―faraway,so close!― 1 2 3 (全)

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* 7 *

 仔鹿が“長老”に会うのは、その日が二度目でした。
 長老は不思議な玉虫色の毛をしたみみずくの老嬢で、とても物知りでとても年寄りです。彼とは古い知り合いでした。
「息災か、長老。悪いがまた頼む。今回は少し長くなりそうだが」
「ウオウオ、ウォウォウウォーーウ」
「あんたもか。ならよかった。数日で戻る」
 彼が人間の見張りにつく間、仔鹿は長老に預けられるのです。
 「いい子にして待ってろよ」と仔鹿に言い置いて、彼は出かけました。
 長老はみみずくで年寄りだったので、昼間はずっとお決まりの枝でうつらうつらして過ごします。一日目の仔鹿は、木の皮を食べたり、どんぐりや松ぼっくりを転がしたり、家から持ってきた鷹の羽根をくるくる回したりして、ひとりでおとなしく遊びました。鷹の羽根は、引っ越して間もない頃に彼にもらって以来のお気に入りです。とても大きくて立派な風切(かざき)り羽です。夜のようにつやつやと黒く美しく、太い軸の部分は笛になっています。息を吹き込むときれいな音が鳴るよう、彼が細工をしてくれたのです。夜になって長老が元気になる頃、仔鹿は木のうろに入って眠りにつき、朝、仔鹿が目覚めた頃、長老は再び休息に入りました。
 二日目の仔鹿は、木の皮をどれだけ薄く剥けるかに挑戦しました。これは仔鹿がときどきする遊びで、向こうが透けて見えるほどに薄くできれば成功なのですが、今日はなかなか好調です。蜜がたっぷり詰まった大輪の花も見つかり、仔鹿は機嫌よく遊んでお腹いっぱいの一日を過ごしました。
 けれど三日目ともなるとさすがに退屈です。
 長老はみみずくなので、小鳥や小さな動物は食べられるのを恐れてあまり近くまで来てくれません。どんぐりを投げて狙った葉に当てる遊びを新しく思いつき、しばらく夢中になって的当てをしていたのですが、それもやがて飽きてしまいました。
 前にも一度こうして預けられたことがありました。そのときは仔鹿もまだ乳離れをする前でしたし、なんといっても半日ほどの短い間だったので平気でしたが、年老いたみみずくと悪戯ざかりの仔鹿とではどうも話が合わないようです。
 手持ち無沙汰にあたりを探検していた仔鹿は、少し離れた大木の下で、カサの大きな変わった形の松ぼっくりを見つけました。松ぼっくり転がしは仔鹿のお気に入りの遊びのひとつです。つんと尖ったところで立たせてほどよく回すと、松ぼっくりはくるくると自転した後、大きな円を描いて転がり、うまくいくと、ぴたりと同じ場所に戻ってきます。その変わった松ぼっくりは、転がり方がとてもいい具合で、しかもものすごく大きな円を描いてくれるのです。嬉しくなった仔鹿は、長老にも見てもらおうと、それをくわえて帰って、幹に前足をかけて長老を呼びました。よく遊びよく食べ、すくすくと育ってきた仔鹿です。おもちゃのように脆くかぼそかった脚も、今では若木のように美しくしなやかです。ほっそりとした見かけを裏切って力強く幹を揺すり、枝を揺らします。けれど長老は軽く目を閉じたまま相変わらずです。玉虫色の毛を丸くふくらませてじっと動きません。
 仔鹿は長老の木を三周ほど回り、しばらく迷うように足踏みをしたかと思うと、くいっと顔を上げて、彼が去った方角に向かって駆け出しました。


