まつ、ひぐらしに 1-2 |
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ふいに街並みが変わった。寺や屋敷が姿を消し、 「 言われてみれば、軽快な機音がそこここから聞こえている。人の往来も多く、大きな荷物を積んだ荷車も頻々と通る。十年ぶりに見る文明開化の西陣は剣心にとっても新鮮なのだろう、興味深げにきょろきょろと余所見をしていた。 そのせいか、あるいは次第に道が碁盤の目状でなくなり行き止まりや曲がった道が多くなっていたせいか、二度ほど袋小路を引き返した。いつしか西陣の賑わいも後方に去っている。もう街はずれまで来ていたのだ。 「よう、剣心。どこまで行くんだ?」 「うん、ちょっと行きたいところがあってな。大丈夫、日が暮れる前には帰れよう。」 「……おう。」 さらに進む。周囲の眺めはみるみる寂れていく。田畑が目立ちはじめ、民家がまばらになり、人通りもめっきり少なくなった。静かで強烈な夏の光の下、家並みの途絶えた道の白さが遠近感を奪う。 じき山道に入った。両側には樹木が濃く茂り、ひんやりと澄んだ空気が心地いい。 それにしても、これは「ちょっと散歩」などという道でも距離でもない。さすがに気が揉めてきた。 「なあ。その行きたいところってなぁ、どこなんだ? っても、聞いてもわかんねえだろうけどよ。」 「このあたりは杉が名産でな。」 「……。」 「杉林があるんだ。それを、ちょっと見てみたくなってな。」 「北山杉ってやつか。」 「ああ、それだ。よく知ってるな。」 前回来たとき、その杉の村の出身だという女に会った。中川村の杉林のなかで抜刀斎を見かけたことがあると女は言った。それで覚えていたのだ。 ふと、青々とした香気を感じた。あらためて周囲を見渡してようやく気づく。俺たちはすでに杉木立のなかにいた。曲がりくねった一本道に、人影はない。 「ここらにゃ、人はいねえのかい。」 「もうちょっと行ったところには杉の村がある。だが産物が杉だからな。そんなにしょっちゅう往来するものでもなかろう。」 「やっぱり材木かい。」 「ああ。北山の磨き丸太と言ってな。若木のうちから枝打ちをして、真っ直ぐに真っ直ぐに育てた木を、村の女たちが水と砂で磨く。数奇屋の、いい材になるそうだ。」 剣心が足を止めて樹々を見上げた。あたりには、杉に特有の心が洗われるような清涼な空気が満ちている。 無心の様子で、ざわめく梢をどれほど見ていただろうか。 目を遠くにやったまま、まるで杉の木に向かって話しかけるようにぼそりと呟いた。 「左之。東亰へ戻ったら、もう、部屋へは……来るな。」 「剣心?」 「俺も、もう行かないから。」 「おい、何を言って……。」 「うん、だからな。ここで東亰へ戻れば、もういつまでも今まで通りの居候では居られないだろう。だから、それは、まずいんだ。」 「………っ。」 「考えなかったのか。」 そう言って剣心は振り向いた。こんなに優しく微笑む剣心を、見たことがない。 「さの。拙者がここで東亰へ帰るというのは、そういうことなんだよ。多分な。」 言葉がなかった。胃が引き絞られるように痛む。道を外れて木立に足を踏み入れた剣心が、杉の木に手を添え、天へ向かう幹を見上げて話し続けている。 「俺は、あの娘のまっすぐな気持ちには応えることができないと思っていたよ。ひとりで東亰を離れたのは、それもあってのことだった。なのにお前たちはみんなして追いかけてきた。正直、なんなんだそれは、とも思ったよ。でもこうなってしまったからには、それもなにかの縁だろう。今度のことでも痛感した。瞳に映ったあらゆる人を救うことなどできはしない。ならばせめて目の前の女の小さな幸せを守りきってみよう、と……。」 なんだそれは。なんの話をしている。声は聞こえるが、言葉の意味が入ってこない。頭のなかで調子の外れた祭囃子が鳴っているようだ。 「左之。」 名を呼ぶ声がまっすぐ耳に入ってきて、ハッと意識が冴えた。 