通りしていると思った彼の視線が、本当はまさに自分を探していたのだと知ったためでした。
 彼がふとなにか思い出したように笑って言いました。
「そうも泣くな。せっかくのきれいな目が、全部とけて流れてしまう」
 泣くなと言われて余計に涙を溢れさせる人を見つめながら、彼が仔鹿の耳をぷるぷると揺すります。
「ここにいたのか。それとも今はこれがあなたなのか」
 訊ねられて、その人の泣き濡れた目が仔鹿に向けられました。
 薄暮の陽射しのように温かいまなざしが眠る仔鹿の顔に注がれ、すきとおる水の結晶のような、そして本当に少し透ける手が、小さな額のあたりを撫でる仕草で行き来します。実体のないその人の手は本当に仔鹿を撫でているわけではありませんが、それでも何かを感じるのか、仔鹿の長いまつげがぴくんと動きました。
「おさない命というのは、なんと愛おしいものだろうか」
 溢れて止まらない愛おしさをそのまま声にしたような優しい声で、その人は呟きます。
 仔鹿は憔悴した様子で眠り続けていて、血に固まった柔毛はすっかりばりばりになっています。
「この仔の目に、世界は輝きに満ちている。見るもの聞くもの、全てが新しい。朝、目を覚ます。どんな楽しいことがあるか、どんな素晴らしい日になるかと、嬉しくて仕方がない。よい天気だとわくわくする。曇っていると冒険の予感。雨だと優しい気持ちになる。……私まで、なる」
「いつから? はじめから? それとも途中から?」
「さあ、どうだろうか。最初は頭がぼんやりとしていた」
 ぽつりぽつりとその人は話を続けます。夢から醒めたばかりの人が夢を語るようでした。
「目の前にかすみがかかったようで、何も判らなかった。それから、身体が重いことに驚いた。身体が重い(・・・・・)など。今の私にはありえないことだ。長く……漂ったが、そんなことは初めてだった。さてどうしたものかと思っていると……」
 言葉を途切らせたままの静かなまばたきが両手の指の数をすぎ、彼がそっと口を挟みました。
「いると?」
「名を呼ばれた」
「………」
「名前と、生きる力と、糧を。与えてくれる人があった」
 ふた色の瞳にお互いの姿が映ります。一方は鳥から人になり、一方は人から人でないものになりましたが、完全な夜の闇の瞳と、空と海の青の瞳は、互いの姿を見失うことなく捉えています。
「後は、お前が知っていよう。こんなことになるとは思わなかったが」
 とても長い沈黙がありました。
 そして恐る恐るといった様子で、彼が片手を持ち上げました。
「触れていいか」
「叶うまい。私もお前たちには触れられぬ」
 そう言ってその人が仔鹿の顔のあたりに手をかざします。やはり下にある仔鹿の身体がわずかに透けて見えています。その細い手の上に、彼が血と土にまみれた手を重ねます。触れられないことを恐れるように少し離れたところでしばらく止まり、やがてためらいがちに降ろしていった手は、その手と同様に血と土にまみれた仔鹿の額を包みました。触れられたことを感じてか、仔鹿のまぶたと耳がぴくぴくと動きました。
 彼は無言で何度か手を上下させ、その度に仔鹿のまぶたと耳が動きます。
「あなたに触れたい」
 言っても仕方のないことです。その人の美しい瞳に哀しい色が深まるだけです。それでも彼は言わずにいられませんでした。
「あなたに触れたい。やっとこうして言葉が交わせるというのに」
 そうして彼がその人の名を口にしかけたとき、彼の唇の前にすっと指がかざされました。
「呼んではならぬ。その名は私を支配する」
 それが仔鹿の真実の名だからでしょうか。仔鹿と何かを共有する身にも、その名は力を及ぼすのでしょうか。やはり彼らは互いに影響し合う関係にあるのでしょうか。仔鹿が荒れ野で調査隊の人間を殺めかけたとき、彼があんなに必死に仔鹿を制したのも、万が一にもあの人の不殺の戒律が仔鹿をも縛っていないとは限らないと考えたからでした。
「そうではない。それは本来の私にも真実の名前なのだ」
 それを聞いた彼は驚きました。しばらく口もきけずにその人を凝視しました。
「……そんな馬鹿な。まさか。だが衆知だったではないか」
「そうだ。私は大きな罪を犯した。それを償うために僧籍に入った罪人だった。私の名はあらゆる人に曝されていた。私はあらゆる人の下僕だった」
「馬鹿な」
「人に乞われれば否やはなかった。愁訴も乞丐(きっかい)も私には命令だった」
「非道な。なぜそんな」
「何故もなにも、私はそれだけのことをしたのだよ。非道というなら私こそ」
 怒りに目を山吹色に染めていた彼が、ふと思い至って叫びました。
「だが、だがではなぜあのとき……!」
 言いよどんだ言葉の切れ端が、虹の谷に響いてこだまします。
「あなたが……あなたが俺を解放してくれたとき……」