 そのころ彼は、森を抜けて大きな湖を回りこんだ先の荒れ野にいました。
 今回の調査隊は少し変わっています。三人は石や岩や砂や土ばかり調べて、珍しい動物や植物には見向きもしません。試験器や拡大鏡をのぞいては、皆で熱心に言い合っています。
 怪しい素振りがあるわけではありません。けれど彼はなんとも言えない胸騒ぎがしました。夕立が来る直前のような、何かが起こりそうで起こらない前の、もやもやとした気分です。彼は少し離れたところから人間たちを見張りながらついていきました。
 それは突然のことでした。土を掘っていた女の隊員がうっかり亀もぐらの巣を壊してしまい、亀もぐらの子が彼女の指に噛みついたのです。女は悲鳴を上げて腕を振り回し、亀もぐらの子はすごい勢いで地面に叩きつけられて動かなくなりました。
 あっという間の出来事でした。
 ほかの二人の男たちや彼が入る間もありません。ことの深刻さに皆ことばもなく、おそろしいほどの沈黙が落ちました。
 外の人間がこの星の生き物を殺してしまったのですから、由々しきことです。三人は即刻退去のうえ裁きにかけられ、主犯の女はもちろん、あとの二人も厳しい刑を受けるでしょう。けれど子どもを殺された亀もぐらにとって、そんな裁きが何の意味をもつでしょう。親もぐらは目を赤く光らせて女に飛びかかりました。女が暴れ、男二人が助けに入り、残っていた子もぐらたちまでもが飛び出してきました。最悪の事態です。仲裁に入った彼も、小さな亀もぐらたちが人間たちにまとわりついているので、思うさま力を振るうわけにもいきません。そのせいか威嚇する吼え声もいつものように恐ろしげに響かず、怒り狂うもぐらたちの耳には届かないようです。
 人と動物が入り乱れて、誰と誰が争っているのかもわかりません。そして彼がとうとう目の色を変えたちょうどそのときでした。彼のすぐ背後を、何かがものすごい早さで通り過ぎました。驚いて振り向いた彼の目に、大きく跳躍している仔鹿の姿が映りました。二本の前足が真っ直ぐに男をめがけています。月のしずくのように澄んだ目が、今は太陽のかけらのように爛々と光っています。そのすんなりと伸びた細く美しい脚が、本当は鋼の力を持っていることを彼は知っています。仔鹿が本気になれば人間などひとたまりもないでしょう。
「駄目だ、やめろ! 殺すな!!」
 彼の声に仔鹿は勢いを弱めました。そしてそのまま男を軽く突き飛ばして転がすと、前足で両肩を押さえつけて、彼を振り返りました。杏仁型の目は、夕陽に照り映える海のように金色(こんじき)に燃えています。
「殺す必要はない。追い返せばすむ話だ。そんなことにお前の力を使うな」
 ふたつの視線がぶつかり、烈しくせめぎ合っている横で、亀もぐらの子が男の顔に爪を立て、男が情けない悲鳴を上げます。
「やめてくれ。頼む」
 仔鹿はゆっくりと目を閉じ、ぷるんとひとつ身震いをしました。
 次にまぶたを上げたときには、仔鹿の目はもういつもの深い海の青ひと色に戻っていました。それを見て彼はホッとため息をつき、ぶつぶつとひとり言を呟きました。
 そして三人の人間たちが連行されるのを見届けて、ふたりは亀もぐらに別れを告げ、荒れ野を後にしました。


 ふたりが戻ると、長老の木の周りにはあちこちからたくさんの鳥たちが集まっていました。仔鹿がいなくなったことに気づいた長老が、鳥仲間に仔鹿の行方を捜してもらっていたのです。
 それに調査隊の騒動の顛末もすでに森じゅうの噂です。
 みんなは二人の無事の戻りを喜び、仔鹿の活躍をたたえました。
 キッキッ、ツチイッ。ヒョーロロル。ジョエージョジョエージョ。クケケケエーッ。
 鳥たちはそれぞれの声音で口々に鳴いています。仔鹿には何を言っているのかさっぱりですが、皆が心配してくれていたことは判ります。荒れ野で彼にこっぴどく叱られて自分のしたことを多少は反省もしています。耳を寝かせて首を垂れ、みうん、みうん、と繰り返し謝ってお礼を言いました。
 帰り際に彼が長老に訊ねました。
「どう思う、長老。やはり俺にはそうとしか思えんのだが」
「ウッウ――ウ。ウォー」
「そうか……。では待つしかない。いずれわかるだろう。時が来れば、あるいは来なければ」


