―faraway,so close!― 1 2 3 (全)

faraway,so close! 〜世界の約束〜


 その星に、彼はひとりでした。人間は彼しかいませんでした。けれどその星には山があり海があり、森があり川があり、たくさんの鳥や獣や虫や魚たちがいました。生き物たちは豊かな自然のなかで自由に生きていました。
 彼は他のどんな獣たちよりも強い力を持っていました。身体は鋼のように硬くしなやかで、四肢には岩を砕く力があり、黒い目の光は炯々としています。怒ると黒目の中心が小さくなってふちに細い山吹色の輪ができ、こわがりの小さな動物など、その目で見られただけで、射抜かれたように気絶してしまいます。
 そんな恐ろしい存在で、しかも人間だったにもかかわらず、星じゅうの生き物が彼を尊敬し、慕ってもいました。それは彼がこの星を守っていたからです。
 ときどき、よその星から人が来るとき、この星でただ一人の人間である彼は、その外から来た人間達がひどいことをしないよう見張りの役目をしました。
 この星に入るには厳しい審査があり、許可のない人間はやって来られません。ですから、ほとんどの入星者は決まりを守って珍しい植物や見たこともない動物や不思議な自然現象を見学したり写真や映像を撮ったりするだけで帰っていくのですが、それでも中には、動物を殺そうとする人間や、ときには生き物や星の一部を採って帰ろうとする人間さえ、ごくまれにはいました。
 彼はそんな事を決して見逃さず、そしてそんな事をする人間を絶対に許しませんでした。
 彼の吼える声が森じゅうに恐ろしく響くとき、動物たちは、また誰かが何か許されない事をしたことを知り、それにふさわしい報いを受けていることを知ります。その叫び声を聞くと、大きな動物や強い生き物は、彼の味方をするために集まってきます。小さな動物たちは震えて姿を隠します。彼はとても強かったので、ほとんどの場合、ひとりで全てを終えてしまうのですが、相手の数が多いときは、みんなが手伝うこともありました。
 そんな風にして、この星の平和は守られていたのでした。


* 1 *

 ある日のことでした。
 彼は森で一羽のひなに出会いました。
 これまでに見たことのない黄金色の火食鳥(ひくいどり)でした。
 父鳥にはぐれたのでしょうか。おなかを空かせて、今にも死にそうな様子です。孵化して間もない幼い身体は、やわらかそうな細やかな綿毛に覆われています。けれど、ずいぶん衰弱しているらしく、ひなは細く長い首をぐったりと地面に横たえ、もう目もあけていられないようです。しま模様のあるふわふわの背中を痛々しく波打たせて、ひゅうひゅうと苦しそうに息をしています。
 火食鳥(ひくいどり)は父親が卵や子どもの面倒を見るのですが、その父親はもうだれかに食べられてしまったのかもしれません。だとしたら、この哀れなひなも生き残ることはないでしょう。森の営みとはそういうものであり、生きるということはそういうものなのです。生命の循環は、彼にとってはごく自然なものでもあれば、見慣れたものでもあったはずです。貴ぶべきものでさえありました。それを可哀想に感じたり、まして助けようなどと、これまで一度も思ったことはありませんでした。
 なのに、どうしてだったのでしょう。
 彼はその小さな火食鳥(ひくいどり)のひなを見捨てることができませんでした。この生命は自分が守るべきものなのだと思えて仕方がありませんでした。世界の全てと引きかえにしてでも、絶対に失ってはならないのだという気持ちが後から後からあふれ出てきて止まりませんでした。
 彼は近くにあった乳木の実をもいできて、中の蜜をひなに与えようとしました。ですが、ひなはあまりに衰弱していて、蜜を飲み下すことができません。それどころか、それを見ると親鳥が餌を与えずにはいられなくなるという、あの赤い小さな口を、自分で開けることさえできなくなっていました。
「鳥よ。幼い者よ」
 彼は蜜に浸した小指の先をひなのくちばしにあてがい、できるだけ静かな声で話しかけました。
「鳥よ。命を諦めるな。お前はまだ生きている」
 幼くても、瀕死でも、鳥には彼の言葉が通じるでしょう。
 丸い背中にそっと手を添えると、ひな鳥の高い体温をもつ小さな身体は彼の手にすっぽりと納まってしまいます。
「命ある限り生きろ。幼い鳥よ」
 ですが、掌の下の不規則な痙攣は、刻々と弱くなっていきます。走鳥類に特有の肉のつかない小さな足は、横ざまに投げ出されてぴくとも動きません。
 どうしたらいいのでしょう。どうしたらこのか弱い生命をこの世につなぎとめることができるのでしょう。
 身体が絞られるような、痛いほどの悲しみと焦りが湧いてきて、彼を驚かせました。もうずっと長い間、こんな気持ちになったことはなかったのです。
 今や不揃いな羽根の震えさえ止まろうとしていました。
「幼い者よ、お前に名をやろう。これは俺の最も大切なものだ。俺が知る最も気高く強く美しいひとの名だ」
 彼はさらに口を近づけ、ほとんど息だけの声で囁きます。
「生きぬけ。この名にかけて」
 掌の下でひながぴくんと動いたかと思うと、ずっと閉じていた目がすうと開きました。皺のある薄い瞼のすき間に現れた瞳は、夏の宵の澄んだ空の色をしています。澄み渡る青い目いっぱいに彼の姿を映しています。
 細く長い首にはもう頭を持ち上げる力はなくなっていましたが、けれど、まだ柔らかい稚けないくちばしは、力を振り絞って、生命の蜜を求めて彼の指に吸いつきました。
 彼は何度か蜜をつけなおし、そのたびに指を咥えるひなのくちばしは力を増していきました。次第に、ひなは赤い口をいっぱいいっぱいに開けて、さらなる蜜をねだるようになりました。
 もう大丈夫です。
 彼はやっと安心すると、その珍しい金色の火食鳥(ひくいどり)を優しくすくいあげ、掌に抱いてねぐらに連れて帰ったのでした。