 名前の鎖にがんじがらめにされた身で、その名を支配する相手と闘うことなどできるはずがないのです。そのことは彼も身をもって知っています。どうしてそんなことが為され得たのでしょうか。
 けれどその人は何とも答えず、静かに微笑するばかりです。
 甦って間もない彼の身体はまだ本調子ではありません。激したせいか、息が上がり、額に脂っぽい汗が浮かんできました。
「少し眠るといい」
 今の自分に休養が必要なことは彼も知っています。けれど、眠って起きたときに、もうそこにその人はいないであろうこともまた知っています。
 彼の節ばった指が、空を掻きます。
 気の遠くなるほどの長い間この星を守り続けてきた手が、むずかる赤子のそれのように、やみくもに空を掻いて土を掴みます。
「頑是のない」
 苦笑混じりに言われて、彼は手を止めました。
 淡雪のような微笑が滂沱の涙よりも哀れに見えるのが不思議でした。
「お前をずっと見ているよ。いつも。いつでも」
「姿も見えず、触れも得ないほど遠くでか」
「だが誰よりも何よりもそばにいる。お前のいるところが私の居場所だ。お前のいるところには私もいる」
 彼はしばらく眉を苦く寄せていましたが、やがて仔鹿を抱え直して目を上げました。
「では俺は待とう」
 低く静かに、囁くように、まっすぐその人を見上げて彼は言います。
「俺は自由で、森があり空があり、鳥も獣も虫も魚もみんないる。世界は美しく、生命は限りない。のぞみがあれば、待つ時間は苦ではない」
 その人に約しているようであり、自分に言い聞かせているようでもあり、周囲のなにものかに向かって宣言しているようでもありました。
「一度あったことなら、きっとまたある。………二度出会えた奇跡のように」
 二度?と独りごちて訊ねる目に、夢見るような彼の声が答えます。
「“いのち強くあれ。こころ強くあれ。世界がお前に優しくあるように”」
「……まさか。覚えているのか。だがお前は生まれて間もない雛だった。目も開く前の」
―――鳥よ。幼い者よ。生きろ。いまだ弱き未来の王よ。私の命をお前にやろう。生き抜け。私の命と名にかけて。
「俺の一番最初の記憶だ。俺はあのときからあなたのために生きている」
「………」
「また会おう。いつか必ず。今度こそ同じ世界で」
 もう彼の顔に苦悩や焦慮はありません。力強い眸には静かな希望が深く沈んで、嵐が過ぎた後の夜空のように輝いています。それを見返すその人のおもてにも悲哀と慚愧はもはやなく、毅然とした眸は夏の湖のように澄んだ光で満ちています。
「私は、いつも見ていよう。お前とこの子を。この子の中で。この子と一緒に」
 ふたりの視線が混じわったまま仔鹿のうえに注がれ、優しくあたたかい沈黙が訪れました。
 やがて彼は大きく息を吐いてゆっくりと目を閉じかけましたが、ふと思い出したように顔を上げました。
「ひとつ教えてくれ。なぜあなたはそうまで俺にしてくれる」
 その問いかけがよほど思いがけなかったのか、その人はびっくりした顔で彼を見つめました。きれいな目が驚いた子どもの無心さでぱちぱちと瞬きます。上下のまつげがぶつかる時のささやかな音さえ聞こえそうでした。
「兄弟の中で最も小さく弱かった俺に、名ばかりか命を与え、そして後には自由まで。そのためにあなたは……。どうしてそこまで」
「さあ。どうしてだろう」
 その人は幼ない子どものように首を傾げながら、つぶやき声で「ただなんとなく」と二度繰り返しました。
「なんとなく、そんな気がした。この生命は自分が守らねばならないのだと。何に代えても、世界の全てと引きかえにしてでも損なってはならないのだと。そんな気がした。ような気がするが……。どうかな。それももうずいぶん昔のことで……」
 忘れたな、と、からりとした口調で言って、その人は晴れやかに笑いました。
「過ぎたことはいい。いずれにせよ、朝になれば日が昇り、夜になれば星が光り、春には新しい生命が芽生える。ならば私たちはまた逢えよう」
 日は昇り、日は沈み、星が光り、生命が生まれる。雨は空から降り、木は大地に根を張り、風は空を渡る。それは世界が生まれたときから変わることのない約束です。ふたりが出会ったこともまた同じなのでしょう。
「おやすみ。私の幼い鷹よ」
「また、いつか」
「いつも共にいる。お前のいるところに私はいる」
「俺の心はいつもあなたの上にある」
「子どもを苛めるなよ。この仔にはお前がすべてなのだから」
 彼が最後に見たのは、夏の風のように笑うその人の姿でした。
 どこも変わったところはありません。
 やはり夢のように美しく繊細で、やはり少し向こうが透けて、今にもはらはらと消えてしまいそうに儚い姿です。けれど何かがちがいました。夜つゆに濡れた花が朝日に目覚めて深呼吸をした後のようです。清々しく輝きはじめた新緑のように、力強く生き生きとしています。
 初めて見る人のようだと思いました。そしてまた、ようやく本当のその人に逢えたようにも思いました。