* 8 *

 (いさか)いというものは、えてしてほんのどうでもよいようなことから始まるものです。
 この日の二人もそうでした。
 今回のきっかけは、大輪のらっぱ草の花の蜜を吸うのがおいしいか、小さな白あざみを丸かぶりする方がおいしいか、という問題でした。
 仔鹿はらっぱ草だと思うのです。らっぱ草の蜜はとろりと濃厚で、とりわけ赤紫色の鮮やかな花のものは爽やかな香りも独特ですばらしく美味しいからです。あざみなどは蜜の量も少ないですし、第一、花ごと食べたりしては、口の中がチクチクむずむずして、美味しい美味しくないどころではありません。けれど彼はあざみが美味しいと言います。あざみの味がわからないのは子どもだと言って笑います。
 だからこの日、仔鹿は彼にらっぱ草の本当の美味しさを教えてあげようと思って、彼にも秘密にしているとっておきの花場でひときわ見事な花のらっぱ草を摘んできました。その蜜を飲めば、彼もきっとらっぱ草を見直すだろうと思ったのです。
 ところがご機嫌ななめの彼は花に見向きもしません。それどころか、煩わしそうに手を振り払った拍子に、仔鹿が怖い思いまでしてせっかく摘んできた花をはたき落としたではありませんか。かちんときた仔鹿は最近お得意の頭突きを一発お見舞いして岩屋を飛び出したのでしたが、とはいえ、彼がそんなに不機嫌だったのも、実は元はといえば仔鹿のせいでした。前の日に、彼が仔鹿を喜ばせようと遠くからわざわざ持ち帰った珍しい大瓜の実を、中の果肉が外皮の深緑を裏切って真っ赤な色をしているのを敬遠して口もつけなかったのです。しかしそれもまた元をたどれば彼のせいでした。そんな風にひとりの遠出から帰ってきたときの彼はどこか血なまぐさい臭いがして、自分のいないところで彼が何をしているのかと考えると、仔鹿は何ともいえないやるせない気持ちがするのです。
 どっちがどうとも言えない堂々巡りの末に家を飛び出した仔鹿は、ささくれ立った気持ちを持て余したまま、足まかせに森を駆け抜け、いつしか見慣れない谷に入り込んでいました。
 両側が険しく立ち上がった細くて深い渓谷の底に仔鹿はいました。のしかかるような高い岩壁がずっと上まで続いているようですが、谷には濃い霧が立ちこもっていて、上方がどうなっているのか定かではありません。ミルクのような霧の海に陽光が射しこんで、光の幕をつくってゆらゆらと揺れています。鳥のさえずりひとつ、下草を踏み分ける足音ひとつなく、風々をはらむ木々のざわめきさえなく、谷は深閑としています。仔鹿は息をひそめて、そっと足を踏み出しました。
 かつ――ん……。
 ひっそりと静まりかえった谷の空気に、小さな足音はびっくりするほどよく響き、長く尾を引きます。仔鹿はどきどきしながらもゆっくり谷の奥に入っていきました。
 しんとした谷底をどれほど進んだ頃だったでしょうか。
 ふいに立ちこめていた霧がするすると薄らぎ、仔鹿の前に谷の全貌が開けてきました。
 それは不思議な眺めでした。そして美しい眺めでした。
 切り立った壁面は星を散りばめたようにキラキラと煌めいています。そのところどころには見たことのない変わった花や草が生えていて、どの花も崖と同じに不思議な輝きを放っています。谷を渡る風までもが細やかに輝き、まるで星のかけらが漂っているようです。
 めくるめく情景にしばらくうっとりと見とれていた仔鹿の目が、ふとひと群れの花に吸い寄せられました。あざみです。虹色のあざみです。ハリネズミのような花弁は細く透き通って、一本一本が、光につれ、風につれ、休む間もなく色を変えて、キラキラと煌めいています。仔鹿は彼のことを考えました。あざみの好きな彼に、あの虹色のあざみを持って帰ってあげたら、彼は喜んでくれるでしょうか。仲直りができるでしょうか。
 生えている場所はずいぶん高かったのですが、うまい具合に出っ張りが続いていて、階段状に伝っていけそうです。身軽な仔鹿は、軽やかに跳び上がると造作もなく岩壁を駆け登り、難なくそこまで辿り着きました。
 辿ってきた足場が思いがけず脆かったことに気づいたのは、試しに食べてみた虹色あざみに口の中がチクチクになって顔をしかめた時でした。
 下の方、地面近くの突起が、音も立てずにはらはらと崩れ散っているではありませんか。
 呆然と見ているうちにも、次のひとつが、魔法がとけたとでも言いたげに姿を消します。このままでは、今いるこの足場が崩落するのが時間の問題なのは疑うべくもありません。
 仔鹿は慌てて隣の突起に飛び移りました。ですが、そこから先はとびとびに上へ上へと登っていくばかりで、それもどこまで続いているのか分かりません。すでに大樹ほどの高さも超えています。とても飛び降りられる高さではなく、こんなところから落ちたのでは、いくら敏捷な仔鹿といえども無事ではすまないでしょう。
 ケイ―――イ! イイ―――イ! ―――イイーーン…イーンン。
 泣いても叫んでもどうにもなりません。切羽詰まった自分の悲鳴が谷じゅうにこだまするばかりです。遠くからはね返ってくる怯えた声に、不安が募るばかりです。
 オ―――ン!!
 ひときわ高い悲痛な声が、美しく恐ろしい谷に響きわたりました。

