キイィー………。ヒタヒタヒタ―――。
そうっと扉を開ける音に続いて、剣心の小さな足がすり足で廊下をやって来る音が聞こえた。
カチ…―――。
振り向かずに背を向けたままでいると、リビングの入り口あたりにしばらく佇んだ後、やがて意を決したようにスタスタと近付いてきた。
背後でしばしためらう気配。
そして背中にトンと額が当たった。
「ごめん」
振り向く間もなく、後ろからにゅっと右手が出てきた。小さく握ったその拳にしろつめくさが一輪ゆれている。
「左之。これ……」
さっきオレがあげた花じゃん?
振り向こうとした。が、振り向こうとした途端、がしっと背中から抱きつかれた。これでは振り向けない。無理矢理首をねじ曲げたが、ほとんどタックル状態で抱きつかれているせいで、腕と背中と赤い頭頂部が見えるだけだ。
「剣心?」
「だ、大事なひとにもらったやつだから全部はやれないんだけど、きれかったから。一輪だけだけど。―――ごめん……」
小さな声で、まるで覚えたばかりの台本を読みあげる素人役者のようにそう言って、剣心はいよいよ強く背中に顔を押しつけた。
見ればオレの腰を締め上げているヤツの左手には、さっき贈ったばかりのしろつめくさの束がしっかりと握られている。
「………」
「………」
大事なひと。
この勝ち気で意固地でへそ曲がりの恥ずかしがりやが、仲直りのふりをしたこんな愛くるしい告白を実行に移すまでに、いったいどれだけの準備と練習と勇気がいっただろう。
大事なひと。その言葉が頭の中でぐるぐる回ってむずむずしてきた。
今すぐむしゃぶりつきたいのをなんとかこらえて、手に手を添える。
剣心が伏せていた顔を少し上げたのが背中でわかった。
「サンキュ」
小さな手の中で震えている一輪のしろつめくさをそっと抜き取り、
「ありがとな」
空になった手の指先にチュ、と口づけると、剣心はオレの背中でこくんとかわいくうなずいた。
「おい。それで考えたか? わかったのか?」
さっきのかわいらしい仲直りの照れ隠しなのだろう、ことさらにぷりぷりした口調で剣心が訊いてきた。
「え、なにが」
「なにがって……。おい、冗談だろう? お前が言い出したことじゃないか。なんでも言うこときいてくれて、欲しいものもくれるって」
「あー、それね」
「『あーそれね』はなかろう。自分から言っておいて。それでどうなんだ。なんだと思う? わかったか?」
「えー。知らねえ。わかんねえ。つうか考えてねえ」
「は? なんで?」
「なんでってだって、そんなん考えたってわかるわけねえじゃんよー」
「………」
言いたいことはちゃんと口に出して言え。黙っててわかってもらおうなんて無理。
このとかく口の重い頑固者に、オレが口癖のように言っていることだ。剣心もきっと同じことを思っているだろう。
「ま、でも今日は特別だしな。たまにはいっか。ゲームだしな。あーじゃあそうだなー。なんだろうなー。言葉責めはさっきいっぱいしたしー。羞恥プレイも焦らしもしたしー。あとなんだ?お前っぽいの。緊縛? ファー手錠とか首輪とか買ってやろうか?」
「なんでそっちばっかりいくんだお前は! ていうか俺別にそういうの好きじゃないからな、言っとくが」
「あー、はいはい。まあでも確かにSMセットが誕生日プレゼントっつーのもちょっとな」
オレがそう独りごちた途端だった。
「えっ?」
きょとんとでっかく目を見開いた剣心の顔を見ているうちに、ふとありえない思いつきが頭をよぎった。
―――いや、まさかな。
まさかいくらなんでもありえないよな。そんなヤツいないよな。ないよな。いくらこいつが天然とはいえ。天然とは……。
「え……?」
だがいやな予感はどんどん強まる。
鳩が豆鉄砲を食ったような、あっけにとられた無防備な顔。
長いまつげをバサバサいわせて、上目づかいになにやら考え込む様子。
まさかと思う。そんなヤツいねえと思う。いや、思いたい。思い……。
そのときだ。剣心がぽんと手を打って叫んだのは。
「あー! 今日俺誕生日だ!」
―――やっぱりかー!
オレはがっくりと床に、文字通り沈んだ。
「………」
「おおー、すっかり忘れてた。お前すごいな。よく覚えてたな」
………。
いや、つうか普通だろ? 恋人の誕生日覚えてるのは普通だろ? 二人で過ごしたいのも普通だろ? こっちはそのために超強引に六月の日曜日に仕事休んでんだぞ? ていうかじゃあ一体なんだと思ってたんだ?
「……つうかお前、じゃあ一体なんだと思ってたわけ?」
「え?」
「いやだからさ。『今日はとことん甘やかしてやる』とか『なんでも言うこときいてやる』とか『欲しいもの言え』とかって、なんでオレがそんなこと言い出したと思ってたわけ?」
「あー、うーんと、えーっと……」
そういえばたしかにオレも「今日はお前の誕生日だから」とはっきり口に出しては言わなかったが、だからといってまさか本気でただのゲームだと思ってたとか言うんじゃなかろうな。
「なんかまあ、そういう、えーと、新しい遊びみたいなのかなーとか……」
「………」
「だって左之そういうの好きだし……!」
「……じゃああれは? しろつめくさは? あの花は?」
「え。ていうかだって、きれいだったからって……」
んなわけあるかバータレ!