* 2 *

 次の朝、彼が目覚めると、火食鳥(ひくいどり)のひなは雄の仔鹿になっていました。体色は黄金色から朝焼け色に変わっています。ただ、目だけは、昨日と同じ夜明け前の空の色をしています。
 といっても、この星には変わった生き物が多いので、彼は驚きません。空飛ぶ大蜥蜴や、翼のある馬、頭と尻尾が三つずつある蛇、星を吐く鳥、雲をつくる魚もいれば、人の言葉を話す花もあります。大きさや姿かたちや色を好きに変えながら生きる動物も珍しくありません。鳥が四足獣に変化するというのは少し珍しいかもしれませんが、ない話ではないでしょう。
 細い首を精一杯に伸ばしてくんくんと彼の匂いを嗅いでいる鼻面を撫でてやると、仔鹿は気持ちよさそうに目を細めました。
 そのとき彼は、仔鹿の小さな頬に、古い傷痕のようなものがあるのに気づきました。大きな十字を斜めにした形で、見ようによっては痣にも見えるほど古い痕です。けれど、浅くえぐれた筋のつき方は、猛禽の爪に掻かれてできる傷痕にそっくりです。生まれつきなのでしょうか。
 彼の手がその十字傷にそっと触れると、仔鹿は潤んだ目をゆっくりまばたいて、彼の硬い手を舐めました。
 ずいぶん元気になったとはいえ、そして火食鳥(ひくいどり)から鹿に姿が変わったとはいえ、毛並みはやっぱりばさばさとつやがなく、白い斑紋が浮かび上がった鹿の子模様の背中には、ところどころに小さなはげが痛々しくのぞいています。
 餌がいるでしょう。お日さまの光もたくさん浴びさせた方がいいでしょう。
 彼は仔鹿を胸に抱えて外に出ました。
 彼のねぐらは、険しい岩山の上の洞窟にありました。
 外は強い風で、仔鹿は怯えて彼の胸をおもちゃのような蹄で打ちます。
「暴れると落ちるぞ」
 仔鹿は彼の言葉がわかるのか、すぐに暴れるのをやめました。
 丸い頭をもたげて彼の首にすりよせ、そうしてやっと安心した様子で周りを見渡しました。
 それは仔鹿が初めて見る世界でした。
 ごつごつとした岩肌が続く山の下には、したたる緑の森が連なっており、ずっと先の方で森は草原になったり湖になったりしています。空は高く青く、白い雲が早足で走っています。びようびようと鳴る風に混じって、いろんな動物や鳥の声が聞こえます。森の遠くに高く突き出しているのは廃墟でしょうか、岩山でしょうか。元の形もはっきりしないほど、溶樹が根深く絡みついています。
 すっかり大人しくなった仔鹿が、ついと彼を見上げました。そしてまた森を見下ろしたとき、仔鹿の目から涙がひと粒こぼれました。秋の空を映した水のような深い瑠璃色の目には、まるで千年を生きたふくろうのような深い悲哀が宿っていました。
「なにを泣く。世界はこんなにもお前を祝福しているというのに」
 もう鳥ではないのに、彼の言葉がわかるのでしょうか。
 仔鹿は伸び上がって、彼に頬ずりをしました。
 まだ毛も生え揃わない幼い仔鹿のはずなのに、彼をなぐさめようとでもいうような、孫を慈しむ老人のような、優しく悲しい仕草でした。


