「あー。失敗……。日付け、変わっちまった。な」
左之助は引き寄せた目覚まし時計を戻すと、肘枕で剣心をのぞきこんだ。
「失敗?」
「ん。プレゼント。いつ渡そうかと思ってるうちに……」
出遅れた。
やわらかく呟く左之助の唇が剣心の額に落ちる。
意外そうに身を起こした剣心の耳に「ちょい待ち」と軽く口づけて、左之助はするりとベッドを抜け出した。
結局映画を最後まで見ることはできず、ゲームは途中でなしくずしに終わりになった。
クライマックスのカーシーンはさすが見せ場だけあってなかなかの迫力で、左之助もこのときばかりは真面目に画面に集中して身を乗り出し、ときに「おー」「うわ」「すげっ」などと小声で叫んだりもしていた。
ふと視線を感じたのはその最中だった。
顔を巡らすと、床に寝そべってほおづえをついた剣心が左之助を見上げてにこにこしている。
「? んだよ」
「いや。楽しそうだなーと思って」
だが、そういう剣心こそ実に楽しそうなのだ。
その満ち足りたキラキラでとろとろな笑顔を見ているうちに、矢も盾もたまらない衝動がにわかに湧き起こってきた。
それでなくとも時にどうしていいか判らなくなるほどぞっこん惚れ抜いた相手である。それが自分が面白く映画を見ているというだけでこんなに嬉しそうにしている。しかも今日は年にたった一度の誕生日だというのに。
もはやつれない恋人ごっこなどクソくらえだった。
ずいっと覆い被さり、澄んだ大きな瞳をのぞきこんで、全身全霊でキスをした。
「え、ちょ、おい……まだ映画……ん……んっ……」
形ばかりの抵抗などもちろん聞き流す。
「待……ん………ふ……」
思えば一時間以上にもわたって刺激の強い禁欲的な前戯をし続けていたも同然で、準備は充分すぎるほどに足りている。もう駆け引きも加減もない。ただただ一途なキスはあっというまに二人を溶かして、あとは心のまま本能のままに愛し合うだけの欲望の虜になっていった。
服を脱ぎ捨て、肌で肌を感じるだけでくらくらするほどに高まった身体をぴったり重ねて、身じろぎもせずに抱き合う。やがて深く繋がってからも気が遠くなるまでそのままじっと抱き合っているうちに、これまで経験したことのない不思議な快感が左之助を突き抜けた。静かで、それでいて徹底的な快感が身体の奥深くからじわじわと湧き上がってくるのだ。律動はゆるやかな周期で訪れ、ナイーブな高揚は長く尾を引いて続く。いったん沈静してはまた訪れる、その度に波は高まって、左之助を未知の世界に連れていく。
「ヤバ……なんだこれ、すっげえクる。……お前も? 剣心、お前は?」
左之助が荒い息でそう問うまでに、どれほどそうして互いを味わっていただろう。だが剣心はといえば、問われれば無言で頷きはするものの、上気して桜色に息づく身体は静かにわななき続けており、恍惚とした瞳を見れば半ば夢の中にいるのは明らかだ。熱を帯びた全身はときおりぶるるっと痙攣して、そのたびに左之助を締め上げて呻かせる。呻かされるごとに左之助も硬さを増して、剣心をさらに震えさせる。聞かでものことをときおり問いかける左之助の高く掠れた鼻声は、今の剣心にはもはや濃密な愛撫に等しい。
「は……あ、んっ」
よせては返す波の間隔は次第に短くなっていく。甘やかに潤んだ剣心の声も次第にかぼそい息ばかりに嗄れていく。
「剣心……。おい、剣心?」
もろとも溺れて前後を忘れていた左之助がふと正気づいたのは、感じやすく性に弱い剣心が忘我で乱れるのは稀でもないとはいえ、どうもいつもと様子がちがうことに気づいたためだった。
「おい、大丈夫か? 聞こえてっか? おい……」
「あっあっあっ……ああああ……」
目を合わせてはみても、見えているのかいないのか、もう問いかけへの応えはない。
「……もうちょいな。もう終わるからな」
だが独り言のように呟いて体勢を変えようとした途端だった。ほとんどトランス状態かと見えていた剣心がはっきりと首を振って嫌がった。
「ま、まだ……、まだ……」
「え?」
「まだ……も…ちょ……この…まま……」
短く喘ぎながら、なごり惜しげにそう言って切なく首にしがみつくのである。今まさに腕の中にあって中にもいる恋人からそんな風に求められて、男がたぎらないわけがない。変化をまざまざと
「はんっ」
つと顎が上がって、細い白い咽喉が左之助の目前に晒された。シーツに散り乱れる髪さえが主ともども陶然と官能にのたうつように艶めかしい。あえかに震える薄い肌に血管が透け見え、我が身を贄に捧げる献身的な兎の風情で雄の征服欲に猛然と火をつける。
「わり、……無理」
左之助はにわかに脚を抱え直すと、わななく唇から熱い息を漏らして自分を一瞥するだけで精一杯の、その濡れた唇をそっと啄んだ。この未知の快楽のなかでは激しい動きは必要ない。ぴたりと合わせた身体をゆらゆらと揺らせるだけで白い光が明滅する。大きな波に押し上げられるようにゆっくりと昇りつめていく長い絶頂感に二人して身を任せた。