かわいい恋人を家に待たせて買いものに出た男が、いくらきれいに咲いてたからって通りすがりの河原でワホーッて花摘んだりすると思うか。ああ?!
「カーッ、まったく」
天然もここまでくるともはや才能だ。
「あー、ていうかじゃあもうなにがどうだったとかはもういいからよ。仕切り直し! オッケー?」
「あ、ああ、うん」
「あらためて訊くけど、ハッピーバースデーアリガトウな剣心さん? 今日はめいっぱい甘やかしてハピーにしてやりてえわけよ、オレとしては」
「う、うん……」
「だからな。どんなのがいい? なにしてほしい? どんなサービスをご所望?」
「えー、んーと」と、ずいぶん長い間、剣心は考え込んでいた。でもそれは、なにがいいだろうかと迷っているというよりは、どう言えばいいかと言い方を思案しているような、そんな感じの沈黙だった。
ほどなく、思い決した様子で剣心が顔を上げた。
「あ、甘やかしたりとかじゃなくてだな……」
早いまばたきとポッと赤らんだ頬は緊張している証拠だ。
「えっと、その……」
目を伏せてうつむかれると顔が見えない。が、オレがしゃがんで見上げると、剣心は恥ずかしそうにぷんとそっぽを向いた。
「お前が甘やかしたら、俺が……その……甘えられない」
「………へ」
さて一体どれほど間抜けな面をしたオレがそのとき剣心の前に立っていただろう。
聞こえるには聞こえたが、それの意味するところがいまいちわからなくて、まじまじと剣心の顔を凝視した。あんまり意表を突かれたからか、口を尖らせた照れ隠しの怒った顔をあんまり長く凝視しすぎたせいか、ぷりぷりした涙目の顔があんまり可愛かったからか、じっと見ているうちに、自分が一体なんでこんなに剣心を凝視しているのかがわからなくなっていった。あるいはどうでもよくなったといってもいい。ほんのり赤らんだ
すると驚いたことに、さらに耳を疑うせりふが剣心の口から飛び出した。
「お、俺だって、たまにはその、あ、甘えたりとかしてみたいんだよ。わ、悪いかっ」
「………」
いやいや悪くない。それは全然まったく悪くありませんです。だが剣心よ。お前、普段から普通にかなりの甘えん坊体質だと思うんだけど、そこんとこ大丈夫?
「えーっと、だから今日は俺が甘えるからな。だからお前は普通にしてろ。いいな」
「普通?」
え? それじゃ普通じゃん? つうかいつもと一緒じゃん? おもしろくねえじゃん?
「あ、いや、普通ってお前の普通じゃなくてだな。いわゆる普通にしてろってこと」
「オレの普通? いわゆる普通?」
???
言ってることがわからない。
「だからほら、お前いつもすっごいかまうだろ? そういうのせずに、つまりあんまり俺にかまわずに、一人でいるときみたいに普通にしてろってこと」
「……ああ」
その段になってようようピンときた。
たしかにオレは寸暇を惜しまずこいつをかまっている。とめどなく触わるし、抱きつくし、キスするし、あわよくば心ゆくまで愛でてやろうとスタンバイにぬかりはない。さすがに常にとは言わないが、しかしかぎりなくそれに近い勢いであることは認めざるをえまい。だから向こうからアプローチしてきたりなどしようものなら、待ってましたとばかりに瞬殺する。当然だ。それはもうほとんど条件反射と化している。“こいつがじゃれついてくるのをオレが相手にせず適当にいなしてる”とか、“あんまりかまってくれないオレにこいつが一方的に甘えている”などというシチュエーションは存在しえない。ありえない。
「なーる。そゆこと」
「え?」
「あ、いや、こっちの話」
うん、わかった。
要するに「つれない恋人」を演じればいいわけだ。
ゲームを始めるにあたり、オレたちはルールを決めた。
1.時間は映画を一本見るあいだ。
2.オレは剣心をあまりかまわない。
3.剣心は好きなだけ好きなように甘える。
4.キスやハグ程度の軽いスキンシップはありだが、それ以上の核心に迫る行為はなし。
以上だ。
映画は、一緒に見ようと借りていた幾本かのDVDのうち、オレが選んだもので、剣心があまり興味のないカーアクション映画にした。
スピーディーな展開にフランス映画らしい垢抜けた笑いが散りばめられた、なかなかよくできた娯楽映画だったが、そうと理解したのは後日あらためて見直してからのことである。
そのときのオレはとても映画どころではなかったからだ。
それほどに、それは劇的で刺激的で新鮮な体験だった。
そして同時に、どえらい試練でもあった。
剣心の挙動自体は、実はいつもとさほど変わらなかった。好きに茶をいれたり飲んだり、菓子をつまんだり、ごろごろしたり、映画が退屈だったら雑誌や事典やなにかをパラパラ繰ったり、ストレッチをしたり、オレの背中に乗っかったり、膝枕で脚上げ腹筋をしたり、オレ座椅子に座ったり、ひとの脚の上を指行進でいったりきたりしてオレをくすぐったがらせたり、まあそんなようなあんばいだ。いつものことだ。
