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おでんは大根、八百屋に御用

ようこ



 思うに高校生相手というのがよくなかったのだ。
 同じ教職でも、小学校や、せめて中学なら、少しはなにかがちがったかもしれない。

 ……いや、ちがうな。

 結局は同じことだったさ。
 要するにおれが相応しくなかった。
 それだけのことだ。


 渋滞は突然だった。
 気持ちよく進んでいた車の流れがいきなり止まり、そしてそのまま動かなくなった。
 もう十分近くもまったく動いていない。

 やれやれ、ついてないな。

 うまくいかない日というのはなにもかもがうまくいかないらしい。
 朝は寝過ごす、携帯電話は忘れる、車の電子表示は不調、花粉は飛び始める、あげくに仕入れまでがいまさん・・・・だった、その帰り道がこれである。
 どうしても欲しかった食材のうち、首尾よく手に入ったのは金沢蓮根だけだった。とくに困ったのは大根で、このところずっと品不足の売り手市場が続いているせいか、狙っていた浅尾大根どころか普通の大根さえ満足の仕入れとはいいがたい。
 もちろん、そこをなんとかするのが料理人の腕だ。たしかにそうだ。まったくもっておっしゃる通り。しかしそうはいっても商売が商売である。「本日大根品切れ」はおでん屋としてちょっとどうか。
 十本でいいから浅尾大根がなんとかならないかと馴染みの問屋の店主にごねたり泣きついたりしてみたところ、さすがこの道三十年の顔は広い。

――じゃあまあ訊くだけ訊いてみてやるよ。いやなに、ちょっとな。昔からようく知ってる山梨の農家の息子が最近こっちでこまい青物屋を始めたってんで。ああ、そうそう、それそれ。生産農家直売。オヤジさんがあっちで作って息子がこっちで売るって寸法だな。まあこっちも便利っちゃ便利だし、最近ちょこちょこ入れてもらってるってわけよ。

 浅尾大根は山梨の特産である。なんとか回してもらえるよう算段をつけようと言ってもらって少し安堵したのだったが。



 ……まいったな。

 久しく思い出すことのなかった苦い過去が思い出されたのは、重なるアンラッキーにへこんでいたからだろうか。

 いや、どっちかっていうとあれのせいだろうな。

 あれだ。あれ。
 前にいる車のリアウインドウからこっちを見つめている青いぬいぐるみ。
 外国のアニメ映画のキャラクターだ。どんな実在する動物にも似ていない珍妙な姿かたちをしている。たしか宇宙怪物だった。名前はたしか、えーっと、えーっと、えー……。
 スポックさん。
 ……は、ちがうな。それはエンタープライズの副艦長だ。冷静沈着、論理を重んじ、感情を制するバルカン星人。すばらしい。理想だ。魅惑的だ。リブ・ロング・アンド・プロスパー。長寿と繁栄を。
 こいつはちがう。地球人でないのと名前が「ス」で始まるのはスポックさんと同じだが、同じなのはそれだけだ。ちんちくりんで感情的で感傷的で衝動的で、突然キレる。客観的に見て「かわいい」とは言いがたい存在だと思う。思うのに、不思議なことにこれが巷ではずいぶん人気がある。

どこがいいんだか。


――なんで。かわいいじゃん。あ、そういやこいつ、センセーにちょっと似てるかも。



 子どものお遊びにいちいち振り回されてやれるほど高校教師の仕事は暇ではなかった。当時はそんなことを言われたことさえ翌日にはもう覚えてもいなかっただろうに、なぜ突然そんなことを思い出してしまったのか。


――ていうかこいつってさ、こんなに可愛いのに、凶暴で乱暴者でやることメチャクチャな宇宙怪物でさ。でも実は超さみしがり屋の泣き虫だったりしてさ。そこが可愛いんだけど。とかって、センセーも案外泣き虫だったりして?



