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「ハニーではなくダーリンだ」
……………はい?
おれもマスターもいまいち文脈がつかめない。
だがもちろん緋村さんはいたって冷静で真面目で沈着だ。
意外にも気に入ったらしい蜜菓子のようなミルキーグリーンのカクテルを飲み干し、
「ダーリン」
といって自分の鼻を指さし、
「ハニー」
といって、おれを指す。
「………」
「………」
「………」
………んーももももしもしいーー?!
「ん?」
“ん?”じゃないだろアンタは!!
「……あ、ああ、そっかそっか。そうなんですねー。すいませんすいません」
だからちがうっつのクソオヤジ!!
「ハニー?」
「ハニー」
「ハニー」
ヒトを指さすな声を揃えるな頷き合うな!
っていうか、言語化と直接的表現は苦手なんじゃなかったのか?! 「ハニー」と「ダーリン」は比喩、婉曲の範疇なのか?!
……いや、問題はそこじゃなく。
「ハニー」も「ダーリン」も本来英語では性別に関係なく「愛しい人」を意味するというが、しかし日本では明らかに性別がある。
――ねえねえダーリン。なんだい、ハニー。ダーリンあーんして。あーん。ぱくっ。ねえダーリン、おいしい? おいしいよハニー、でも君の方がもっとおいしそうだ。いやん、ダーリンったら。愛してるよハニー。あん、ダーリンあたしも。んーっちゅばっ。いやん。ちゅばっ。
……だから待てってば!
あれほど壮絶な闘争を経てようやく合意のもとに初志が完遂されたのはついこないだのことなのに。たしかにいつまで経ってもおれは永遠に思い切り年下だし、直後には「今度は交代」だとか「すぐに決めてしまわなくても」だとか、わけのわからないことを口走っていたが、それはまあ事後の錯乱のうわごと的なもので、なにも本気でそんな試みを企図しているわけではないだろうと思っていたのに。
そのときだ。
緋村さんがほんの少しだが首を傾げたのは。
「………?」
不思議そうに首を傾げて、なにか考えている。
といっても、例によって、眉を寄せるでも上げるでもなく、口をつぼめるでも目をしばたたくでもなく、おもて立ったクエスチョンマークが顔に記されているわけではない。
だからおやっさんは何も気づかずそのまま話を続けている。
けれどおれには判る。これはなにか不可解なものに出遭ったときの沈黙だ(と思う)。
「ど」
どうかしたのか?
おれが言いかけた瞬間。
「すまない、五分だけ」
言うやいなや、緋村さんは机に突っ伏した。
手は膝にそろえたまま、腕も上げずに背中を丸め、真っ直ぐ前におでこから墜落した。
「……は?」
ごちん、と濁った音が響き、おれもおやっさんも茫然と見守るほかに為すすべを持たない。
「………」
「………」
「実は酒弱い……?」
「や、マジでざる……」
「あ、そう……」
「一升あけて酔う前に腹がふくれるって」
「あ、そう……」
「………」
「………」
「平気そうか?」
「ああ、うん、わかんねえけど、自分で五分って言ってたし、大丈夫なんじゃね?」
「あ、そう……」
さすがに毒気を抜かれたらしい。
“マスター”は黙って水を二つと、おれにはスコッチを出した。
別の客に呼ばれておやっさんが離れるのを待ち、おれは緋村さんの眼鏡を外してやった。
眼鏡をかけたまま机に突っ伏すのは容易ではない。顔を傾けるとつるが当たるし、正面向きでも角度によってはフレームが当たる。これだけ背中を丸めて頭頂から突っ込むように額をつければ、たしかに眼鏡は差し障らないが、その代わりどう考えても頭に血が上る。どちらかといえば、おれはこんなときくらい強情はらずに眼鏡を外して普通に寝る方をおすすめしたい。
片手で頭を持ち上げて、そううっと眼鏡を取る。
迷ったが、結局姿勢は概ねそのままにすることにした。ただし額の下におしぼりを敷いておく。あまりいじるのも憚られたが見るからに痛そうだし、それに起きた後が面白そうだと思ったからだ。
きっとおでこにタオル地模様の日の丸ができる。
おでこに日の丸の緋村さん。
悪くない。
抱えた頭をそうっと下ろしながら、少し上気した頬の息づかいや、何かを待っているような濡れた唇や、濃艶な睫毛の陰影や赤らんだ目尻や、いつもより少し早い呼吸に揺れる肩などはなるべく見ないようにしていたが、その少し荒い寝息がどうしようもなく耳に入ってくる。
