起き抜けに「今日は特別にとことん甘やかしてやる」とかなんとか調子のいいことを言っておきながら、その舌の根の乾かぬうちからネチネチネチネチと底意地の悪いセックスでさんざっぱら人を慰んだあげくが、
「え。おまえ、こーゆーの好きじゃん? 悦ばしてやろうと思ってよ」
とはなんたる言いぐさか。
おかしい。やってることもおかしいが、言ってることがさらにおかしい。意味がわからない。
どうして梅雨の晴れ間の貴重な休日に朝っぱらからこんな目に合わなくてはならないのか。ああ、もう、まったく。
「こんな日だし、今日は特別にとことん甘やかしてやる。なんでも言うこときいてやる。なにしてほしい? あ、欲しいものでもいいぞ」
「欲しいもの? そっちもなんでも?」
「あ、と、でもあんま高いのは勘弁な。オレでもなんとかなるもんで頼むわ」
俺自身が多少浮かれていたという側面もなくはない。
先々週の和歌山
「よし。決ーめた」
「お。早え。なになに?」
「内緒」
「あ? なんで?」
「いいから内緒」
「え。つうかなんで? それありえなくね?」
「ありえなくねえ。お前が当てろ。当てたらねだってやる。っていうゲーム。どうだ? おもしろくないか?」
「うーわ、なにお前その挑発的な顔」
「リミット今日中。今晩零時な」
うーん。と、しばし悩んだ左之助が「よし」と自信たっぷりに寄ってきたのは、それから何分も経たないうちだった。
うわ、こいつ絶対勘違い。
そう思わざるをえない表情をしていた。
「素直じゃねえよな、相も変わらず。わーったぜ。ご所望通りたっぷり可愛がってやる」
いやな予感は的中した。
どこからどう見ても完璧な勘違いくんは、きわめて勘違いな確信に基づいて架空の要望に応えた。有無を言わさず。完膚無きまでに。
シャワーを使うかと訊くから応と答えた。運んでやろうと言うから好きにさせた。洗ってやろうというのはいったん断ったものの、あんまり疲れて腕を上げるのも億劫だからやっぱり洗わせてやることにした。
左之助はものすごくうれしそうに俺を洗った。俺をいすに腰掛けさせ、自分は洗い場に膝をついて、あの大きな掌で特売石鹸をメレンゲほどに泡立てて、クリーミーな石鹸ホイップで全身くまなく、それこそ膝の裏からへその穴から足指の股のひとつひとつに至るまで、とにかくすみずみまでモコモコにした。汗やらなにやらでベタベタだったからそれはそれでさっぱりしていいあんばいだ。鼻うたを歌いながら俺を洗う左之助は生意気でかわいくないが、甲斐甲斐しく動くつむじは健気でかわいい。
さて左之助の洗い方はちょっと変わっている。どう変わっているかというと、背中を前から洗うのだ。俺の前から腕を回して、左手で首を支えるように、右手で抱きくるむようにして、背中を撫でるのだ。ぐるっと肩まで手を回すから、ちょうど首の座らない赤ん坊を抱きかかえて湯を使わせるような格好だ。まったく人をなんだと思っているのだろうと思うふしもあるが、なんでも今日はとことん甘やかしてくれるそうだから、まあ黙ってさせておいても……おいても……ってちょっと待ったー!
「こ、こらっ! そんなとこはいい」
「なんで。よくねーじゃん。ぐちょぐちょじゃん。いちばん洗うとこじゃん、この場合」
「………」
「ぐちょぐちょ」のところで変に声を落として粘っこくそんなことを言う。
睨みつけたら、「じゃあ自分で洗えな。ん?」とモコモコを渡された。
「………」
「あっち向いてろ、馬鹿!」
「かいーとこねえかー?」
「んー」
「目えつぶっとけよー。シャンプー入ったらしみるぞー」
だから年端もいかない子どもではないというのに。
耳はとくに丁寧だった。耳たぶをくいっと引っ張るようにして耳のうしろをくりくりして、耳たぶを指で挟んで凹凸をひとつずつくりくりしていく。そういえば左之助はよくひとの耳を舐め回したり噛みたおしたりしている。こいつはきっといわゆる耳フェチというやつにちがいない。とかく嗜好の偏った男だ。