 森に下りると、彼は仔鹿を地面に下ろし、歩く練習をさせました。座り込む仔鹿のお尻を後ろから小突いて無理矢理立たせます。ひよわな脚を若枝のように突っ張ってなんとか立ち上がった途端、またさらに小突いて今度は歩かせようとします。
 幼い生命が生きのびるには、一刻も早く、強く逞しくならなければならないのです。
 何度も転んでは小突かれ、座り込んでは小突かれ、そうして容赦なく追い立てられた仔鹿が、長い脚をよろよろと持て余しながらもようやくひとりで歩き回りはじめた頃、彼が仔鹿を呼びました。
 いつのまに採ったのか、手には乳木の実を持ち、割る真似をして見せています。けれど、仔鹿は離れたところに留まったまま動きません。さっきから意地悪く小突かれ続けたせいで、少し怯えているのです。小さな尻尾とお尻の白い毛を逆立てている仔鹿の様子を、彼はおかしそうに笑いました。笑って近づこうとする彼の姿にびくりと驚いて一歩後じさるのを見て、また同じように笑いました。
「腹が減ったろう。ほら、飲め」
 そして、こわごわ歩み寄ってきた仔鹿の咽喉をすくって、今度はとても柔らかく笑いました。
「歩けるようになったな、鹿」
 彼を見上げる青い目は、盛り上がった湖面のようにみずみずしく輝いています。
 仔鹿は甘えた声でひと声鳴いて、こくこくとおいしそうに蜜を飲み干しました。


* 3 *

 さて、ここにひとつ困ったことがありました。
 名前です。
 最初の日に彼が与えた名前は真実の名です。それはそのひとの本質に等しく、またそのひとを支配する力を持ち、その名前を教えることは相手に生命を預けることを意味します。人に知られてはならない、大切な名前です。ふだんその名を呼ぶわけにはいきません。
 火食鳥(ひくいどり)のひなだったときは「鳥」と呼び、仔鹿になった朝には「鹿」と呼んだ彼でしたが、次の日に黄色い蛙になり、その次の日は鹿に戻ったかと思うと、また次の日は豹模様の象になり、そのまた次の日には角と翼のある馬になるに及んで、何と呼べばいいかわからなくなりました。けれど、そもそも二人だけしかいないのですから、名前がなくても何とかなるでしょう。彼はいちいち呼び名を考えることをやめ、「おい」だの「こら」だのと、適当に呼びならわすようになりました。
 それからも、ときどきは横縞のしまうまになったり紅亀になったり大きなウワバミになったりしながらも、次第に鹿でいる日が多くなってきました。どうやらそれが本来の姿のようです。変化が落ち着くのを待って、彼はねぐらを移ることにしました。険しい岩山の上の洞窟は、彼には心地好く、また安全でもありましたが、鹿の子どもには険しすぎたからです。
 新しい棲み処(す か)は小高い丘にある岩屋に決めました。ここなら森にも水場にも近く、張り出した屋根の上で日なたぼっこができます。今度の洞窟は前の洞窟よりも広く深く、ふたりにも十分の広さです。仔鹿の好む柔らかい草や葉を集めてきて、大きな寝床もできました。
「もう象や大ウワバミにはなってくれるなよ。狭くてかなわんからな」
 早速ふかふかの寝心地を試しながら、彼が苦笑いしました。
 子どもとはいえ、象は本当に大きいのです。朝になって象の腹の下にいるのに気づいたときには、驚いて大きな声をあげてしまいました。巨大なウワバミのとぐろに巻かれて目覚めたときには、もっと驚いて声も出ませんでした。それに、身体の大きな子どもは餌もたくさんいるものです。彼はその日は一日中餌集めに走り回らなくてはなりませんでした。(大きくても生まれて間もない子どもは自分で餌を見つけることはできないのです。)
 耳を引っ張られて、みゅうーん、と拗ねたような声で仔鹿が鳴きました。二本の細い前足で彼の胸に乗り上げ、ぺろぺろと首や顔を舐めたり、顔を擦りつけたりして、しきりとじゃれつきます。彼はくすぐったがりながらも、根気よく相手をして、耳の後ろや背中や首筋をさすったり、鼻先を舐めたり、まだ自分で毛づくろいのできない仔鹿の毛を整えてやったりしました。
 あんなにバサバサだった毛並みも、毎日彼が与える栄養たっぷりの蜜のおかげで、今ではつやつやと美しく光っています。夕陽に燃える湖のような鮮やかな毛色は、光の加減によって鬱金色にも琥珀色にも珊瑚色にも見え、乳白の鹿の子模様がくっきりと染め抜かれてきらきらと輝くのです。
 温かい天鵞絨(びろうど)を撫でる手が、ふと止まりました。
 彼の眉は苦しいときのようにぎゅっと寄っています。何かを言いかけて開いたままになっている口の横を仔鹿がちろちろと舐めると、彼は闇色の目をかたく閉じて、仔鹿の背中に顔を埋めてしまいました。
 いつも元気な彼らしくありません。仔鹿がまたみゅーんと鳴いて顔を寄せます。心配そうな細い鳴き声が、低く静かに洞窟にこだましました。