 その痛ましい声を聞き留めたもの達がいました。
 ちょうど上空を渡っていた姉羽鶴(あねはづる)の群れです。
「ややっ、あれはあの仔じゃないか。大変だ、あの仔が」
「あの仔が泣いている。彼のあの仔が、虹の谷で」
「早くだれか」
「だが虹の谷だぞ」
「虹の谷!」
「おお、ぶるぶる、あんな恐ろしいところ」
 姉羽鶴(あねはづる)から壁走(かべばしり)に、壁走(かべばしり)から天燕(あまつばめ)に、天燕(あまつばめ)から星烏(ほしがらす)に。鳥たちのリレーが始まりました。
「飛べるものか。目がくらんでこっちがおだぶつだ」
「だがあの仔が泣いている」
「でも」
「だれか彼に知らせて。早く彼に」
「鳥のなかの鳥。我ら鳥類のもっとも偉大な彼に」
「早く。あの仔があそこで泣いていると」
 星烏(ほしがらす)から五十雀(ごじゅうから)に、五十雀(ごじゅうから)からかっこうに、かっこうから薔薇色鴨(ばらいろがも)に、そしてさらに薔薇色鴨(ばらいろがも)から仏法僧(ぶっぽうそう)へとリレーは続き、ついに一羽の小さな雀鷹(つみ)が二人のねぐらに飛び込みました。
「大変だ! あんたの仔鹿が虹の谷で大変なことに!」
 その途端、彼の黒い目にみるみる山吹色の輪が浮かびます。
 そして彼は瞬時にして美しい巨大な黒鷹に姿を変えたかと思うと、王たる鳥に相応しい威厳に満ちた羽音を響かせて翔び立ちました。
 あっという間に小さくなっていく雄々しく頼もしい後ろ姿を、雀鷹(つみ)が身を揉まんばかりのようすで見送っていました。


* 9 *

 仔鹿の前に、乗り移ることのできる岩棚はもうありません。
 もと来た道は着々と消えていきます。絶体絶命の窮地に仔鹿はもはや声もなく、尻尾をぴんと立て、お尻の白い毛を逆立てて、かちかちと身を震わせるばかりです。
 そのとき、仔鹿の若葉のようなふたつの耳がぴくりと動きました。潤んだ目を宙に据え、柔毛の茂る細い耳をぴくんぴくんと震わせて、仔鹿はまるで天の声に耳を澄ませる者のように空を仰ぎます。
 仔鹿にとっては永遠とも思える長い一瞬の後に、仔鹿の目は、空をよぎる小さな黒い影を捉えました。
 それを見た仔鹿は叫びました。精いっぱいの声で呼びかけました。すると上空から心強い啼き声が返ってきます。彼です。まちがいありません。頼もしく懐かしい彼の声です。彼が来てくれたのです。
 あんまりほっとしたせいで、必死にこらえていた恐怖と安堵が堰を切って押し寄せてきました。大きな瞳はもう涙の洪水です。仔鹿は逸る気持ちを抑えかねて、無意識に足踏みをしてしまいました。硬いひづめで、その脆い足場を、かつかつと蹴ってしまったのです。
 しまったと思ったときにはもう手遅れでした。乗っていた岩棚はあっという間もなく崩れ去り、仔鹿は足場を失いました。壁面を駆け降りようにも、垂直以上に切り立った崖では落下と変わりません。落ちる勢いに追いつかず、長い脚はすぐにもつれます。仔鹿の身体は勢いよく宙に放り出されました。
 そのとき、びょうっと鋭く風を切って、一羽の巨大な黒鷹が舞い降りてきました。
 巨鳥は、その太いかぎ爪の足で仔鹿の身体を注意深く、けれどしっかりと捉まえました。その瞬間、緊張の糸が切れた仔鹿は気を失ってしまいました。くったりと力萎えた仔鹿の身体をぶら下げ、雄々しいはばたきを響かせて、鷹はぐんぐんと上へ向かいます。目の眩むまばゆさもさることながら、大きな翼をもつ彼にとっては谷の狭さこそが飛びにくく危険なので、一気に上へ抜けてしまおうとしたのです。
 ところが間の悪いことに、谷を抜けきる直前に仔鹿が目を覚まし、眼下の眺めに怯んでもがきだしました。ハッと気を取られた彼の翼が崖を擦ったのはその直後です。均衡を崩した黒い巨体は、体勢を立て直す間もなく失墜し、きりもみ状態に陥りました。黒鷹は地面に吸い込まれるように落ちていきます。その大きな厚い翼が、小さな赤毛の仔鹿の身体を守るように包んでいました。


