・おでんは大根、八百屋に御用・ 1 2 (全)
<2>
膿んだ傷をえぐる物思いを振り切ってハンドルから顔を上げて「おや?」と思った。
小走りで戻ってきた相楽の顔がものすごく嬉しそうに輝いているのだ。渋滞の偵察から帰ってくる人間の表情には似合わない。
この先で一体なにが?
眉をひそめて見上げると、必死のボディーランゲージが返ってきた。
前を指し、腕を横に振り、両手を肩の横でパタパタと振り、背を丸めてなにやら捜すような不審な仕草をして、道路の前方を指し示す。
さっぱりわからない。
口も勢いよく動いているが、これまたさっぱりだ。
だめ?
まめ?
ちがうな。意味が通らない。
それにしても、たかだか車のガラス一枚と思っていたが、人の声ともなると意外にブロックされるものらしい。
「あ、そうだ」と言いたげに閃いた顔で、相楽が手を耳元に当てた。握った拳の拇指と小指を伸ばして耳と口にあてる、それは万国共通の電話をかける仕草であろう。携帯電話で話そうとは、目の付け所は悪くない。だがそれを持っていないのが今日のおれなのだ。
ナイ。ワスレタ。
簡単なはずのメッセージは通じなかった。なんと理解したのか、相楽は携帯電話を取り出して自局番号を表示して見せると、どこからか探し出したボールペンで掌になにやら書きつけて、車の窓ガラスに押しつけた。
男らしい大きな手だ。そのくせ存外にすらりと優雅に長い指。
おれの貧相で小さい手とはまったく対照的で、美しい。
昔からそうだった。
ペンを回す器用な手の思いがけない美しさに気づいたのは、二学期の中間試験の追試をさせていたときだったか。他に生徒のいない二人きりの教室で、おれは答案用紙にかがみこむ相楽の手を随分長く見続けていた。
――なに、オレの手、なんかついてる?
ニッと笑って答案用紙から上げた目は、まるでこっちの気持ちを見透かしているようでどきっとした。
――オレ指先器用なんだー。
両手の指先どうしを絡ませてくるくると動かし、次々と不思議な象形をつくっては崩していく。
やがて手はほどけ、ほどかれた指がおれの手の甲に乗せられた。
その美しく器用な指先で筋を辿り、指の稜線を歩き、指間の谷に潜り、関節の頂上を踏破する。
――オレの手技、結構スゴイぜ?
低く囁いて、相楽は意味深長に唇を舐めた。
*
『OK?』
ハッとして見直す。
掌に書かれた文字だ。
「090」で始まる十一桁の数字。携帯電話の電話番号だ。
そしてその上に仮名のふりがな。
「やおやに ごようは?」
八百屋?
八百屋に御用?
用なら大ありだ。
大根大根。大根ありませんか。浅尾大根。十本でいいから。
文言が今の自分にとって妙に切実だったせいで、それが電話番号の語呂合わせだと気づくのにやや間がいった。
ダカラナイ。ナイッテバ。ワ・ス・レ・タ!
めげずにコールミーシグナルを続けていた相楽だったが、ようよう「NO」の主旨を汲んでくれたらしい。
「ああ」というように指をたて、またおもむろにペンを掌に向ける。
だが彼がなにかを書こうとしたペンをくるりと無意識的に回したちょうどその時、相楽の携帯電話が光りだした。電話がかかってきたのだ。
『はい、もしもしー!』
しばらく会話が続いた。
電話の向こうと話しながら、大袈裟に眉をしかめ、渋面をつくり、首を振り、うーんと唸って、半ばやけっぱちのようにうなずき、見えない相手に手を振っている。
『えー、いきなりそんなこと言われたってこっちだって困る』
なんとなくの雰囲気で、唇の動きに頭のなかで声をあててみた。
『って言われてもなー』
『こっちにも都合ってもんが』
『ああ、ああ、わかったわかった。わかったよ、もう。なんとかすりゃーいいんだろが』
『はいはい。はいよー。十本でいいんだな? じゃあ後で届けるから』
『んああ? 今すぐぅ? 寝言は寝て言えバーロー。はいはい、よろしくー』
話しながら相楽の顔は表情豊かに動く。
同じように表情豊かに動く唇の動きに、目が吸われた。
――お。センセー、いいもん飲んでんじゃん。
いいものもクソも、ただの水だ。それも水道水。正真正銘タダの水だ。
――一口くれー。
口では「くれ」と言いつつ同時に手も動いていて、否も応もなく毎日持ち歩いているペットボトルは奪い取られていた。
ペットボトルをあおる喉がごくごくと水を飲み下す。
ぷはーっと口を離したときには、ほぼ満杯だった水は一気に半分近くに減っていた。
――サンキュ!
返されたボトルをひったくるように受け取り、もうないじゃないかと文句を言いながら、口をつけようとした時だった。
腰を折って身を屈めた相楽が横からすくい上げるように間近く顔を寄せた。
――間接キッス。
思わず手が止まる。
――とかって。やっぱ意識しちゃう?
馬鹿。
こんなことでたじろいでいたら相手の思うつぼだ。生徒というものは、教師をからかって、相手がうろたえるさまを見て楽しむものなのだ。
のせられるな。
――気になるんだ? やっぱり? なに、それってオレだから?