「剣心? どうだー? 気持ちいいかー?」
口を開けようと思ったらシャンプーが流れ込んで苦かった。
「よしよし、ここか? ここか? おーおーそうかそうかよしよし。お前ここがいいんだよなー」
思わずウンと頷きかけてハッと我に返る。
いかんいかん。
それではこの耳フェチめの思うままではないか。
ああ。
やけに空腹だと思ったらもうとっくに昼も過ぎていたのだ。なんと。
と思ったらドライヤーの向こうで左之助も言った。
「腹へったなー。メシどうするー?」
「人に訊くときは提案。できる男の基本スキル」
「えー、じゃあテンイチ?」
京都は一乗寺に本店を構えて全国展開する個性派人気ラーメン店の略称だ。名物こってり(1号)と影の薄いあっさり(3号)があるが、左之助は裏メニューの中間スープである2号をいたく好む。こってりを食べずになんのためのテンイチかとも思うが、ま、そこは個人の嗜好だから置くとして、目下の問題は、だ。
「外でんのめんどくさい」
「人の案を却下するときは代案。だろ?」
たしかに。
それも基本スキルだ。
「んー、じゃあ豆腐どんぶり」
よくかき混ぜた豆腐に少量のだしと醤油で味つけをし、それを炊きたての白飯のうえにのせるだけの極めてシンプルなものだが、なめらかな豆腐がさっぱりと喉ごしよく、ねばつく暑さの京の夏にも食が進む。左之助も俺も好んでよくする一品だ。
「お。いいな。そんでプラスしばづけとか?」
「採用!」
立ち上がりかけたらぐいと肩をおさえられた。
「ま・だ! まだ半乾きじゃねえか。かぜひくぞ? ん?」
六月も下旬のこんな陽気ならちょっとくらい。
「だ・め! 髪も傷むぞ?」
このズボラで大雑把な男が、なぜか濡れ髪は放置しない。
つきあい始めてうちで湯を使うようになった頃、ドライヤーがないと知って、携帯電話を持っていないと言ったときと同じくらい驚かれた。心外だ。なにが悪い。なぜならどっちも俺には必要なかったのだ。
「じゃあオレひとっ走り買い出し行ってくっから」
「ごはん炊いとく」
「頼むわ。いいこで待ってろよ。ん?」
「豆腐は入山さん、しばづけは加藤順」
「ういーっす」
チュ、と音立てていってきますのチュウなぞして、左之助は買い物に行った。
ささっと炊飯の仕度を済ませれば、後はしばしの休憩時間だ。
「ふいー、やれやれ」
甘やかされてやるのもらくじゃない。
「うーん」
ベッドに大の字になり、思い切りのびをする。
「ほっ」
ごろんとうつ伏せに回転して、軽く背筋を伸ばす。
両手両足を持ち上げ、ウルトラマンのポーズでシーソー。これは意外に腹筋にもきく。
「ぷしゅう」
また仰臥して、今度は脚上げ腹筋だ。ダウン。アップ。開脚。旋回。
「ふいーっ」
だいたい俺の望みをきいてくれるという最初の話はどこへ行った?
どうして朝からいきなりそんなことを言い出したのかはよくわからんが、なんでもゲーム化するのが得意な左之助のことだ。おそらく突如として思いついた新しい遊びなのだろう。それはそれでかまわないが、しかし俺は別に甘やかしてほしいわけではない。むしろどっちかっていうと……。
――ピロリロリン♪ ピロリロリン♪
携帯電話のメール着信音だ。
『きぬ?もめん?』
『きぬ』
他に来るあてのないメールが、まれに時尾や右喜から届いて驚かされることがある。彼女たちのメールは、こまぎれの単語や妙な擬音ではなくちゃんとした文章になっていて、顔文字や記号で感情豊かに彩られている。左之助からくるメールとはえらいちがいだ。
――ピロリロリン♪ ピロリロリン♪
今度はなんだ。加藤さんのしばづけは紫蘇の赤い方だぞ。
『すき』
「………」
いつも思うのだがどんな顔をしてこんなメールを入力しているのだろう?