* 10 *

 気がつくと、きらきらと星のかけらが降り注ぐ美しいところにいました。仔鹿は首をもたげて、キョトキョトとあたりを見回しました。
 ここがどこなのか、自分がどうなっていたのかが、すぐにはわかりません。
 恐ろしい事が起こったのだったとようやく理解したのは、自分の背後の情景を目にし、意識が途切れる前の記憶を辿り、そうして節々の痛みの理由に思い至った後でした。
 けれど、いったい何がどうなっているのでしょう。仔鹿には、目の前にあるものの意味がよく分かりません。地面に横たわった彼は彼でないようです。長い手足を投げ出すようにしたまま少しも動きません。よそよそしく冷たく、まるで知らない人のようです。
 近寄ろうとは思ったものの、脚がかくかく震えてうまく歩けません。仔鹿は少し離れたところに立ち止まり、小さな声で彼を呼びました。
 彼は答えません。口は開いているのに、声は出てきません。まぶたは開いているのに何も見ていません。目は仔鹿の方に向いてはいるのに、仔鹿を見てはいません。そして彼のお腹からは、尖った岩が不自然に生えています。きらきらと輝く美しい谷のなか、彼だけが不気味に毒々しい赤黒い水溜まりの中にいます。薄く開いたままの口や鼻や目からは血が幾筋も流れています。
 仔鹿は、彼であるはずのそれに一歩ずつ近づいていきました。
 怖くて恐ろしくて、全身がわくわくと震えて止まりません。
 すぐ耳元で呼んでも、彼はうんともすんとも応えません。頬を湿った鼻先でそっと押すと、頭全体がゆらりと揺れました。もう一度押すとまたゆらりです。さらにもう一度、今度はもっと強く押すと、頭はごろんと動いてすっかり向こう側に向いてしまいました。
 仔鹿は驚いて跳び上がりました。足下でびちゃんと血がはね、ふたりの顔にかかります。仔鹿は彼の頬にとんだ血を舐め取ってから反対側に回りこみ、口や目の回りの乾きかけた血を丁寧に舐め取っていきました。
 すっかりきれいになった彼の顔を仔鹿はしげしげと眺めます。
 そして血だまりに座り込むと、彼の脇腹に身体を、顔に喉を添わせて座り込み、ゆっくり目を閉じました。
 ひぅ―――ん………。
 細く細くひと声啼いたのを最後に、仔鹿は凍てつく睡魔に身を任せたのでした。


 それは聴く者の胸を締めつけ貫き通す声でした。一瞬にして世界の全てを失った幼い魂の痛ましい叫びでした。かぼそい声は、かぼそいまま、けれど散ることなく谷じゅうにこだまし、風とともに流れていきました。
 谷の周りで固唾を呑んでいた鳥たちは、それを聴いて皆はらはらと涙を流し、嘆き、哀れみました。森の獣や虫やその他の動物もまた、嘆き哀しみ、涙しました。どんなに長く生きてきた鳥も獣も虫も魚も、そんなにも深い嘆きを見たことはなく、そんなにも悲痛な声を聴いたことがなかったのです。
 彼らよりもはるかに長く生きている森ですら、そんなにも悲しい声を聴いたことはありませんでした。森もまた、小さな者の悲しみと痛みに身を震わせ、はらはらと緑の木の葉を散らしました。
 星さえ嘆きました。
 そして、哀れな仔鹿の眠りに、はらはらと奇跡の雪を散らしたのでした。


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「臥待月」佐倉裕さまに捧げます。










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