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みつばちの巣箱
「おやっさん、前に言ってたスイカのカクテルとかってあったじゃん?」
「だから“おやっさん”じゃなくて“マスター”だって」
「酒屋の立ち呑みカウンター」が「酒屋の立ち呑みバー」になったといっても、変わったのは名称とおやっさんの前掛けだけ(酒屋の前掛けがソムリエエプロンに変わったのだ)。
実相は似たり寄ったりどんぐりの背くらべ同工異曲で、六十間近の風体も“マスター”という柄ではないのだが。
「そんじゃ“マスター”さ。言ってたじゃん、スイカのカクテル。あれ作ってよ」
「……ああ、そうか。西瓜。お好きなんでしたっけ?」
そういえば、と前半を独りごちて、後半は緋村さんに問いかけた。
首肯するのを見て、ぱん、と打ち合わせて手を揉んだ。
「はいー、よろこんでー!」
ていうか、それ、店ちがうから。
外出嫌いの緋村さんと、こんなところに来るのは初めてだ。
単なる日常報告の一環だったのに、高校時代から世話になっているアルバイト先の酒屋が目先を変えようと始めたこの試みに緋村さんが興味を示したのは意外だった。
「行ってみる?」
承知するとはますます意外だった。
国粋主義かと思われるほどメイドインニッポンを選り好むくせに、飲み物の嗜好はグローバルだ。
「酒はざる」の見本のように強い酒類では、日本酒、焼酎、泡盛、ワイン、ブランデー、ウイスキーあたりのうち、高アルコール度数、低糖度のものを好む。
スコッチ好きの親爺と相通ずるものがあるらしく、さっきからとても話が弾んでいる。
といってもあくまでも無表情無愛想な緋村さん標準を出発点としての話だから、その緋村さんが手洗いに立った合間におやっさんが言ったことも無理はない。
「しかしあれだな、べらぼうにクールなひとだな」
「や、でも今日めっちゃ楽しそう。よく喋ってるし。おやっさんすげえって思ってたんだけど」
「………あれで?」
「ああ」
「へええー。おまえが手こずるわけだ」
「うっせえよ」
ぼやいてふと振り向いて、思わず見惚れた。
むさくるしい酒屋の立ち飲み空間の中でも、そして普通に歩いているだけでも、やっぱり緋村さんのかっこよさはずば抜けていた。
頭が小さいだとか、耳のかたちが芸術的だとか、骨格がしなやかだとか、筋肉の形が洗練されているだとか、着ているものが似合っているだとか、歩き方が美しいだとか、身ごなしにえもいわれぬ品が漂っているだとか、目鼻や眉や唇の造作の妙だとか、首や肩や鎖骨や胴や腰や脚や手や指の動きのなめらかさだとか、結果、全体としてすごい存在感があるだとか、そういうことではない。
いや、それはもちろん全部余裕でそうだし、挙げはじめたら美点などもっといくらでも際限なく挙げられるのは当たり前だが、それらを全部合体させたからといって、「緋村さん」にはならないのだ。
奇跡。
などと大仰なことを言うつもりはないけれど。
――どうかしたか。
よっぽど凝視してしまっていたらしい。
スツール(という名の円椅子)に戻る緋村さんの目が無言の問いを発していた。
――いいや別に、なんでも。ちょっと見てただけ。
「あ、そういやさ。おやっさん、前に言ってたスイカのカクテルとかってあったじゃん?」
「だから“おやっさん”じゃなくて“マスター”だって」
お茶にごしが完全に見抜かれていたのは、それだけは新しい肩書きが板についたものにも思える、流れるような動作でシェーカーを振るマスターの目に、面白がる色が踊っていることからも明らかだ。
静かなざわめきのなか、シェーカーの中で氷が往来するリズミカルな音にふたりで耳を傾けて、ほどなく。
半透明のきれいな赤いカクテルが緋村さんの前に置かれた。
朱鷺羽色のやわらかな唇がグラスに触れて、ローズピンクのジュースが吸い込まれる。
はなびらが閉じて離れて、咽喉が小さく動く。
不思議色の瞳がゆっくりとひとつまばたき、まつげが揺れる。
音の途絶えたスローモーション映像を、おれはただただ見つめる。
「……西瓜だ」
例によって表情もほとんど動じず声も平板で、しかも言ってることはあんまりにもそのまんまだったから、これが心動かされたひとの感嘆の声だと判別できる人は少なかろう。
無言の笑顔で応じたおやっさんが遠慮がちにおれに投げた視線も、オーケーかアウトかを判じかねての「どっち?」の意味だ。さて、「超オッケ」のアイコンタクトは通じたか?
