Undivided 1-2


 ざざざ、と草が啼いて、剣心はふっと目を開けた。
 夜が深い。何時頃だろうか。
 時計を調べようと部屋を振り返り、おぼえた違和感の正体に気づいた。
 俯瞰ではない、水平の視界。ぐるりと見回してから、床板を掌で押さえる。実体があると、ようやく意識した。立ち上がり、歩くと、地面が頼りなく揺れて、舟の上を歩いているようだった。
 今度はまたどうしたというのだろう。なぜ戻ったのか。
 やっぱりわからない。わからないが、わからないまま、刀を手に取った。体の一部ほどに馴染んだはずの手応えと重みが、思いもかけない新鮮さを手に訴えた。しばらくその感触に意識を集中してから腰に落とし、広縁から庭に下りた。
 気づけば足は勝手口に向かっている。
 こんな夜更けに抜け出すなど。
 ひき返そうと思った。だが、意志を超えた力が剣心の足を動かしていた。どうしようもなく、足に従うしかない。
 そのまま、二町をすぎ、三町をすぎ、運ばれて行くにつれて、次第に不審が強まっていった。
 どこに行こうというのだろう。
 当然向かうと思われた先とは全く異なる方向の道を、足は忙しく踏んでいる。
 こんな方角にあてのあるはずもないものを。
 はて、と首を傾げつつ、改めてつくづく不審に思う。
 本当に、昨夜来、一体なにがどうなっているのか。
 すべてが夢ではない証拠に、庭に昨日までなかった変化朝顔の鉢がある。薫と弥彦が稽古先でもらってきたものだ。
 しかし何故そう・・と知っているのか。
 やはりわからないことだらけで、整理がつかない。
 二本の足に運ばれながら、深くため息をつく。
 死でさえもない終わりを受け入れたつもりでいた。
 肉体の崩壊を伴わず、存在が失われたことを誰に知られることさえない。惜しまれることも、喜ばれることもない、完全な消滅。思えば、無自覚に他人の生命を奪い尽くした自分にこれ以上ふさわしい末路はないかもしれない。完全な忘却は、どんな暴力よりも暴力的な、完全な懲罰だ。贖罪も責任も果たせないのが心残りと言えば言えるが、もはや何かを望むべき身でもなく、後に残るあの“剣心”が何をどう生きるかは彼の問題で自分には関係ない。ただ、できることなら、これ以上左之助を傷つけないで欲しいとは思った。自分がそう願うことが彼に禍をもたらさないことを祈りつつ、最期の最後にそれだけを願った。そして消えた。―――はずだった。
「やれやれ」
 なげやりに頭を振ったとき、いつのまにか見覚えのある場所に来ていたことに気づいた。長い練塀。打ち捨てられた仏寺の往時をしのばせる。角を曲がれば、立派だったであろう門が、さらに曲がれば裏木戸があるはずだ。
 春の記憶の、境内を辿る。
 点在する堂舎をいくつか過ごし、大木の下の小さなひとつに足を止める。
 声がした。
「どうした」
 腕枕のままで、左之助が訊いている。
「なにが」
「あの世から戻ってきたような面ァして」
「あの世か。そうだな。そうかもしれぬ。うたた寝をして、妙な夢を」
「夢」
「そう、夢……」
 夢、と言って、左之助は上体を起こして胡坐をかいたが、剣心は呟いたきり、目を外に向けて語らない。
 しばらくして、左之助が呼んだ。
「剣心」
 来い、と手招きされて、段を上がる。足下はやはり船上を歩くように頼りなく揺れた。
 手で示された場所に座って、ぴたりと焦点の合った視線を正面から受け止めると、自分を通り過ぎて空を見ていた先刻の双眸が二重写しに見えた。
「どんな夢だったんだ?」
 低く問われて、剣心はわずかに頭を傾けた。
 何も言う気になれず、しばらく黙って見ていると、同じように黙ったままの顔が近づいてきた。手も身体も触れず、ゆっくり唇を重ねてくる。
 安い戯れの相手をする気分ではなかったが、柔らかい皮膚が接した途端、ひどい身震いが走って、思わず瞼を強く閉じた。
 剣心の瞑った目の中には、触れ得なかった昼間の左之助がいる。膝をつかんだ手には、虚ろな空気の感触が残っている。だが唇には、熱い生身の肉を感じる。そこだけは現実で繋がっている。
 目の奥がじんと重くなった。だが、たまらず手を伸ばしそうになったとき、絡んだ舌の先に乳臭い甘さが走った。
 その瞬間、痴れた会話が甦り、思わず相手を突き放していた。

     氷菓子の味がする。甘ったるくて、妙な感じだ。
     おう? おめえはいつでも甘いぞ、と。
     こら。やめんか、馬鹿。
     ここも、ここも、他んとこも……。