きゅっと片えくぼを作って相楽が笑う。
声を立てずに咽喉の奥で笑うヤツの息が首筋にかかる。
馬鹿馬鹿しい。だれがそんなこと、気になんか。
唇に触れるプラスチックの
温さに、心臓がばくんと跳ねた。
ただの水道水とは思えない蠱惑的な水が流れ込んでくる。
火酒を飲んだように内臓が燃えた。
*
電話を切った相楽がこっちを見た。
片目をつむって手刀で拝んで、なにやら謝っている。
『悪い』
どうした?
『急な用事が入った。行かないと』
ああ。
今の電話か。
そうか。うん。じゃあまあ。
いや別にそんな謝ってもらうことじゃ。
え、道の前方がどうしたって?
彼が慌ただしく繰り返したのは、さっきと同じ謎のボディーランゲージだ。
前を指して、腕を横に振ったり、肩の横で両手をはばたかせたり、匍匐前進の真似をしたり。
だから判らないって。
もういいから行け。
達者でな。
『センセー。開けて』
…………無理。
もういいから行けって。
だっておまえにはおまえの生活があるだろう。
おれだってもう教師じゃない。
『じゃあ電話。電話くれよ。な』
コールミーシグナルを繰り返し、番号を書き記した掌でバンバンと窓を叩く。
無理無理。
無理に決まってるだろう。
するわけない。電話なんか。だれがするか。
だいいち電話してどうする。なにを話す。
どうなる。
昔の教師と生徒がたまたますれちがった。それだけだ。
ゆきずりの再会はゆきずりに済ませる方がいい。
それがきっと一番いい。
ふっと相楽の顔が翳った。
『先生。オレ……』
――人の話聞けよ。なんだよ罰ゲームって。そんなんじゃねえよ。オレ本気であんたが好きだっつってるだろ。なんでだよ。信じろよ。
信じなかった。
信じられなかった。
信じられないことにした。
抱きしめられた瞬間、もしかしてと期待してしまったから。胸が高鳴った自分が怖かったから。
だってそんなの無理だ。ありえない。
………けれど。
けれどもしちがったら?
もし、もしもだが、億が一にもだが、仮の話、もしあれが罰ゲームでなく、いたずらでもなかったとしたら……?
だとしたら、おれは……。
『電話。いいな。絶対だぞ』
ダメ押しに掌を見せて、相楽は短く笑った。ウインドウの向こうにだけ夏が来たみたいだった。
おれはウンともスンとも答えられなかった。
相楽は車にまたがってハンドルを握る右手をわずかに上げると後はもう振り向きもせず、渋滞知らずの二輪の強みで動かない四輪自動車の列の横を軽快にすり抜けて走り去った。納品物と思しき商品名の入った段ボールを積んだ黒い影をおれの網膜にしっかりと焼きつかせて。
シートに背中を預けて目を瞑る。
無理だ。
できるわけない。
いまさら電話なんか。
してどうなる。
どうしようというんだ。
そうだ。おれはしない。
絶対しない。
悪いがこれでもこうと決めたらてこでも動かない性分だ。
だから何度も見せられた番号だってわざと視線をはずしてろくろく見なかった。
「090」より後の数字は覚えてもいない。
思い出は思い出のままにしておくべきだ。
昔教えた生徒。高校のときの先生。それでいい。
いまさら会うべきではない。それはたぶん、危うい。
だっておれはもう教師ではなくおでん屋だし、あいつは――。
ハッとしてがばりと身を起こした。
網膜にしっかりと焼きついた残像を食い入るように見つめて呆然とする。
疾駆する黒い影。大きな車体。広い背中。逞しくなった。
……いや、ちがう。そこではない。
その手前。下。段ボール。そう、そこだ。
なんと書いてあった?
納品物と思しき段ボール。そこに大きく印刷された文字。「産地直送」のフレーズに添えるように斜めに貼られたシールの屋号。
「山梨特産 浅尾大根」
「東谷青果店」
――いやなに、ちょっとな。昔からようく知ってる山梨の農家の息子が最近こっちでこまい青物屋を始めたってんで。
――これでも一応長男だしな。農家も生き残り競争の時代だし。
――そうそう、それそれ。オヤジさんがあっちで作って息子がこっちで売るって寸法。
あ――っ!
ちょっと待て。
待て待て待て。
電話。電話だ。番号だ。
なんだ?
なんだった?
さっきのあの語呂合わせ。
思い出せ。
八百屋がどうとか。
くそ、どうしてちゃんと見ておかなかったんだ。
八百屋、八百屋。八百屋といえば?
そうだ、大根だ。もちろんそうだ。大根。大根ありませんか。浅尾大根。十本でいいから。
答えが問いを導いた。
閃いた文言を必死でつかまえ、大急ぎでポケットに携帯電話を探り、そこで今日は電話を忘れてきたことに気づく。
くそ。こんな日に限って。
さらに間の悪いことに、ペンを取り出した瞬間、死んだように動かなかった前の車が前ぶれもなくつるつると進んだ。後続車のクラクションに急かされ、書きつける間もなくペンをハンドルに持ちかえる。
そうだ。おれはもう教師じゃない。
あいつは生徒じゃない。
いまさら?
いいや、ちがう。
いまならだ。
車の列が動きだす。
―――やおやに ごようは?
「大ありだ!」
始まりの予感に胸が高鳴る。
道はさらさらと小川のように流れ出した。


/2008.4.14
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