――ピロリロリン♪ ピロリロリン♪
『けんしんすき』
先日「メモリがいっぱいです」という警告メッセージが出て、初めて受信メールフォルダの整理というものをした。きけば普通、読んだメールは消去するものらしい。たしかに以前のメールといってもどれも内容はおろか文面(と呼べるようなものかはさておき)さえ似たり寄ったりで、現にフォルダ整理をした際も、延々と続くメールリストを一応一通一通確認しながら消していったものだから、半分ほどのところでどれがなにかわからなくなって中断してしまった。まあこれでしばらく大丈夫だとは思うが……。
――ピロリロリン♪ ピロリロリン♪
……あんまり大丈夫でもないかもしれない。
『ダイスキ』
そんなメールなんか送ってる間に早く帰って来い、馬鹿。
うたた寝をして、夢を見た。いやな夢だった。
夢の中で俺は眠っていた。そして夢を見ていた。自分が眠っていることも、夢を見ていることも、わかっていた。夢だと知りつつ夢を見ている、そういう夢だった。左之助の夢だった。別にたいした内容ではない。二人で食事をしたり、テレビを見たり、思い思いに好きなことをしたり、風呂に入ったり、とくになにをしているというわけでもない。どうしてわざわざそんなことを夢に見なければならないのかわからないような、そんな感じの夢である。だがその夢を見ながら、夢の中の俺は泣いていた。布団の奥深くにもぐり込んで、手足を丸くちぢこまらせて、身体を硬くして、泣いていた。その俺はもう左之助を失っていたからだ。単に別れたのか、死別したのか。いずれにせよ、永遠に失われた後だった。起きたら左之助はいない。ひとりだ。どこを探しても、どれだけ待っても、もう二度と会えない。どこにもいない。その俺はそう思いながら夢の二人を見ていた。あたりまえだった二人の日常を眺めて、かたく目を瞑り、歯を食いしばっていた。
目覚めると俺まで泣いていた。夢の中のあいつの凍えるような恐ろしさが俺の中にまだありありと残っている。指のぶるぶると心臓のばくばくが止まらない。
ちょうどその矢先に玄関でじゃりんとシリンダーの回る音がした。
「たでーまー」
どかどかとリビングに入っていった足音はすぐに廊下を引き返してくる。
かちゃりとドアが開いた。
「どした? 寝てた?」
頬に触れてくる指のあたたかさに、またあいつの恐怖が呼び戻されて身震いした。
「こわい夢でも見たのか? ん?」
首を振って否定はしたが、思わず背中に回した手で左之助のTシャツをきつく握りしめていた。
「馬鹿。おそい」
「ん。ごめん」
「待たせすぎ」
「ごめんな。寂しかったな」
「ち、ちがう。そんなんじゃない。単に腹がへっただけだ」
「ああ、うんうん、そだなー。ごめんな、おそくなって」
額に押しつけられた唇の熱さにじんとした。
普通は腹がくちくなれば気持ちもなごむものだが、なぜか今日は逆だった。あれやこれやとひっきりなしに気を遣われ続けるうちに、妙にむしゃくしゃとささくれだってきたのだ。やれなにか飲むかだの、どこか行くかだの、なにがしたいだの。サービス精神のつもりなのはわからないでもないが、慣れないせいかどうにも居心地が悪い。ありがた迷惑も甚だしい。そもそもさっきから「今日は」「今日は」としつこくしつこくしつこく繰り返して、いったい今日がなんだというのだ。そうこうするうち、やがて尋問されている気がしてきて、イラッときた。
「うるさいっ。いらんと言っておろうが!」
肩でももんでやろうかと、背後から両肩に置かれていた手を邪険に振り落とした。
「……なに。どったのお前」
「どうもせん。知らん。うるさい。このニブちん!」
「………」
「なんなんだよもう、いちいちいちいちいちいちいちいち鬱陶しい! だれがそんなことしてくれって言った!」
「………」
さすがに向こうもむっとしている。そんな言い方はないだろうという顔をしている。
それはそうだろう。俺だってそう思う。そんな言い方はないだろうと思う。でも俺だってこんなことを言いたかったわけではないし、そもそも「なんでもしてやる、欲しいものをやる」と言われて「当ててみろ」とけしかけたのが自分だということくらい、さすがの俺でも覚えている。
「うわーん」と子どものように泣きたい気分だったが、あいにく大人だ。というかもういい年したおっさんだ。いくらなんでも「うわーん」はなかろう。
「ちょ、おい剣心……!」
背中を追う声を無視して、黙って家を飛び出した。
非常階段を駆け下りかけて、はたと気づいた。どうも走りにくいと思ったら、適当につっかけてきたサンダルは左之助のものだった。どうりでカパカパだ。そして左手にはしろつめくさの花束をしっかりと握りしめている。
「………」
ああ自己嫌悪。
なんなんだよもう。
左之助がそれを差し出したのは、食事の片付けが終わった後だった。
「剣心。これ」
驚いた。
いつも無駄に頭の高い男が、いと珍しくも羞じらいがちに鼻などこすっているではないか。
「河原ですっげー咲いてて、きれかったから。お前こういうの似合いそうだし。バラとかより」
そういって片手で無造作につかんだひと束のしろつめくさを差し出すのである。
リボンやラッピングどころか紐で束ねられてさえいない、摘んできたままの可憐な野の花の小束が、そのとき俺にはどんな豪華なブーケよりも好ましく思えたものだった。
「サンキュ」
心の底からそう言って受け取った。
顔を寄せると花の香よりも青々とした草の匂いがする、そんな自然のままの花束が、左之助らしくて、嬉しかった。
なのにその直後だ。あのわけのわからない喧嘩をしたのは。
いや、ちがう。喧嘩でさえない。
「………」
超自己嫌悪。
そうだ。喧嘩でさえなかった。一方的に癇癪を起こして、一方的に切れて、あげくに飛び出した。左之助は朝からあんなにご機嫌だったというのに。どうしてかはしらないが、ホクホクうきうきいそいそと、それはもうおかしいほどに上機嫌だったのに。
「………」
非常階段の手すりに肘をつき、しろつめくさの花束に顔を寄せる。
小さな可愛らしい花の花弁が、やさしく鼻をくすぐる。