 晴れた日はふたりで森へ行きます。
 やがて柔らかい草なら食べられるようになった仔鹿は、どの草や木の芽が甘くて柔らかいかを知り、どれが硬くて苦いかを覚えていきました。花の蜜の吸い方やおいしい果物は、彼が教えてくれました。仔鹿は赤黒い木いちごの実がとりわけ気に入りました。ぷつぷつとした小さな粒々の食感も、その中からほとばしる甘酸っぱい果汁も、仔鹿にはとても魅惑的でした。けれど、彼の真似をして木いちごの茂みに鼻を突っ込んだときは、葉や茎にびっしりと生えた細かい棘に顔中を刺されて、しばらく涙が止まりませんでした。それを見て彼は笑いました。そして棘に刺されずにおいしい実を採るこつを教えてくれました。
 おなかがいっぱいになると、土もぐらや栗鼠やうさぎ鳥や長ねずみと遊んだり、蝶や小鳥を追ったり、水浴びをしたりもしました。
 最初、小さな動物たちは、仔鹿が彼と一緒に暮らしていると知って、しりごみしました。そして彼を恐れない仔鹿を不思議がりました。やがて仔鹿がひとりでいるときを見計らって、一羽の牛突々(うしつつき)がそろそろと近寄ってきました。牛突々(うしつつき)は動物の身体についた虫を取ったりしてあげる鳥です。仔鹿が柔らかな長い耳をぷるぷると振っているのを見て、さては悪い虫にいたずらでもされているのかと、面倒を見に来てくれたのです。仔鹿の耳の中はきれいなさくら色で、清潔そうな白い産毛がふさふさと茂っています。牛突々(うしつつき)は仔鹿の耳に細いくちばしの先を差し入れ、虫を取りながら、柔らかい地肌を傷つけないよう優しく掻いてくれました。仔鹿はそれがとても心地好かったのでもっと続けて欲しかったのですが、牛突々(うしつつき)は彼が近づいてくる気配を察すると慌ててどこかに行ってしまいました。その後は彼が代わりに耳掃除をしてくれましたが、やはり本職の牛突々(うしつつき)ほど具合よくはありません。仔鹿はご機嫌斜めになって、彼を突いたり蹴ったりしました。
 そんな様子に、みんなはたいそう驚きました。本来、鹿は臆病なものです。自分たちよりよほど怖がりのはずなのです。その仔鹿が、あの強大な彼に親しみ、身体を触らせ、あまつさえ彼を突いたり蹴ったり噛んだりするのですから。そしてまた、そうやって戯れるふたりの姿に、皆の尊敬する彼がいかに仔鹿を大切にしているかを知りもしました。
 仔鹿に木の実や果物やきれいな花や石をくれるものもいました。仔鹿は喜び、彼もそれを喜びます。けれど、彼が目を輝かせると、ちょうど怒ったときと同じように黒目のふちに黄色く光る輪ができるので、弱い動物たちは怖くて動けなくなってしまいます。彼はすぐに気づいて謝るのですが、なかには泣き出すものもあって、いろんな動物との付き合いというのもなかなか難しいものだと彼は思うのでした。その点、大きな動物たちはそんなことは全く気にしないので彼は気楽ですが、今度は仔鹿が物怖じしてしまいます。怖がられた彼らにしてみれば、あの彼と暮らしておいて今さら何を、と思うところですが、怖い思いをさせるのも可哀想なので、そういう皆はそっと遠巻きに見守るようになっていきました。
 さて、森には楽しいことがたくさんありましたが、同じくらいたくさんの危険もありました。恐ろしい肉食獣の狩りにこそまだ出会わないものの、川に落ちて溺れそうになったり、変なツルに足を捕らえられて動けなくなったり、またうっかり蜂の巣にぶつかったときには、全身をたくさんの蜂に刺されて丸二昼夜を悶え苦しむことにもなりました。
 そんな時、彼は本当にどうしようもなくなるまで仔鹿を助けてくれませんでした。意地悪でしているのではありません。そうして自分で強くなっていかなければならないからです。(とはいえ結局は、滝に呑まれる前に助け上げてくれたのも、蜂刺されの治る草の葉を探してきて、その臭い葉を丁寧に噛み潰して仔鹿の全身に塗ってくれたのも彼ではあったのですが。)
 そんな風にしてふたりの日々は過ぎていきました。