「生死を共にした同志ならこれまでにもいたが、心を預けた友人はお前だけだ。さっき言ったろう。そんな男は、お前が初めてだと。それでは……だめか?」 「剣、心……?」 「今回のことで、お主は本当に見ちがえるほど大きくなった。きっとこれから先、もっと……。」 「そんなこと、いま関係ねえだろ!」 「あるんだ! 聞け、左之。もともと生き方がちがいすぎるんだ。俺は自分の為すべきことをする。だからお前も、お前自身の道を行け。」 「だからなんの冗談だっつってんだ! 俺は! だってお前も……! そうだろう、剣心?」 両肩をつかんでいた俺の腕を邪険に振り払って、剣心はさらに林の奥へと分け入っていく。 「……だって仕方ないじゃないか。俺はお前も大事だったし、なのにお前があてつけみたいにあんな無茶をやらかしたりするから。だから、どうせすぐにいなくなるつもりだったし、それまでの間なら構いはしないと思って、それで……。」 「おい! てめエ、こっち向けよ。俺の目ェ見て言ってみろよ!」 だが、肘を捉えて振り向かせると、剣心は感情の削げ落ちた冷たい顔で平然と俺を見上げてきた。残酷な科白をすらすらと繰り返し、「これでいいか」と締めくくる。 まただ。闘っているときはあんなに判り合えたと思ったのに。剣心。 「……う、そだろ。」 「なにが嘘なんだ。俺は本気だ。この手を離せ。」 「でも剣心、俺は……!」 「離せと言っている!」 冷徹な声に俺のなかで何かが弾けた。 やっと本復したばかりの痩せた身体を遮二無二掻き抱く。その瞬間、怯えたようにびくりと跳ねた剣心の反応が、俺のなかに凶暴な昂ぶりを呼び覚ました。 腕のなかの温もりを確かめることもせず、手近な木に押しつけて口を犯した。身体を密着させて自由を奪い、必死に逃れようとする顎をきつくつかんで、有無を言わさず舌で割り入って掻き乱す。 「や……めろっ! こんなことしたって、何も変わらな……!」 「そんな言葉、信用できるか! 腹芸はお前の得意技だからな。」 肩で息をつきながらもがく剣心の腕を幹の後ろで絡げて戒め、膝で脚を割った。放せやめろと叫びながら目をかたく閉じて睫毛を震わせている青白い顔を見ていると、滅茶苦茶にしてやりたい衝動に駆られる。 「本気でやめて欲しけりゃ、態度で示せよ。嫌なら叩き伏せるんだろうが。俺を叩き伏せて止めてみせろよ! そうしたらその言葉、信じてやる・・・ぜっ!」 言いざま、逆刃刀を奪い、袴を解き落とした。くだらない鎧をぶち壊したくて、わざと執拗に責めたてる。ゆっくりと時間をかけて苛むうちに、剣心は確実に堕ちていく。 「くっ。やっ……ん、は、あっ……」 堪えきれず淫らに声をあげ始めるのを待ち、さらに煽って追い立てる。 「ひっ……あっあっ、あ、ああぁっ……」 もう視点も定まらない。責められるままに首を打ち振って身をよじっている剣心の顎を自由の利く左手で捉えて、耳に囁いた。 「ヤなんじゃなかったのか。その割には随分よさそうだなあ、え?」 とろけきっていた瞳にさっと冴えが戻り、羞恥が顔を染めた。 「左、左之っ……」 「逃げねんなら覚悟しろ。腰が抜けるまで嬲りぬいてやるからよ。」 そう言って内股を撫で上げた。小さな悲鳴とともに白い咽喉をさらして顎が上がる。崩れそうになった身体を脚で支えて抱え上げ、無理矢理立たせた。 「あぁ……さの、も、もう、だめ……」 「んなこと知るか。お前はいま俺に犯されてんだぜ。俺がいいって言うまでしゃんと立ってろ!」 今さらのように怯えを滲ませて目をさまよわせる姿に昏い悦びを覚える。わけのわからないどす黒いものが俺をがんじがらめに縛り上げていく。だがもう歯止めは効かなかった。 追い上げては突き落とし、煽っては打ちのめす。何度も繰り返す拷問のような仕打ちに、剣心は完全に正気を手放して快感に溺れていった。 「あ……さの……もう、も……い……く」 「やっぱりそれが本音か? 話がちがうよなあ、剣心……!」 