 聞いた記憶も見た覚えもないそれが、しかし現実の情景だと、なぜかどこかで理解していた。
 ゆるく頭を振る様子を、左之助はやはり黙って見守っている。何かを待つようなその顔つきが、妙に落ち着いて見えて、たまらないほどに剣心を逆撫でした。
 勢いよく立ち上がって、すたすたと庭に下りた。が、草履が上手く履けない。くたびれた草履を、足と同じほどに震える手で持ち上げ、なんとか鼻緒を指間に押し込んだとき、声が追ってきた。
「剣心」
 黙ってもう片方を手につかむ。乱暴に突っ込み、刀を差しながら言う。
「帰る」
「待てって、おい剣心」
「好きにしろと言ったのはお前だ。だから帰る。それだけだ」
 そうだ。
―――来たければ来い。好きにしろ。
 そう、左之助が、言ったのだ。
 どうして忘れていたのだろう。
 神谷には来るな、長屋にも行かない、と言い張る剣心に、なら一晩ここにいると言った。
 あれはいつだ。今日ではない、昨日か。そうだ、昨日の、たしか昼食の前だった。
 だが、そのとき自分はなんと答えたのだろう。
 そしてどうしたのだろう。あの“剣心”は。
 気づくと足が止まっていた。足下で、草が青い匂いを放っている。
「剣心」
 呼ぶ声が、別人のように重い。
 振り向いた剣心に、左之助がわずかに顎をしゃくった。
「来い」
 短く言い捨てた声が身体の底に落ちる。昼には見せない昏い目が剣心を絡め取る。
 逆らえない。理屈ではなく、縛される。
 操られるように足を交互に動かし、堂舎に戻った。
 飛天御剣流の真髄は読心にある。思惑を図りかねて汗を握るなど、あってはならない。たとえ、無防備といえばこれ以上ないほどに無防備な身体を、生命を、預ける相手であったとしても。
 挫かれるように膝を折りかけたところを、荒く腕を引かれて、脚に坐らされた。あっという間もない。密着する肉の量感と等質の手応えが生々しく五感を刺し、震えが止まらない。
「どうした、今さら」
 背中に回っていた手が、一方は顔を包み、一方は足首を握り込む。内果、外果をいらう指に、素肌のはぎを這い上る掌に、それこそ今さらのように自身の生身を発見し、呼吸は乱れた。
 凝視する左之助の目は、こんなときにだけ見せるきつい熱を孕んでいる。
「やっぱり俺のせいか。それとも他でなんかあったかよ」
 と、訊かれても、剣心にどう答えようがあっただろう。
 ただ黙って首を振り、唇を合わせた。答える代わりに、あるいは答えない代わりに、狂おしいように与え、奪う。濃密な吐息が零れ、左之助が剣心を組み敷き、ほどいていく。剣心は乱された布の中から、潤んだ目で左之助を見つづけている。
 ふいに左之助が眉根を寄せた。
「おめえ、昨夜ゆんべからなにをそんなに……」
 それを聞いて、剣心の身体がびくりと弾んだ。溶けていた目は瞬時に硬く冴えた。
 そんなに、と、似合わない戸惑いを見せて言いよどんだ左之助は、それを見てさらに複雑な顔になり、そして、俺ァここにいるだろうがよ、と低く呟いた。
 寂寥と孤独のかげを、左之助に深く刻んだのは、剣心だった。十年来の憤怒と鬱屈をようやく鎮めた心が、晴ればれとしていた期間は、あまりに短い。
 剣心は手を伸ばして左之助の頬を軽く撫でた。目を閉じ、指の腹で頬を撫で、唇をなぞり、鼻を辿り、互いの実在をたしかめる。彼我が同じ世界にあることをたしかめる。
 浮遊していく意識は、左之助の声に引き戻された。
「よう。切ない顔してくれんなよ。どうしていいかわかんねくなる」
 と、幽かに笑った滅多に見ない顔に、また昼間のあの顔が、重なった。
 左之助のせい。
 無論、そうだった。だが、身の上に起こった何事かは、剣心自身の問題だった。
―――来たければ来い。好きにしろ。
 そう言われて、二つに裂けた。
 何と何に裂けたのかさえ判然しないが、ともかく二つに分かたれた。
 そして、裂けてなお、二つの半身は同じものを求めたのだ。
 片身はそこへ。片身は空へ。
 愚かといえばあまりに愚か、醜悪といえばあまりに醜悪。
 だが、それさえ、今さら。
「どうと言って」
 くすりと笑って、剣心は言った。
「お前、この状況で、他にどうすると?」
 若さのしなう肩に手をすべらせると、
「ちげえねえ」
 そう言った左之助に、もう黒々しい険は片もない。
 生意気盛りの若僧が、猛々しく笑って、剣心に体重をかけてきた。
 甘やかなぬくもりに包まれながら、唇を動かす。
―――サノ。
 口に馴染んだ二文字を、音にはせず、ただ紡ぐ。
「おう」
 左之助が返して、剣心に触れる。
―――サノ。
 手が、口が、目が。
 応える。触れる。
 言葉でなく、心でなく。
 触れ合ったところから、体温が融け、血が共鳴する。
 いつしか彼我はなくなり、熱と光になる。

 夜の潤んだ風に、草が、ざざざ、と啼いた。




了/2005.05.01 みきに。
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