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Undivided目覚めると、やけに体が軽かった。 ―――空でも飛べそうな。 と、思ってから、既に宙にいることに気づいた。軽いも道理、ふらふらと、糸の切れた凧のように空を漂っている。 不思議に思い、両手を広げてみる。見慣れた手。とくにどこも変わらない。腕、胴、脚、どれも見慣れた、使い慣れたものだった。触れれば手応えもきちんとある。 だが、浮いている。夜の闇に、普通然と浮いている。 夢。 ごく自然に、そう思った。 だが、それで自分を納得させるには、意識は明確で、眼下は生々しい。 眼下。 ざっと見渡し、眉をひそめた。 せせこましく建て込んだ家並み。貧しい普請。仔細に見るまでもない。 破落戸長屋とは、未練がましい。東亰に帰ったらもう逢わない、と、言い出したのは自分の方であったものを。仮に夢中の魂魄だったとしても、厚顔。 そう思いつつも、目は丸に左の字を探している。見慣れない鳥瞰の視界に、やがて見慣れた板戸を捉えた。 あ、と思った瞬間、そこにいる。 数瞬の逡巡の後、引き手に手をかけた。だが戸に添えたはずの手に、手応えはない。試しに前に押してみると、指先はなんの抵抗も覚えず、すうと向う側に突き抜けた。 手を引き、我が身に触れてたしかめ、再度、戸に試す。やはり抜ける。どうやら自分以外には触れ得ないらしい。 しばらく考えた末、思い切って頭から戸に向かった。抵抗はなく、やはり抜けた。 中は無人だった。曇った夜の鉛色よりもさらに一段よどんだ、狭い部屋。所在なく、框に腰をおろした。自重はなく、床の手応えもないが、浮いているよりは気が治まる。がらんどうの空間を空々しく見回し、息を吐いた。 一体なにがどうなっているのだろう。 ふと思った。 もしや自分は死んだのではないか。死んで、魂魄となって彷徨っているのではないのか。 さて、死んだだろうか。と、考えてみる。 わからない。思い出せない。 いつも通りの一日だったはずだ。夜が明けて目覚め、朝食を作り、洗濯をして、稽古を終えた薫に付き添って近所に挨拶に廻り、誰や彼やと軽い世間話をして、皆で夕食を摂って、床についた。―――はずだ。 記憶はそこで途切れている。 それから何かあっただろうか。わからない。だが、仮にも自分の生命が終わったとすれば、その瞬間にはもっと何か劇的な感情を抱きもするだろうし、後にはそれらしい記憶が残って然るべきではないのか。 なにが起こっているのだろう、と、幾度目かに自問したとき、突如、疑問が浮かんだ。 いつまでこうしていられるのだろう。 実体のない、この不確定な存在は、いつまで自分でいられるのだろう。 無性に気が急いて、人気の絶えた室を見回す。雑然とするほどの道具さえない、湿った暗い空間。圧迫する静けさの耳鳴り。 覚えず、不在の主を呼んだ。 ―――左之。 その途端、どこか奥の方で火が灯る。唇が音もなく声を紡ぐ度に、深く奥まったところで、ほつほつと火が揺れる。空ろな熱を抱えたまま、柔らかい暗がりの中に沈んでいく。 * また唐突に目が覚めた。今度は周囲は明るい。朝の白い光。水の匂い。納豆売りの呼び声。眼下には神谷邸の中庭があり、自分という個がまだ存在していることと、だがやはり実体なく浮遊していることを知る。 屋根の高さまで下降したところで、台所によく知る人間の姿を認め、驚いた。赤い髪の貧相な小男が、 思考が停止し、その男の行動をただただ目で追う。 そこへ薫が来た。 「おはよう、剣心。なにか手伝うこと、ある?」 「ああ、おはよう。ここは大丈夫でござる。出かける支度をするといい」 「そう? じゃあ、お弁当よろしくね」 そう言って、師範代は立ち去った。 残された“剣心”は、炊き上がったご飯を飯台に開ける。随分多い。さては合い稽古の日か。 