* 4 *

 ある雨の午後でした。
 ふたりはいつものように洞窟の中から雨の降る様子を飽きずに眺めていました。
 お天気の悪い日、彼らはあまり外へ出かけず、よくこうして雨を見ました。彼は雨を見るのを好みます。そうして雨を見ながら、彼は問わず語りに、いろんなことを仔鹿に話して聞かせます。森のこと、森にいる生き物のこと、ときどきやってくるよその星の人間たちのこと、この星の歴史のこと。思いつくままに語られる話を聞くとき、仔鹿は彼にぴたりと身をつけて、賢そうな瑠璃色の目を大きく開いて、じっと耳を澄ませるのでした。
 この日の雨はとりわけ激しく、強い風が吹いていました。昼だというのに空は黒く煙って夜のようです。
 やがて空に巨大な白銀のひびが入り、雷鳴がとどろき始めました。
「お前は変わっている。鹿なのに俺を恐れず、雷を恐れない」
 仔鹿は、魅入られたように首を伸ばして稲妻を見ています。いつもの無邪気さはどこにもなく、何ひとつ見逃すまいとでもいうような物凄まじい目で、強まっていく嵐を見据えています。紺碧の瞳と頬の十字が、白い雷光のなかに、異様に白々と浮き上がります。
 その目を彼の両手が覆いました。
「あまり見るな。………食われるぞ」
 身じろぐ仔鹿を膝の上に乗せて耳の後ろを甘噛みしながら、彼の声が苦く沈みました。敏感に気配を察した仔鹿が彼の鼻を舐め、彼も同じように舐め返します。
「お前の名前のそのひとは、雷に打たれて死んだのだよ」
 それを目の前に見ながら何をなすすべもなく、ただ命からがらにその場を逃げ出したときのことを、鉄の鎖と名前の鎖に縛られ囚われの身であった自分の過去のことを、そこから彼を解き放つために命を失った、その同じ名前の持ち主のことを、彼はそのとき初めて語って聞かせました。
 仔鹿はまばたきもせず耳を傾けています。
 その青すぎる瞳には彼の逞しい姿がくっきりと映っていて、けれど雷が薄暗い空を裂くと、その瞬間だけは、瑠璃色も水色も彼の影形も稲光に呑まれて消えてしまうのでした。