「―――!!」 前触れもなく乱暴な刺激を与えて解放させ、同時に両手の戒めを解く。剣心は糸の切れた操り人形のように膝から草の褥に崩れ落ち、震える体を胎児のように丸めた。 「だって……! じゃあどうすればいいんだ!」 すすり泣きにも似た浅い息のすき間からか細い悲鳴が洩れる。 「十四年も前に決めたのに! 自分のためじゃなく、この瞳に映る人々を守るために生きるって。普通の人の小さな幸せを守って、一生かけて罪を償っていくって、決めた、のに。なのに、どうして俺は……! 教えてくれ、さの。俺は、どうしたら、いいんだ……。」 弱々しい声が途絶え、木々のざわめきが俺たちを圧し包む。杉林のなかに、腕を顔で覆ったまま声も立てずにしゃくりあげる剣心の息づかいだけが生々しく響いた。 十年かかってやっと涙を知った不器用な男の痙攣する身体を、俺はそっと抱き締めた。 これが女なら慰めればよかった。友人なら突き放せた。だが、生命がけで守ると誓った相手であると同時に、一生かけて超えると心に決めた目標でもある彼を相手に、一体なにが言えるというのか。 ふいに木立が騒いだ。俺の心に吹き狂う嵐に呼応したかのように。 「どうすればいいかって。それを俺に教えてくれたのはお前なのに。なのに、そのお前が、どうすればいいか判らないと言って泣くのか。」 震える魂を抱きかかえる俺の腕は完全に無力だった。それでも。 「大馬鹿だよ、剣心。お前も、俺も。」 「さの、さの。」 「でも、やっぱ最後の最後は自分で見つけるしかねえんじゃねえのか。って、これもお前ェが言ったことだけどよ。」 涙と汗と土と草に汚れた頬を両手で包み、小さな唇を軽くついばむ。 「う、さのぉ……。」 「あーあー、もう。仕方ねえヤツだなぁ。」 子どものように泣きじゃくる剣心の髪を、肩を、背中を、いつまでもさすり続けた。 山間の一本道から少し外れた清流の畔に、俺たちは身体を休めていた。 日は頭上。枝越しの細かい光が、風に吹かれて揺れている。 「んー……。」 「よぅ。目、覚めたか? ほれ、水。」 「……。」 声をかけると、剣心は気だるそうに身体を起こした。緩慢な手つきで前髪をかき上げ、首を傾げる。ぼんやりした顔の前に、両の掌に汲んできた水を差し出した。が、素直に口を寄せてひと含みしたと思ったら、いきなり俺の手に顔を伏せて左右に振りはじめた。 「け、剣心?」 「ぷはぁ!」 勢いよく顔をあげて、水を振り払う。ふう、と大きく息をついて、ようやく意識がはっきりしたらしい。 俺に目を向けた剣心の眉間には、くっきりと不穏なしわが刻まれていた。 「……おい、左之。」 「う、旨いだろ、ここの水。どうも上流に滝があるみたいだぜ。あっ、そうだ、もう一杯汲んできてやる。」 「左之!」 立ち上がろうとしたところを思いがけなく強い力で後ろに引かれて、尻餅をついた。 「ってえ。」 「左之。なにか言うことは?」 目が据わっている。 「……わ、悪ィ。」 「ほう。殊勝な態度だな。」 「すまない! 俺が悪かった! この通り!!」 剣呑な目つきのままそんなことを言われてとりあえず拝んではみたが、まだ鎮まらないようだ。 「謝ってすむと思うな。まったく、馬鹿にもほどがある。傷も治るか治らないかの怪我人相手によくあんなことができたものだ。」 ぽんぽんと矢継ぎ早に投げつけられる剣心の言葉はいちいちごもっともすぎて俺に反論の余地はない。 「だいたいお前は見境がなさすぎるんだ。あんないつ人が通るとも知れないところで、だれかに見咎められていたらどうしてくれる。」 とりあえず頭を垂れてしおらしく反省していたが、この言いぐさにはムッとした。 「よく言うぜ、大声であんあん言って悦んでたのはてめ……いいででででっ!」 太腿を思い切りつねり上げられて、つい情けない悲鳴が口をついて出た。 だが、相変わらず目に強い光を宿して睨みつけているとはいえ、かすかに頬を赤らめた剣心にさっきほどの険はない。 