唯一ちがうのは、オレがそれに取り合わないことだった。背中に乗ってきても、腕を引きよせてキスしたり背負ったまま立ち上がって走り出したりはせず、「はいはい」といった感じで放っておき、しばらくしたら身をかわす。オレ座椅子も、とりあえず座らせはするが、座面調整機能やロッキング機能はオフだ。そしてオレの視界をふさぎそうになったら押しのける。クールに。冷然と。そっけなく。
最初はとても無理だと思った。こんなかわいいのが家の中をうろうろしているわが家の日常もたいがい危険すぎるとかねがね思ってはいたが、これはそれどころではない。絶対無理。はじめはそう思ったものの、しかし次第にどういうリアクションをすればいいかのコツがつかめていった。要は剣心だと思わなければいいのだ。たまたま関係を持っただけの女友達だとか遊び相手だとか、なんかそんなようなものを想定して、そういう奴がこういうことをしたら自分はどう感じてどう反応するだろうかと想像する。もちろんウザい。普通にウザい。そう考えれば、手持ち無沙汰そうに茶を入れに立つのを無視して映画を見続けたり、腿にしなだれかかってくるのをすげなく放置したり、腕にのせられた手を邪険に振り払ったりすることさえ不可能ではなかった。
この「つれない恋人ごっこ」は、当初オレに鬼の忍耐を要求した。捨て身のガマン大会か、新手の拷問に等しかった。だがはからずも忍耐を求められたのはオレだけではなかったことがわかり、事態は一変した。そう、このゲームは剣心にとってもまたある種の忍耐を必要とする過酷なものだったのだ。オレがそれに気づいたのは、用意してある誕生日プレゼントをいつどうやって渡そうかという思案に気を取られて、ついうっかりミスをやらかしてしまったのがきっかけだった。
剣心はオレの膝にかわいい顎をのせて、気のない様子でテレビの画面に目を向けていた。こいつは娯楽映画を観るのが巧くない。きっと退屈していたのだろう。手持ち無沙汰そうにごそごそと頭を動かしていたが、ふと仰向いた拍子に髪が落ちて、形の良い愛らしい耳があらわになった。それが目に入った瞬間、なにを考える間もなく手が出ていた。普段の調子で、くりくりした軟骨の手触りと羽二重餅のような耳たぶのやわらかさを楽しみながら、耳の後ろのウィークポイントをやさしく愛撫していた。つれない恋人ごっこの真っ最中だったことを思い出してハッと我に返ったのは、愛撫をキスに変えようと座り直したときだった。剣心は困惑した様子で目を泳がせていた。それまで冷ややかな態度に徹していたオレがいきなりルール違反をしたからだろう。どうしていいかわからないようで、指をきつく握りしめてじっとしていた。どうしてこんな、という顔をしていた。そしてめちゃめちゃ感じていた。朝、髪を洗いながら同じようにしたときの比ではなかった。やばいくらいに目が潤んで、なにがどうなってるかなんて一目瞭然だった。
オレにとってそれは一種のアハ体験だったのだと思う。
理屈ではなく直感でオレはそれを理解した。そして剣心の変化には気づかなかったふりをして、
「あっ、わりいわりい。つい」
思い切りしらばっくれて、手を放した。
つまりなにか?
オレいつもが甘やかしすぎってわけか? この甘ったれなさみしん坊を?
おっしゃるとおり、オレは寝ても覚めてもこいつを甘やかしている。とめどなく湧き出る源泉をざんざばざんざばと惜しげなくあふれさせ続ける掛け流し温泉のごとくに息つく間もなく渾々と甘やかしたおしている。もしかしてこいつはそのせいで自分がすっげえ甘えてることに気づく間がないとか? どんだけ甘えに甘えて甘えまくっても、それ以上に甘やかされてるせいで、甘えてる気がしねえとか?
そゆこと?
それから後は、オレは完全に自分のペースでゲームを愉しむことができた。自分から甘えかかるという不慣れな行為に緊張しながらも精一杯がんばって甘えてくる剣心を相手に、忍耐力を振り絞って「つれない恋人」を演じ、そしてときどき知らん顔でギアを入れる。「かまってもらえない」状態に気が緩んで隙ができたところを見計らって、いきなりじいいーっと見つめたり、腰を抱き寄せたり、ヤツが食べかけていたチョコレートを口移しに奪い取ったり。その度に剣心は可哀想なくらいに動揺した。その度に着々とトロトロのメロメロのふらふらになっていった。見ているオレが思わず震えてしまうほどにいじらしくてセクシーで、最高だった。おかげさまでオレは可哀想なほどビンビンでフガフガの大変な状態になってしまった。
つうかオレらってどんだけラブラブよ?