* 5 *

 嵐が過ぎた後の晴天の美しさといったらありません。
 その朝の空のなんとすがすがしかったことでしょう。
 ふたりは、岩屋の屋根で美しい空を眺めて飽きることがありませんでした。
 太陽が頭上を過ぎた頃、双頭の大孔雀がやってきました。世にも美しい純白の孔雀です。
 孔雀はとても大きかったので、両翼を広げて舞い降りるときには、岩屋の屋根はすっかりその影に入ってしまいました。降り立った姿は、背の高い彼でさえ真上に見上げるほどです。彼は孔雀を見てたいそう喜び、降り立った孔雀の二つの頭の四つの頬に、何度も繰り返し頬を擦り合わせます。ヒトの言葉を話す二つのくちばしが、それぞれ男の声と女の声で話し始めました。
 孔雀は背中に四羽のひなを乗せていました。幼い孔雀たちはまだ灰色の綿毛に覆われており、どのひなも頭はひとつです。
 彼はそのひなたちを見て目を細め、そして仔鹿に言いました。
「あっちで一緒に遊んでおいで」
 けれど、仔鹿はちいちいと甲高い声で騒ぐひななどと遊びたくはありません。彼の傍がいいのです。双頭の白孔雀の翼に包まれて座っている彼の周りを離れようとはせず、みゅーみゅーと鳴きながら、しきりに前足で地面を蹴りました。そしてふとした拍子に、小さなひづめで孔雀の白い翼を踏みつけてしまいました。
 わざとではありません。ついうっかり前足が乗ってしまっただけです。しかもほんの端っこです。それなのに、彼は恐ろしく怒りました。白孔雀の雌首が止めていなければ、仔鹿をつねりさえしたでしょう。
 そんなことはこれまで一度としてありませんでした。
 彼はみんなに恐れられると同時に、好かれてもいました。森へいくといろんな生き物が彼に話しかけますし、まだ以前のねぐらにいた頃、引っ越しの少し前には、気の置けない友だちの空飛ぶ大蛇が遊びに来たこともありました。そんなとき、彼はその誰かに誇らしそうに仔鹿を紹介してくれ、仔鹿もまたそれを誇らしく思いました。それに、大蛇の背中には一緒に乗せてくれたのです。一緒に乗って、森の上を飛んだのです。大蛇がちょっとしたいたずらで身体を大きく揺すったときなど、こどもを脅かすなといって、大蛇に噛みついて懲らしめてくれたのです。
 仔鹿は大きな杏仁型の目できっと彼を見つめたかと思うと、くるりと背を向けて一散に駆け出し、あっという間に森に消えてしまいました。
 四羽のひなが何か楽しいことでもあるのかと後を追い、すぐに見失って戻ってきます。
「おもしろい。あの仔はお前を恐れないのか。鹿と暮らしていると聞いて驚いたが」
「可哀想に。きっと泣いていてよ。迎えにいっておあげなさいな」
「気にするな。どうせじきに戻ってくる」
 彼は、気づかわしそうにクルクルと咽喉を鳴らす雌首をなだめるように撫でて言いました。
「そんなことより聞かせてくれ。今度はどこで何を見た。よそはどうなっている。そうだ、どこかであれを見なかったか」
 雌首の方はなおも気にかけ顔で森へ首を伸ばしますが、雄首の方はそうでもなく、星がさざめくような美しい声でさえずり始めます。
 彼は孔雀の羽根先を弄びながら、ゆったりと相槌をうち、目を細めました。



 さて仔鹿です。
 力いっぱい全速力で駆けていたのは、岩屋を飛び出した直後だけでした。その勢いもすぐになくなり、棲み処を離れるにしたがって速度は落ちます。それでもまだしばらくはトボトボと歩き続けていましたが、やがてはその足も止まってしまいました。
 木の芽をむしってみましたが、好物の若芽もいつものように美味しくありません。果物もうまく見つからず、実のない木いちごの棘に刺されるばかりで、楽しくもなんともありません。水場では濡れた石にひづめが滑って転んでしまい、もう何もかもがうまくいかず、仔鹿はすっかり悲しくなってしまいました。
 そして薄暗い木のうろに入り込み、ぽっかりと開いた穴のような気持ちを抱えてうずくまっているうちに、いつしか仔鹿はうとうとと居眠りをしていました。


 目が覚めると、もう日が暮れかけていました。
 風は冷たく湿った夜の匂いがします。慌てて飛び起きた拍子に頭をぶつけましたが、それどころではありません。迫ってくる夕闇の気配に泣きそうになりながら、一目散に棲み処を目指しました。
 怒られて拗ねて逃げ出したのだったと思い出したのは、岩屋に帰り着いて、そこが誰もいない薄暗い空洞であることに気づいた後でした。
 みゅうーんん……。
 かぼそい声は岩屋にむなしく響きます。
 外へ出て、あたりを見回ってみましたが彼はいません。
 屋根にも上がってみましたが彼はいません。
 岩屋の中を何度もぐるぐると回り、積み上げた寝床の下や天井の近くにある張り出した棚の上まで探しましたが、彼はいません。
 あの白孔雀と一緒にどこかにいってしまったのでしょうか。もう帰ってこないのでしょうか。
 フィイイーイ! フィイイイーーイ!!
 裂けるような声で呼び続ける仔鹿の目からは、ぽろぽろと大粒の涙が止まりません。丸く盛り上がったかわせみ色の目が流れ出してなくなってしまいそうなほどです。
 もう外は真っ暗です。
 昼間は寝静まっている夜の生き物たちの声がしはじめています。
 仔鹿はぶるりと身震いし、寝床の奥の壁との隙間にもぐりこみました。
 身体をできるだけ小さく丸め、ぎゅっと目をつぶって耳をふさぎましたが、それでも心細くて怖ろしくて、胸のどきどきが止まりません。
 寝床の枯れ葉の鳴る音がやむと、岩屋の中は冷たく静まり返り、しくしくと泣き続ける仔鹿の声だけが弱々しく響き続けました。