真っ白になっていく左之助の頭の中に剣心の早い呼吸音がエコーしている。ぐらぐらに沸騰した身体の真ん中が熱い。左之助を呑みこむ剣心はさらに熱い。深々と穿ちぬかれてされるままに翻弄されながらも、剣心の身体は怖いほど熱く甘やかに絡みついて、もっともっとと貪欲に左之助を求めて脈打っている。どちらもとっくに臨界を超えていて不思議はないのに、大きな波は彼らをまだなお先へ、さらなる高みへと追い上げようとする。ひたひたと潮が満ちるように満ちていくのを感じ、近付いてくる極限を声もなく見つめながら唇を重ねた。啄むような軽いキスを幾度も幾度もくり返し、合間合間に舌を絡めて深く口づける。左之助が耳朶に舌を這わせて甘く歯を立てると剣心の身体に細かいさざ波が走って、器いっぱいに充溢した官能はその一滴の刺激に表面張力を破られて満水を迸らせた。そうして、穏やかな充足感のなか、飽きることなく触れ合いながら、他愛ない話をしたり、とろとろと
さて部屋に戻ってきた左之助が剣心に手渡したものは、掌に収まるほどの大きさのガラスの小瓶だった。星の砂が入って売られていたらしきコルク栓の小瓶に、星砂のかわりに白い綿がつまっている。
「ハピバー」
「ありがとう。おー、なんだろう」
「出してみ?」
促されるままにコルク栓をはずして、綿を取り出す。
広げた綿の中から、コロンと転がり出たものがあった。
「あ、うわー」
黒真珠だった。
変わった形をしている。
真円でもドロップ(涙型)でもいわゆるバロックでもない。三つの粒がモコモコと合体してだんごになったような変な格好で、真ん中の粒がひと回り大きい。綿菓子か雲のようだと剣心は思った。
「えー、おもしろい。雲みたいだ」
「ああ。ほんとだな。そいうや雲みてえだ」
「すごい。こんなの初めて見た。こないだのタヒチで? でも
タヒチは黒真珠の産地として名高い。そのタヒチに、左之助は春にショップのツアーの引率サポートで行っている。
「いや、それがよ」
と、左之助は真珠を指先でつまみ上げた。
「真珠っておまえ誕生石じゃん? でも普通指輪とか首飾りとかに加工するっていうんだけどよ、お前そういうのしねえし、どうしよっかなーって思ってたら、これ見つけて。これなら形おもしろいし、まんまでいっかーって。それに宝石としてはあんま価値がねえらしくって、すっげえ安かったんだぜ、しかも」
「………」
「なに?」
言葉もなく真顔で見つめてくる瞼に口づけ、まつげを
「サンキュ。うれしい。ありがとな、左之」
剣心の腕が背に回る。
手に持った真珠を落とさないよう気をつけながらキスの雨を降らせて、胸の中に抱きしめた。
「ほんとに雲に見える。ぷくぷくして、かわいいな」
よほど気に入ったものか、剣心はもらったばかりの黒真珠を掌にコロコロと転がして飽きず眺めている。その様子を、これまた飽きず眺めて左之助が言った。
「幸運の黒雲」
「?」
「タヒチとかだと、黒雲は幸せをもたらす幸運のシンボルって言われてんだって」
「へえー!」
「……ってウソだけどな」
「えー、うそかよ」
「うん。今つくった」
「なんだよそれー」と笑う剣心の視線がまた掌の真珠に戻る。
シルバーの光沢を帯びたユーモラスな形の黒真珠。
南洋の黒蝶貝が長い年月をかけて育む海の宝石。
あまたの中から左之助が自分のために選んで持ち帰ってくれた一粒だ。
はるかタヒチの海に思いをはせる。
恋しい海の青。あたたかい豊かな海の底で、一体どんな貝がこの真珠を抱いていたのだろう。こんな変わった宝石を紡ぐくらいだから、きっと変わり者のへそ曲がり貝なのだろうか。もしかしたら獲った漁師も頑固でヘンコかもしれない。そして幾人もの人の手を経た末に左之助に見出されて、はるばる自分の手元までやってきた。巡り合わせはいつも天文学的な確率だ。そう考えると愛しさが募る。
「んだよ。なに笑ってんだよ」
「ん? いや、なんかいいなーと思って」
「?」
「幸運の黒雲。悪くない」
「おっ。マジ? 採用?」
「ああ。採用。決定。よし、幸運の黒雲だ。おまもりにしよう」
剣心が綿に包んで戻した瓶に、左之助がコルクの栓をする。キュと小気味よい音を立てて差し込んだコルクを指で弾いて、左之助が言った。
「おい、お前。幸せいっぱい運んできやがれよ」
「こら。人にものを頼むときはもっと丁寧に」
「え、ヒト?」
「………まったく。うるさいことばっかり言うのはどの口だ?」
うるさくて生意気で愛しい口を唇でふさぐと、ぐいと腰を抱き寄せられて、身体の上にのせられた。
「ハピバスデー剣心。大好き」
「俺も、左之……」
腋下に潜り込んで、胸に顔を寄せる。
その先は赤銅色の胸に口づけながらごくごく小さな声で囁いたのだが、日に灼けた精悍な顔がとろけるように笑み崩れたところを見ると、なんとかちゃんと伝わったらしい。
ふと気づく。めったに声には出さない甘い言葉を口にすると、胸のあたりがポッとあたたかくなったのだ。なるほど素直に甘えるというのは左之助を喜ばせる以外にこういう効能もあるのかと、ひとつ発見をした気分がした。