* 12 *

 彼は柔らかな眠りの中にいました。
 あたりは仄明るく、ざわざわと騒がしい気配がします。
 様子が見たかったのですが、まだちゃんと目が覚めていないらしく、目が開きません。
 身体が揺すられ、声が聞こえました。
―――これでは生きられまい。連れて行け。三羽あればいい。
 ひゅうっと冷たい風が孵化したばかりの濡れたおなかを撫でました。彼は怖くなってもがきました。
―――いいえ、なりません。それはなりません。
 またぬくもりに包まれました。さっきよりも柔らかく、さっきよりも温かく、さっきよりもいい匂いがします。
―――この仔は生きます。だれよりも美しく雄々しく育ちます。なによりも気高い魂を宿しています。
―――そのように貧弱で醜いひながか。
―――王よ、あなたは何も見ていない。鳥よ。幼い者よ。生きろ。いまだ弱き未来の王よ。私の命をお前にやろう。生き抜け。私の命と名にかけて。
―――浅慮。そんなものに命をくれてやるとは。
―――王よ、あなたにはわかるまい。幼い鷹よ。私の鷹よ。いのち強くあれ。こころ強くあれ。世界がお前に優しくあるように。
 美しい声が彼に降り注ぎます。
 自分を包むあたたかく優しいものが何であるかを、どんなにか見たかったことでしょう。
 けれどやはり目がうまく開きません。
 彼は全身で耳になりました。
 そして、光のようなその声をひとしずくたりとも逃さないように失わないようにと必死に頑張りながら、柔らかな沈黙にゆっくりと沈んでいきました。