 泣き疲れて落ちた、締めつけられるような眠りの中で、仔鹿は夢を見ました。
 空を飛んでいます。何かを追いかけている、と心づいたとき、彼の姿が見えました。
 今より若いようです。
 追いかけても追いかけても追い着けない後姿を必死に追いつつ、どうして自分は彼を同じ姿ではないのだろうと、はがゆさや悔しさよりも、素直な不思議さを覚えました。どうして違う姿をして、違う言葉を話しているのか、それが不思議に思えて仕方がありません。
 精一杯の力で追い縋ろうとしましたが、彼の姿は次第に小さく離れていきます。
 ぎゅっと心臓が握られたように息苦しくなったとき、ばさばさっと大きなはばたきが聞こえ、仔鹿はぱちりと目を開きました。
 目覚めが急すぎて、夢の中のいろんなものをそのまま持って帰ってきてしまったようです。
 どこまでが現実でどこまでが夢なのかが、咄嗟に分かりませんでした。
 胸が苦しいと思ったら、自分の前足が身体に食い込んでいます。
 仔鹿は寝床の奥の隙間から這い出し、ようやく息をつきました。
 そして岩屋の入口から入ってこようとしている彼の姿に気づきました。
 耳の奥に、唸るようなはばたきのこだまが聞こえます。
「なんだ、どうした。そんなところでなにを」
 仔鹿が寝床の裏などという変な場所からよろけ出てきたのを見て、彼はびっくりしました。その小さな顔が泣き濡れてぐしゃぐしゃになっているのに気づいてまた驚き、すごい勢いで彼に向かって突進してくるのを見てますます驚き、たじろいだ彼は思わず仔鹿をよけてしまいました。
 飛びつこうとした当の相手によけられたせいで仔鹿は勢い余ってよろめきましたが、すぐに立ち直ってまた飛びかかります。
 今度は彼もよけません。
 しゃがみこんで仔鹿を胸に受け止め、小さな前足が胸や腕や背中を打つに任せて、たまらないようにむせぶ背中を撫で続けました。
「怖かったのか。淋しかったのか。置いていかれたと思ったのか。馬鹿だな。おれがそんなことをするわけがなかろうに」
 仔鹿はいつまでも切ない声で泣き続けています。泣きながら彼の耳をくわえてひっぱり、顎やら鼻やら首やら肩やらをむやみやたらと噛みたおします。幼い草食動物の甘噛みとはいえ、場所によってはそれなりに痛く、彼はその度に顔をしかめながらも、仔鹿の好きにさせてやりました。
「もう泣くな。せっかくのきれいな目が、全部とけて流れてしまうぞ」
 なめらかな天鵞絨の毛足に鼻先を埋め、そっと噛み返しながら彼が言うと、無邪気な仔鹿は怯んだようにぴくりと耳と尻尾を立てました。
「そうだ。いいものを採ってきた」
 葡萄と胡桃でした。
 けれど黒っぽい葡萄は、表面がしわしわになっていて、干からびてしまっています。美味しそうには見えません。
 彼は房からひと粒ちぎり取ると、尻込みする仔鹿の前で、わざと見せつけるように自分の口に放り込んで、美味しそうに音をたてて飲み込みました。仔鹿がつられて乗り出してきます。
「旨いぞ。食ってみるか?」
 さっき泣いたからすがなんとやら、長いまつげこそ泣き濡れてふっくり膨らんでいるものの、つぶらな瞳はもう好奇心でいっぱいです。春の泉のような明るい水の光がくるくると躍っています。
 仔鹿は鼻先に突きだされた黒い干果をすんすんと嗅ぐと、一瞬ためらった後、彼の指ごとその実に食いつきました。
 さあ、こくんと咽喉を鳴らした仔鹿の驚いたこと。
 それはこれまで食べたどんな葡萄とも違って、濃い甘味の中にぴりぴりと刺激があり、そして咽喉を通るときには、柔らかい咽喉の内側が灼けてしまうかと思うほど熱くなったのです。
 胸の中が燃える炎を飲み込んだように熱くなり、仔鹿は飛び上がりました。
 そんな仔鹿の慌てぶりを見て彼は可笑しそうに笑います。
お前(こども)にはまだ早かったか」
 葡萄が自然に発酵して、天然のワインができていたのです。
 胡桃の実も同じで、中には発酵した自然の果実酒が詰まっています。双頭の大孔雀に、ある遠くの森に今年はよい酒ができていると聞き、採りに連れて行ってもらって遅くなったのでした。
 仔鹿の胸の炎は、あっという間に全身に燃え移っていきました。頭もぼうっとしています。水を飲みに立ち上がろうとしたところ、脚に力が入らず、ぽてりと座り込んでしまいました。
 けだるい頭を彼の膝に乗せると、なめし皮のような膚が熱い首にひやりと心地好く、やさしくさすってくれる大きな手が心強く、気持ちが落ち着きます。そうして顔の火照りを鎮めながら眠りに落ちていく仔鹿の耳に、なだめる調子の彼の言葉が、子守唄のように沁み入りました。