 片頬だけをきゅっと持ち上げて笑う、彼独特の笑い方。
 男前が男前に笑うのだから、あの笑顔に多くの女子生徒がのぼせあがっていたのは当然だったろう。
 いつも人の中心にいる、華のある生徒だった。
 今頃はきっと、いつも人の中心にいる、華のある青年になっているのだろう。


 でもどっちにしてももうそんなことおれには関係ないから。
 ああ、もう。
 今日はなんでこんなしょうもないことばっかり思い出すんだ。
 まったく。

 それよりこの渋滞だ。ちっとも動きやしない。
 都心でもないのに、これじゃまるで皇居前の通行止めじゃないか。



 様子を知りたい。いったいなにが起こっているのかがとりあえず知りたい。普通、渋滞とはいえ少しずつなりとも進むものだ。それがびったりと静止して、まるで地球最後の日が来たとでもいうように深閑としている。

 なに渋滞・・・・なんだ?

 窓を開けて様子を見てみようかとも思ったが、しかし花粉が飛びはじめている。花粉症二年生の初心者として用心はするに越したことはないと思う。できれば開けたくないし、大体顔を出してのぞいてみた程度でなにかがわかりそうにも思えない。それではまったく花粉の浴び損というものだ。

 うーん。どうしたもんかなあ。
 マスクの中で口を尖らせ、腕を組んだ。
 ラジオの交通情報では別になにも言っていないし、こんな日に限って携帯電話を忘れているし、運転席から窓も開けずに見える範囲などたかが知れているし。
 車は教師を辞めておでん屋を始めるときに知人に譲ってもらったスウェーデン車だ。年式は古く、ナビゲーションシステムも非搭載だが、積載量の多いワゴンは仕入れや運搬に都合がよかった。仕事でしか使わないから、後部座席も含めて食材や荷物の運搬にいいように多少改造し、体側には店のロゴ、住所、電話番号もいれてある。

 それか、だれかに訊くか。

 不便かと心配した左ハンドルに車中から人と話がしやすいという意外なメリットがあることを乗りはじめてから知った。とりわけ歩道にいる人と話すには具合がいい。

 だれか来ないかな……。
 人が通りかかったら訊いてみよう。

 そう思って見回す視界に、ちらりと動く黒い影が映った。
 サイドミラーの中だ。
 近付いてくる大型自動二輪車がある。
 乗っているのは上背のある男。手足も長いのだろう。大きいはずの車体がしなやかに馴染んでいる。フルフェイスのヘルメットで人相はわからないが、おそらくまだ若い。
 ちなみに「黒い影」は比喩ではなく、車も乗っている人間もほぼ真っ黒だという意味だ。後ろに積んでいる所帯じみた段ボール箱がなければ、いわゆる「怖そう」な人に見えたかもしれない。


 あのー、すいませーん。


 頭の中で声を出しつつ、目で呼んでみる。


 おっ。

 通じた。

 こっちを見てる。

 もしもーし。
 もしもーし。
 もしも……。


 ……まさか。

 まさかそんな。


 そうだ。もちろんまさかだ。目の錯覚だ。見間違いだ。そうに決まってる。
 だってそんなはずがない。
 父方の郷里に帰って実家の家業を手伝っているはずの相楽がこんなところで二輪車を走らせているはずがない。生意気で扱いづらい生徒ではあったが、卒業してたった二年でこれと決めた道と家族を放擲してしまうような人間ではなかったはずだ。


――これでも一応長男だしな。農家も生き残り競争の時代だし。



 だがそれはどうみても彼だった。
 授業中といわず休み時間といわず放課後といわず学校内といわず外といわず、人なつこい子犬のようにまとわりつき、腹を空かせた野良犬のようにつっかかり、あげくにくだらない罰ゲームにのせられてそれまでの全てをめちゃめちゃにぶっ壊してくれたかつての教え子。
 相楽左之助。
 まちがいない。


『おー、センセーじゃん、久しぶりー!』


 窓は開けていないがはっきりと声が聞こえた。
 ヘルメットの中の口の動きにつれて、あの楽しそうな、どこか人をからかうような弾力のある潤んだ声が直接頭のなかに響いてきた。


『すっげー偶然。元気? 今なにしてんの? それなに。花粉?』


 顔の三分の二を覆う高機能立体マスクを指し、身振り手振りを交えて懐かしげにコミュニケーションを図る。
 まるであんな気まずい別れなどなかったかのように。
 二年ぶりに再会したただの先生と生徒のように。