* 13 *

 先に仔鹿が目覚めました。すぐに彼も目を覚まし、ふたりは連れ立って家に帰りました。途中の川で身体をきれいにして、濡れた髪や毛を乾かしながら帰りました。
 帰り着いた頃には、あたりはもう真っ暗です。
 ふたりはすぐに寝床に入り、翌日の夕方までぐっすり眠りました。
 今度は彼が先に起きました。
 岩屋の中は、はちみつ色の甘い夕陽でいっぱいです。仔鹿は彼の脇に身体を丸めて、気持ちよさそうに寝ています。すうすうという寝息につれて、きれいな弧を描いた背中が規則正しく上下し、夕陽をきらきらと反射します。
 彼は眩しそうに目を細めました。
 なんと長い一日だったことでしょう。
 眷属の雀鷹(つみ)の報せを聞いて虹の谷に向かって飛び立ったのが、何日も何か月も何年も前のことのようでした。
 果てしなく長い長い旅から帰ってきたような心持ちがします。見慣れた岩屋をしみじみと見回していると、仔鹿がもぞもぞと頭をこすりつけてきました。目覚める気配はありませんが、なすりつける動きが次第に癇性になっていきます。悪い虫でもいるのかと思って手を伸ばした彼は、仔鹿の身体に起こり始めている変化に気付きました。
 角です。
 角が生えようとして、仔鹿の額の柔らかい頭皮を下から押し上げつつあるのでした。
 あの人が言った通りです。
 幼い命のなんと愛おしいことでしょう。
 あの小さかった仔鹿が、いつのまに角が生えるほどに成長していたのでしょう。
 かりかりと掻いてやると、仔鹿の耳が気持ちよさそうにぷるんぷるんと動きます。
 そうしている様子は、風に怯えて彼の胸を小さなひづめで打ったあの頃と何も変わらないようにも見えます。けれどそのひづめは今では人間を殺すほどの力を備えています。いろんな経験を積んだ今の仔鹿なら、岩山の強い風を怖がることもなく、断崖の鷹の巣ででも不便なく暮らせることでしょう。
 掻く手を止めると、仔鹿は鼻にしわを寄せて額をこすりつけてきます。彼は少し空腹だったのですが、外に食べ物を取りに行くことを諦めました。かわりに天井に吊ってある木の実の束から実をいくつかもぎ取り、寝床に戻りました。そしてその実を囓ってだましだましに空腹をなだめ、仔鹿の額のかすかな突起のあるあたりを痒がらなくなるまで掻いてやりながら、彼もまたそのまま眠りに落ちていきました。


 次の日の朝早く、彼は仔鹿に叩き起こされました。
 仔鹿は彼の上にまたがって両の前脚でゆっさゆっさと彼の肩を揺すっています。
 何事が起こったのかと驚いた彼でしたが、何のことはない、お腹が空いたから早く森に出かけようというだけのことでした。
 丸二日も眠り続けていたのですから当然です。実際、彼も前夜から空腹だったのです。
 ちょうど彼のお腹もぐうと鳴り、仔鹿が我が意を得たりとばかりの得意げな様子をしました。そして大きく跳ねて勢いよく外に飛び出すと、もう後も見ません。
 彼はあのひとが最後に言ったことを思い出しました。
―――この仔にはお前がすべてなのだ。お前が笑っていると楽しい。泣いていると悲しい。優しくしてもらえると嬉しい。酷くされると、まるでこの世の終わりだ。可哀想で見ておれぬ。私ならあれほどの哀しさには耐えられない。
「………甘やかしすぎたか」
 彼は眉をしかめて渋い顔をつくりましたが、それも長くは続きません。夕焼けの懐かしい空を見上げるときのように目を細めて、しなやかに駆けていく仔鹿の後を追いました。