「………」
やっぱり気になる。
「緋村さん?」
「………」
「緋村さんはダーリンなんだ?」
「うん……」
「ハニーじゃないんだ?」
「うん」
「なんで?」
「ハニーは……
蜂蜜だから……」
「え?」
「はちみつだから……」
「ハチミツ?」
まあ正しい。
ハニーはハチミツである。
ディス・イズ・ア・ペン。これはペンである。
……それはちょっとちがう。
「ハチミツ? ハチミツだから? だから緋村さんはハニーじゃない?」
「おれははちみつではない」
「……うん。まあそれはそうだよな。緋村さんはハチミツではない。そりゃそうだ。でも緋村さんはちがうのに、おれはハチミツなんだ?」
「うん……」
「なんで?」
「さのは……ハニーだから」
「………」
だめだ、堂々巡りだ。
と、思った。
だれかの家に電話をかけたら小さな女の子が出て、ゾウさんがどうとかキリンさんがどうとか言い出したときっていうのは、きっとこんな気分なんだろうと思った。
だから、そう訊いたのはほとんど適当だった。
「そっかー。緋村さんはハチミツじゃないからハニーじゃないけど、相楽くんはハニーだからハチミツなんだー。じゃあどうして相楽くんはハニーなのかなー?」
「んー………スイ…トで……テイスティー……から……」
「………」
ジョワジョワジョワと、今度は背中ではなく五臓六腑に泡が立った。
こんなところでこんな風にいきなりこんな殺し文句を言われた場合、男はどう対応すべきなのか?
おれにはひとつも選択肢が浮かばず、真っ白に静止したまま動けない。
とにかく早くもっと大人になりたいと思うのはこんなときだ。
何をどうしようと、何がどうなろうと、十の年齢差が永遠に埋まらないのは理解している。だが、実年齢がどうこうではなくて、ちゃんと大人になって、余裕綽々とは言わないまでも、せめてこのひとの横に並び立てるくらいにはなりたいと、切に思うのだ。
けれど、この店の中でこそ四年前から変わらず二十一歳ということになっているものの、ほんとのおれは十八歳の大学生で、半人前の青二才で、というかそもそも十七だとか十八だとかいう数字などに数字以上の意味はなく、高校生が大学生になっても相も変わらずの未熟者で、そんな途方に暮れた今のおれにできることといえば、どっかの青臭いガキの三倍以上の人生経験を積んだ人のいい親爺が足してくれたスコッチをちびちび舐めながら、フェアトレードのオーガニックマサラチョコを囓りながら、おれの無上のハニーの寝顔を周囲の目から守ってやることくらいしかなかったのだった。
緋村さんはきっちり五分で復活した。
墜落したときと同じくらい唐突に。爽やかに。かわいい日の丸をつけて。
「目が回った」原因は「生クリームとアルコールの食べ合わせ」にあると思われる。
と、緋村さんは言った。
だが本当にそんなことが?
だって、「乳製品と酒」という意味なら「ワインとチーズ」だって「クリームコロッケとビール」だってアウトだし、洋酒の利いたケーキも該当するではないか。
赤飯とカルピスが苦いのと一緒か? いやそれは次元が違う。じゃあウナギに梅干しで死ぬとかいう? ていうか、もっと違うし。
緋村さんは寝ている間のことはまったく覚えていなかった。
おれが眼鏡を外し、
額あてをしてやったことは状況から判断して礼を言ってくれた。
“マスター”が何をどこまで見て聞いていたかは知らないが、帰り際、土産に、緋村さんには例のアジウリを、おれには「がんばれよ」という目的語の不明な応援メッセージをくれた。
手を繋いで歩く道すがら、おれは言ってみた。
「ダーリン?」
前を向いたまま、横目におれを見上げる緋村さん。
おばあちゃんの眼鏡のように、眼鏡の上からクロマトグラフィーが直に見える。
緋村さんの視線が正面に戻る。
「……なんだハニー」
おれは立ち止まり、緋村さんも足を止めて向き直る。
「いいものあげよっか」
………沈黙とまばたき。
「あまくておいしいもの」
………沈黙。
「目、つぶって」
………。
おれは緋村さんの眼鏡を外す。
ていうか、おれはぜったい緋村さんこそハニーだと思うんだけど。
とびきりスイートでテイスティーで、でもってすこぶるスパイシーな。
おれの。
おれだけの。
END/2007.1.1
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