だがそれよりも何よりも。 昨夜来、あれこれと考え悩み、きっと自分は死んだのだという結論に至っていた。前後の事情は定かでないが、何にせよ“緋村剣心”は死んだのだと。過去の罪も現在の罪も未来の罪も清算することなく、見苦しく罪深い肉体と人生を失い、さらに唾棄すべき第二の生を得たのだと。無知と罪を恥じ悔いる代わりに、醜い執着をむきだしにする浅ましいものに成り果てたのだと。 それなのに、これは一体どういうことだろう。 あれは誰だ。生前の自分にそっくりの、あれは誰だ。何なのだ。 混乱した頭でしばらく考えた末、ともあれ“緋村剣心”が昨日までと変わらずそこにいる、という事実をなんとか受け入れようとする。 そして、あまりにも普段通りに振舞う地上の“剣心”を観察した。 釜に水を張ってから、飯台のご飯を握って皿に並べていく。大皿三枚分。竹皮を水に浸して湿らせ、それに握り飯を包む。それから朝食の準備。残したご飯を飯櫃に移し変え、鍋に味噌を溶く。漬物のぬかを落とし、刻んで、盛る。いつもと同じ手順。同じ手際。同じ形。まず、味も。 もしや、と思いついた。 死んで怨霊になったのではなく、なにか妙なものに取り憑かれたか乗っ取られたか、あるいは単に何かのはずみか、ともあれ何らの事情で肉体と魂が分かたれてしまった、ということはないか。 ない話ではなさそうだが。 だが、そう思えば、それはそれで腹立たしい。 自分のものであるべき肉体が、誰かに、あるいは何かに勝手に操られているのも不本意なら、自分のいるべき場所がその不本意な存在に占められているのも不愉快だった。しかも、そうして人の肉体なり居場所なりを奪っておきながら、その“剣心”は、ひどくなげやりに見えた。一連の物事を義務的に淡々と行う。自分を取り巻くさまざまなものが軽んじられているようで、それもまた不快だった。 弥彦が手伝って、板の間に膳の用意ができる。 「大体、剣心はアイツのこと、甘やかしすぎなんだよな。そんなだから、いつまでたっても味噌汁ひとつまともに作れねんだぜ」 「そうも言うな。薫殿は道場のことで忙しい。家のことは拙者がする。それでよいのでござる」 「剣心がいいってんなら俺は別に構わねえけどさ。だけどたまには突き放すのも愛情ってもんじゃねえのかよ」 「おろ。弥彦には敵わぬなあ」 何くわぬ顔で、そんないかにも言いそうな科白を口にして、笑っている。 薫も弥彦も不審を抱く様子はまったくなく、その偽者を交えた三人の朝食は、平穏に、いつも通りに済み、師弟は防具と弁当を担いで隣町の道場へ出かけていった。 残された“剣心”は、後片付けを済ませ、洗濯を始める。尻尾を出す気配はない。 だが、その様子を眺めているうちに、次第に不安が兆してきた。 本当に自分が自分なのだろうか。 自分が本物で下にいるのが偽者だと頭から決めてかかっていたが、本当は逆だということはないだろうか。こちらの自分こそ、何かの手違いか勘違いかでそう思い込んでいるだけのまがい物で、あそこで無感動に洗濯をしている ないはずの心臓が早まり、胃が縮んだような錯覚を覚えた。 何かに背後から追い立てられているような感覚。 そのとき、泳いだ視界の端に、動くものを認めた。 表の通りを、男が勝手口を目指して歩いてくる。 ―――左之! 思わず口をついて出た声が空気を振動させることはなかったが、気がつけば自分の声に引っ張られるように、するりと下に降りていた。木戸口に漂って、こちらに向かってくる左之助に目を据える。 そうだ。この自分が緋村剣心という人物であってもなくても。生き霊でも、死後の霊でも、贋物の魂魄でも、穢れた怨嗟でも。たとえこの感情が、だれかに植えつけられたかりそめのものであったとしても。それでも、昨夜なにかのあんばいで宙に放たれたこの存在は、己の肉体よりも正体よりも生命よりも彼を希求したのだ。