 森ではみんなが二人を待っていました。
 彼が虹の谷から仔鹿を助けて帰って来たことはすでに森じゅうの知るところでした。
 荒野のときにもそうだったように、皆はただただ二人の無事を喜んでくれます。そして荒野のときにそうだったように、仔鹿は皆に心配をかけたことを詫び、心配してくれたことを感謝しました。
 仔鹿は柔らかい草をたっぷりと食べ、新鮮な清水を飲み、熟れた果実を吸い、栗鼠の子が取ってくれた木の実をかじりました。彼も果実や木の実や何やかやを食べました。
 仔鹿がすっかり満足した頃、彼が仔鹿に言いました。
「いいところに連れて行ってやろう」
 先に立ってずんずん進む彼についていきながら、仔鹿が何度か彼を見上げました。
 ですが彼は、
「いいところだ。お前の好きなものがたくさんある」
 と、思わせぶりに笑うばかりです。
 ほどなく二人は小さな花畑に到着しました。森の中にぽっかりと開けた小さな花畑です。
 仔鹿はびっくりして目をぱちくりさせました。
 こぢんまりした花畑ですが、そこには大輪のらっぱ草が豊かに生い茂って立派な花を咲かせています。そしてそこは仔鹿が自分だけしか知らないと思っていたあの秘密の花場なのです。あの日、仔鹿は彼にらっぱ草の花の美味しさを教えてあげようとこの花畑でとりわけ立派な赤紫色の花を選び取り、そして二人はけんかをして、あの恐ろしい事件が起こったのでした。
「すごいだろう。ここの花は旨いぞ」
 彼は仔鹿が驚いているのを花畑の豊かさのためだと思っているようです。
「少し前に見つけたが、お前はまだ小さかった。いずれ大きくなったら連れてきてやろうと思っていた」
 彼らの森からここへ抜けるには、途中で少し険しい崖を過ぎなければならないからです。たしかに子どもの脚には難しい道で、仔鹿はいつもそこを通る度に怖い思いをして冷や汗をかいていました。
「ほら」
 彼が花を摘んで仔鹿の鼻先に寄せてやり、仔鹿はまだ驚いた面持ちのまま彼を見上げます。小首を傾げた仔鹿が澄んだ目をぱちぱちと瞬くと、豊かに長いまつげがハサハサと羽根の降るようなささやかな音を立ててぶつかりました。
 それを見た彼は、あ、というように動きを止め、仔鹿もまたハッと我に返って口から蜜を吸いにいきました。弾力のある花の根元には蜜がたっぷり詰まっていました。とろりと濃厚で、独特の爽やかな香りが口いっぱいに広がります。伸ばした咽喉が小さく動き、水色の目が細まって、仔鹿の表情は夏の風のように気持ちよさそうにほころびます。
 彼は突然仔鹿にしがみつきました。何の前触れもなく、まだ鹿の子模様がくっきりとある朝焼け色の背中に顔を埋め、しなやかな身体をすがるほどに強く抱きしめ、すっかり動かなくなりました。
 当惑した仔鹿が首筋を擦りつけてもぴたりと動かないままです。
 仔鹿も動きを止めました。
 しばらくして彼の背中が小刻みに震えだしました。
 仔鹿が気遣わしげに咽喉を鳴らします。
「なんでもない、なんでもない……」
 そう繰り返しながら、彼は繰り返し頭を振り続けます。
「大丈夫。大丈夫だ。何も……悲しくはない。寂しくはない。何も辛いことなど……俺は……」
 仔鹿の背中の天鵞絨をあたたかいものが濡らしていきます。彼の背中もあたたかいもので濡れていきます。
 やがて二人はまた少し険しい崖を抜けて森に戻り、川で水浴びをして遊び、木陰で少し昼寝をしました。
 まだ湿り気の残る彼の頭につぐみのひなたちが留まってキュイキュイとさえずります。
 とろとろとまどろんでいる仔鹿のうなじを牛突々(うしつつき)が掃除しながら掻いてやります。
 そこへ大鷲の夫婦が大粒の黒すぐりの実をくわえてやってきました。そしてふたりが寄り添いあって眠っているのを見ると、黒すぐりの実をそっと地面に置いて、羽音を忍ばせて去っていきました。
 森の薫りの風が二人にそよぎ、透明な木もれ陽がきらきらと降り注ぎます。
 世界は今日も平和です。




了/2006.05.26
前頁拍手


拝呈 「臥待月」佐倉裕さま

弊サイト50,000hit感謝企画のキリリクで書かせていただきました。エキサイティングなお題とシカミミと出来上がりまでのお付き合いありがとう! 一緒に見守ってくれた椿ちゃんにも感謝。呆れてご笑納いただければ幸いですm(_ _)m  ようこ拝










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