 なにかで刺されたように胸のあたりがきりっと痛んだ。




 若者に二年は長い。
 二年の間に彼のなかではそれはもうほろ苦い青春の思い出のひとつに風化したのだろう。
 だがそれは若さの特権だ。

 あの頃よりも二年分男らしくなった相楽が、大きなオートバイにまたがって、ヘルメットのなかで目と口を丸めて「へええ〜」と感心している。車に書かれたおでん屋のロゴを指差し、次におれの顔を指す。
 うなずくと、また「へええ〜〜」と少しのけぞった。


『開けて』


 心臓が跳ね上がった。
 唇を読むまでもなく、コンコンとガラスを叩く指の動きからも意図は明白だ。


――センセー。好きだ。好きなんだ。



 耳が濡れるほど間近で囁かれた声の熱さが二年の歳月を超えて甦る。



 カ・フ・ン・ガ・イ・ヤ。
 マスクを指し外を見回してボディーランゲージ。

 外国人のような仕草で肩をすくめる呆れ顔に、またまたボディーランゲージで訊ねる。

 マエデナニカアッタノカ?

『ちょっと待って、見てくる』

 同じ肩をすくめる身振りとぴたりと壁をおさえるような掌の一押しを残してオートバイを降りた相楽は、歩道を走って様子を見にいった。



――オレ、センセーが好きだ。


 まったく人を馬鹿にしたガキどもだった。

――罰ゲーム? なんだよそれ。そんなんじゃねえって。オレは真剣に。


 変に言い訳をされると余計に頭にくるものだ。

――ちがう、ほんとだ。オレ本気でずっと先生のことが。


 罰ゲームの告白ごっこにしては迫真の演技だった。あんな目で見つめられたら、たいがいの女性はひとたまりもないのだろう。だがおれは男で教師だった。「そんな道理がない」と気づける程度には冷静だった。
 絶対罰ゲームだ。そうでなければ、悪友たちと賭けをしているのだ。
 そうだ。そうに決まってる。

――だからそんなんじゃねえって。どうすれば信じてくれる。


 悪友とたくらんだいたずらに引っかからないとなると今度は力ずくか。
 そう思うともう腹も立たなかった。ただ虚しかった。
 一年以上も病気で休職していたから教えたのは一年だけだったが、人生の礎になる一年だったと思っていた。たった一年だが、かけがえのない一年だと思っていた。五年で挫折してしまったとはいえ、教師として生きた数年の宝物としてずっと大切にしていけるはずの月日だったのに。

 人を嘲る冗談をおれは侮蔑する。
 人の痛みのわからない心の未熟な人間の短絡的な言葉の暴力だ。下の下の行為だ。

 組み敷かれた不利な体勢のまま、叩きつけるように詰るうちにどんどん気が昂ぶっていった。
 勢いにまかせて言い過ぎたかもしれない。年より大人とはいえまだ高校生だ。
 毒舌なおれの辛辣な言葉を容赦なく浴びせられて、相楽は男前の顔を真っ白にして言葉を失っていた。

――……オレらのことそんな風に見てたのかよ。あんたにとっちゃオレはそんなもんだったのかよ。


 ちがう。
 ちがうちがうちがう。そうじゃない。
 たった一年きりでも一生だ。もう二度と会うことはなくてもこれぎりでもおれはお前たちを忘れない。一人ひとり、だれひとり、忘れない。
 ましてお前は。おれにとってお前は……。
 心の叫びは言葉にならなかった。
 そのかわりに口から迸り続けのは、それとはうらはらの、それまでの全てをぶちこわして踏みにじる、汚泥のような言葉だった。
 息のかかる距離で睨み合い、口を真一文に引き結んで、相楽はもうなにも言わなかった。



 彼ではない。おれだ。
 それまでの全てをめちゃめちゃにしたのは、彼ではなくおれ自身だった。
 生徒たちと築いたものを、彼との絆を、自分自身の矜持を、おれの臆病がぶちこわした。


 情け容赦もなく言い尽くして言うことがなくなると、教師という職業に思い残すことももうなにひとつなくなっていた。





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