 ゆらゆらと揺れる柔らかな眠りの中で、仔鹿はまた夢を見ました。
 さっきと同じ、空を飛びながら彼を追いかけている夢です。けれどさっきのような苦しさはありません。遠くから彼を見守りながら、ゆったりとついていっているようです。
 今度は彼の他にもいろんな生き物が現れては消え、消えては現れ、そしてまた消えていきます。うさぎや栗鼠や鹿や、それから長ねずみや縞象やきつね鳥や飛ぶ馬や、中には鱗のある蛇や火を吐く鳥もいました。
 高いところからそれを見守りながら、自分もあそこに交じっていられたらどんなによかったろうと思いました。
 何かを探すようにときどき後ろを振り返る彼の視線が、その度に自分のいるあたりを素通りしていきます。彼は自分がここにいて彼を見ていることさえ知らないのでしょう。
 ほろほろと崩れそうな切なさのなか、仄甘いぬくもりが体いっぱいに広がっているのが不思議でした。


* 6 *

 寝入ってしまった仔鹿の身体を、彼は撫で続けています。酒のために体色は鮮やかに濃さを増し、四肢はくにゃりと力なく、まろやかな背中は大きく波打っています。
「すまん。可哀想なことをした」
 酒を飲ませたことを謝っているとも、不安な思いをさせたことを謝っているとも、どちらともとれる詫び言を呟いて、彼は仔鹿の頬に手をやりました。
 血のめぐりがよくなったせいか、あの十文字が赤く生々しく浮き上がっています。そうなると見るからに傷痕です。治って間もない傷痕です。あの人の美しい顔に彼のせいでできたあの傷にうりふたつの傷痕です。
「今度こそ本当にそうなのか。しかしこれがあの傷だとしたら……」
 仔鹿が酒の深い眠りに落ちていると思うと、日頃は抑えている絶望と希望が頭をもたげます。まさか、だが、と、黒い目がひときわ暗く沈みます。
「悔いていたのか。戻ってきたのは、俺を怨んでか……」
 夜風に当たりたくなった彼は、少し考えてから、胡桃をくわえ、仔鹿を抱き上げて、岩屋の屋根に上がりました。ひとりにしておくと、もし目が覚めたときにまた大変だと思ったからです。
 嵐の後で、空はすごい星でした。
 仰向けに寝ると、空中の全ての星が自分に向かって流れてくるようです。体が浮き上がり、目が回ります。
 そうしてふわふわとした感覚を楽しんでいた彼は、だしぬけに名を呼ばれて驚きました。降る雪のように静かなその声は悲しいほど美しく、朝つゆの最初のひとしずくのように澄んでいました。耳に聞こえる声ではなく、頭の中に直接呼びかけてくる声でした。彼は驚きのあまり、しばらく身動きできませんでした。
 ようやく身体を起こした彼は、おそるおそる仔鹿の方に顔を向けました。彼の目は戦うときのように中心が小さくなり、ふちに山吹色の輪ができています。髪の毛はぴりぴりと逆立っています。けれど仔鹿はすやすやと眠り続けており、無心の寝顔はさっきとひとつも変わらず、彼の獰猛な気配にも反応しません。
 ゆっくりと息を吐き出すにつれて、髪の毛は静まり、目もいつもの黒い目に戻っていきました。
 けれど彼は仔鹿から目を離すことができません。
 それ(・・)でなければ誰だというのでしょう。
 その声は彼の真実の名を呼んだのです。
 今となっては彼以外には誰ひとり知る者はないはずの名前です。あの人が命がけで守ってくれた名前です。
「…………」
 彼の口唇が、その人の名を、火食鳥(ひくいどり)だったときの仔鹿に与えた秘密の名前を、音もなく紡ぎました。声には出しません。真実の名には相手を支配する力があるのですから、もし万一だれかに知られたら大変です。
 彼は胡桃酒をひとつぶ割ると、琥珀色の液体を一息に飲み干しました。
 そしてまた大の字に寝そべり、星空を見上げました。
 いつだったか、少し前に見つけた、星の死骸の後にできたカギ型の星雲のあたりから、星がふたつ、短く流れて消えました。


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「臥待月」佐倉裕さまに捧げます。










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