人の生という束縛を失い、自分で自分に科した生きる目的を見失った。そして彼に向かった。ならば、彼はきっと知っているだろう。これが何者か。何であるか。どうすべきか。力強い足取りで顔を上げて歩いてくる彼ならば。 近づいてくる左之助の目に、なつかしい光を見出した。 大丈夫。 そう思った瞬間だった。 まっすぐこちらに向かって来ていた左之助が、眼前でひょいと向きを変えた。そして足を緩めもせずに木戸を押し開け、通り過ぎた。 彼の目は漂う存在を認めなかった。別の何かを強く求めて、どこか違うところを見ていた。 「いよう。飯ぃ、残ってっか?」 声は、ひと足分ずつ遠ざかる。 振り返ると、“剣心”に話しかける左之助の背中。相手は洗濯を中断して立ち上がる。二人が話をしながら台所に入っていくのを、庭の隅から見送った。 親しい友人が例によって朝食の相伴に来た。お決まりの憎まれ口をやり交わしながらも、例によって実は取り残してある膳を設える。ただそれだけの日常の一場面だった。 だが、その一連の映像に、気持ちはひどく波立った。 盥から顔を上げた“剣心”の、それまでとは別人のような目つき。磊落に話しかける左之助の穏やかな笑顔。視線と言葉を交えながら歩いていく二人の周りの親密で柔らかな空気。 目の前に見た光景のあたたかさが、周囲の空気を冷たく変質させる。 二人を追うこともできず、塀際の樹の梢に漂った。 そして思う。 やっぱりあれは偽者だ。 自分ならあんなことは絶対にしないし、させない。 なんだあれは。 人の体で、よくも人目も憚らずにあんな情けない姿を晒してくれたものだ。 いらいらと気を揉んでいると、ほどなく左之助が出てきた。 「おう、また来らあ。後で手伝ってやっから、適当に残しとけ」 「やれ、怖い怖い」 「なにが」 「お主の親切は高くつく」 「そうか? 俺ぁまたてっきり付け値かと思ったが」 「おおきに、踏み倒し」 戯れ口の奥に、違う匂いが見え隠れする。 左之助は小憎らしい笑いを残して去り、残された“剣心”は洗濯の続きにとりかかる。 さっきとは打って変わって機嫌よくばしゃばしゃと水音を立てる姿がますます神経を逆撫でする。 だいたい左之助も左之助だ。あんないい加減な物に相手をされて、なぜ何も気づかない。中身がちがう、とまでは判らずとも、何かおかしい、と訝るのが本来だろうに。その目はふし穴か。と、思うほどに腹立ちが募っていく。 気を鎮めるため、梢の枝葉に目と気持ちを集中して、意識を木に同化させる。 そのまましばらく、頭をからっぽにして、たゆたった。 ようやく落ち着いて、つらつらと考え事をしはじめた頃、またもや鈍感唐変木の左之助が舞い戻って来るのに気がついた。我がもの顔で人の家に駆け込み、ずかずかと台所に突進する。いつもながらの傍若無人を、今は番人の心持ちで追跡した。 見ると、相も変わらず腑抜けた面の“剣心”に、なにやら手渡そうとしている。煮しめたような手ぬぐい。中に何かが包まれているらしい。相手にも思いがけなかったらしく、馬鹿のように目を見開いて、渡された包みをほどいていく。そして出てきたものに目を見張り、声に出して驚いた。 自分なら絶対にしないであろう軽々しい反応に苛立ちつつ、とはいえやはり中身が気になり覗きこんで、さすがにそれには驚いた。 「風月堂のアイスキリム?! どうしたのだ左之、こんな珍しい」 「おうよ。正真正銘の本物だ。そこいらの物売りのた、物がちがわあ」 この夏売り出された西洋の氷菓子は、蕎麦一杯が数厘のご時世に一つ十銭という法外な高値で、当然ながら庶民生活には無縁。時流に聡い赤べこの女将に教えられていなければ、神谷道場の面々など、存在さえ知らなかったかもしれないような品である。 「やましいものではあるまいな」 「言ってくれる。おめえに精つけてやろうって、両国から飛んで帰って来たってえのに」 全身汗みずくで息が早いのは、その所為か。