ひとくち横取りしたそれは掛け値なしに美味しかった。
生のスイカとウォッカが主成分で、ソルティードッグ同様のグラスの口に塩をまぶしたスノースタイル。細かく挽かれた塩には何かエスニックな風味のスパイスが混ざっている。
「うわお、めっちゃスイカ。つうかあれだ、塩スイカ!」
“マスター”が笑う。
緋村さんが「そうそう」というように頷く。
「んめー。悪くねえじゃん、果物系。発見発見。おやっさんさ、これいっそシリーズ化したら? 生ハムメロンとかさ。あとなんだ、洋ナシ鴨とか」
「相楽なあ、オリーブならともかく、生ハムをどうカクテルにするっていうんだ」
「あ、そか」
「ああ、でもあれだ、生ハムはないけど生メロンはあるある」
「へえー。作って作って」
「はいー、よろこんでー」
だからそれ違うってば。
「よかったらどうぞ。
味瓜です」
“マスター”がそう言ってガラスの小皿を緋村さんの前に置いたのは、おれがその生メロンとホワイトカカオリキュールと生クリームをシェイクした「メロンホッパー」というラブリーな名前と味のカクテルを緋村さんにも試させてやろうとグラスを滑らせたときだった。さっきのスイカとは異なり、メロンメロンしつつもしっかり甘い。甘い酒というより、いっそものすごくアルコールの利いた洋菓子のようで、これはこれで悪くない。というかなかなかいける。
「アジウリ?」
「あじうり?」
ひとつのグラスに二人で指を添えたまま、おれたちは揃って親爺を見た。
皿には扇型にスライスされたウリ系の果物または野菜。
「メロンほど甘くないんですけどね。瓜らしい味で。素朴な。プリンスメロンの原種だそうです。あ、マクワウリって言ったらわかるかな」
「?」
「ああ、真桑瓜」
緋村さんはそれで判ったらしい。
話しながら親爺は、そのメロンとスイカとキュウリと何かを足していくつかで割ったようなみどり色のウリを、おれたちに見せた。
「実家、北海道なんです。ウチの方じゃアジウリっていうんです。思い出した。西瓜っていうか、そもそもウリがお好きなんでしたよね」
「え?」
「前にこいつが」
去年の夏、大きな西瓜を玉でもらったときに、おれがそんな話をしたらしい。
「すげえ、おやっさん。なんでそんなこと覚えてんだよ」
「あったりめえよおめえ、相楽の大事なハニーのことならよ」
「…………」
「…………ハニー」
沈黙したのがおれで、復唱したのが緋村さん。
背中にジョワジョワと粟が走る。
おれには何より自慢の緋村さんだし、緋村さんも意外にもさほど人目ははばからない方で、たまに出かけるときなど、どこでも誰がいても平気で手を繋いだり腕を組んだりはしてくれるが、しかしそんなときでも基本は無表情だしクールだし、そしてやっぱりシャイはシャイだ。言語化にはいまいち免疫ができず、直接的表現を好まない。
面と向かって「ハニー」はまずいと思うんですけど。
「……おれが?」
ほらきた。
ジョーワジョワジョワジョワ………。
「あ、や、えっとまあその、すみません、その、あの……」
――がんばれ、おやっさん。ちゃんと謝ればオッケーだから。このひとアンタのことけっこう気に入ってるから、大丈夫だから。
おれはテレパシーでエールを送る。
――百戦錬磨の酒屋の六十親父がそんなことでどうする。
叱咤激励する。
が。
「いや、ちがう。ハニーではなくダーリンだ」
と、のたもうた緋村さんは、やはり独自の価値観で生きているひとだった。
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