「え」と瞬いた“剣心”に、左之助がふんわり笑って見せる。 「なんせ元が牛乳と玉子だ。滋養があんだとよ」 「……左之」 「い、いいからホラ、溶けねえ前に食ってみろって」 左之助の言葉には必ず手がつく。ひとこと言うごとに、額を弾き、髪に触れ、頬をつつき、背中に掌を当てる。 いつもあんなだっただろうか。 思い返してみて、そうかもしれない、とは、思う。だが、少なくとも自分はあんな情けない反応はしなかったはずだ。 左之助が触れるたびに、“剣心”の目は、少し揺れる。困っているようでありながら嬉しそうでもあり、また寂しそうに見えなくもなく、そして、ふしだらだ。蜜をまぶしたような淫らさ。ごく微かなそれは、他の人間の目には見えない程度のものではあろう。だがそれにしても、自覚がないなら愚かしいし、あるなら醜悪にすぎる。 背中がむず痒くなりそうな恥ずかしい会話にそれ以上耐えられず、樹々を見下ろす上空に逃げた。 見ていられない。だが目が離せない。笑いあい、ささやき交わし、視線を絡めながら甘い冷菓を食べさせ合う二人を、抗いようもなく目で追いつづけた。 アイスキリムを食べ終えた二人は、今度はひそひそと言い合いを始めた。“剣心”は不機嫌そうに首を振りつづけ、左之助は百面相をしている。やがて“剣心”が狼狽した様子で左之助の手を跳ねつけ、押し問答は終わった。左之助は機嫌よく庭の雑草取りを始め、“剣心”は口をおさえて台所に入る。 しばらくへどろのように漂いながら、草むしりを見ていた。 左之助の左手が雑草の根元を掴み、捻りながら引き抜き、新しい湿った土が露出する。掴む、抜く、土。掴む、抜く、土。 その動きにつれて、少しずつ体が重くなっていく。非物質の体に重いも軽いもないはずが、腕も手も驚くほど重だるく、意志伝達が遅い。とはいえ、非物質ゆえに相変わらずふらふらと浮遊して、落下するような気配はないのだが。 なんだか妙な具合だ。なにがどうなっているのか、ますます見当がつかない。 半畳ほどが済んだところで、左之助が立ち上がって伸びをした。うーん、と両手を振り上げて空を仰いで、ふと、止まる。そして首を傾げて訝るように目を細め、俯いて少し考え、また仰いだ。視線は空の一点にある。 すがめたその目が、自分を映しているような気がした。 全身が引き絞られて、気が逸る。 ことさらゆっくりと下降していった。 ――左之。 声にならずとも、唇の動きは呼ぶ名を伝えるだろう。 ――左之。 だが。 近づくにつれて、それははっきりしていく。 ――左之? 見上げた左之助の視線は、動かない。 どこかを見つめたまま、あるいは何も見ないまま、止まっている。 ――さ、 目前で、臓腑の底から呼びかけ、手を伸ばした。 ――の……。 すり抜けそうになる指を、ちょうどその位置に留めて、ゆるく動かす。押し戻す弾力を思い起こし、皮膚の下に流れる血流の熱さを想像する。宙を撫でる指に、その感覚を植え付けようと意識を集中する。 と、そのとき、左之助が短く笑った。悲しくなるほど鮮やかな笑顔を閃かせて口中で何事か独りごち、思い出したように印半纏を脱ぎ捨て、そして何事もなく草むしりを再開した。 左之助が動いた拍子に、指は彼の目を突き、脳を破り、腕を断った。 だが空に突き出されたままの手の下で、左之助はしゃがみこんで、炎天下の労働に勤しんでいる。楽しそうな鼻歌に交じって、根のえぐれるくぐもった音と、土の 剥き出しの陽射しは、昏いほど烈しい。 舌に溶ける西洋の氷菓子は、彼らの唇を甘く浸しただろうか。 見上げると、空が赤から黒に変わった。 ―――いっそ何もかも灼き尽くせ。 そして、どこまでも高く深く、天の底に身を沈めた。 |
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