「わ、悪かった悪かった、俺が悪かったってば! ほんとに真面目に反省してんだぜ。」 「ふん。どうだか。」 「いや、心から悪かったと思ってるって。だからさっきだって後はやさしくしてやったじゃ……だあっ!」 「まったくもう、お前という奴は。」 肩を竦めてため息をつき、今度は呆れたような苦笑いを浮かべた。再度つねられたところをこれ見よがしにさすってみたが、剣心は気に病む素振りもなく、よいしょと腰を上げて川べりに歩み寄った。 しばらく流れに手を浸して水をもてあそんだ後、おもむろに口を開く。 「左之。」 「ん?」 「さっきお前が言ったこと。」 「さっき?」 「それはうぬぼれだと……。」 「ああ。」 うぬぼれるな。嬢ちゃんの幸せってのは、その程度のものなのか。俺はそう言った。 「正直、全然意味が判らない。判らないけど、ちゃんと考えてみる。だから、少し。」 剣心の声が詰まった。ほどけた髪が風になびいて顔を隠す。 「……時間をくれ。」 「おう。」 「すまない。」 「バカヤロ。謝んな。」 すると剣心はいきなり川に頭を突っ込んでざぶざぶと顔を洗いはじめた。髪と袂を盛大に濡らして顔を上げたかと思うと、どさりと草叢に大の字になる。 「なあ、左之。材木はな。」 頭上を見据えたままで言う。 「山で育った方位のままに使うんだそうだ。南に生えた木は建物の南側に。北の木は北に、西は西に、東は東に。梢を上に、根は、下に。そうすれば木は生き続けるらしい。材になった後も、ずっと。」 「……へええ。」 「すごいな。」 「ああ、そうだな。」 川面にきらめく光が眩しくて目を細めた。 一日でいちばん暑い時間帯にもかかわらず、水辺の空気はひんやりと潤っていた。木々と鳥のさざめく声も耳に心地いい。 ずっとここにいるわけにはいかない。 いずれは行かなければならない、束の間の休息。 そうとは知りつつも、俺たちはなかなかそこを離れられなかった。 そして大きな橙色の太陽が長い影法師をつくる頃、俺と剣心はようやく西陣界隈に戻ってきた。大宮通りをまっすぐ南へ。しばらく歩いて二条城に行き当たり、東へ折れたあたりで剣心が言った。 「左之。皆に土産でも買っていくか? ちょうどこの 剣心と南蛮菓子。その取り合わせに眉をひそめた。 「いや、そりゃヤブヘビだろ。俺らだけ遊び回って、って雷くらうのがオチだぜ。それよか、俺、今度アレが食いてエ。」 「アレ?」 「 「鯖鮨の旨い店?」 「おうさ。」 「さすが左之だな。はり 「聞いたことねえか? 『みのう』だか『きのぶ』だか、なんかそんなだったと思うんだが。なんせ前にちょっと小耳に挟んだだけだから、名前は自信ねえなあ。」 「ああ、そういえば喧嘩の前に下調べに来たと言っていたな。そのときか?」 「アタリ。」 「なあ、左之。……抜刀斎の、どんな話を聞いたんだ?」 抜刀斎、と言うとき、少しだけ声が掠れた気がした。光明を得るのとふっ切れるのとは別問題、ということか。 「根も葉もねえ噂ばっかりさ。身の丈六尺の大男だとかなんとか。」 「六尺?!」 「おうよ。しかも口が耳まで裂けてたんだと。」 「それはひどいな。」 そう言って苦笑する顔がどこかホッとして見えたのは気のせいではなかったろう。 「なんせ十年も昔のことだしな。だいたい京の人間ってのはなに考えてんのか判りゃしねえ。“さあ、はあ、そうどすなあ、どないどすやろ”ってよ。どすどす言ってねエではっきりもの言えってんだ、いけすかねえ。」 「ははは。お主ほどはっきり言いすぎるのもどうかと思うが、まあ、鯖鮨の店は翁殿か冴殿ならご存知だろう。帰ったら訊いてみるか。」 そうこう言いつつ歩いているところへ、背後から荷車の先払いが聞こえてきた。 「ごめんやっしゃ、ごめんやっしゃ、荷物、通しとくれやっしゃあ。」 そんな掛け声さえも悠長に、重そうな荷車が通りをやってくる。 「さしずめ、西陣の荷ってところか。」 「だろうな。このあたりは呉服問屋が多いから。」 だが、追い越しざまに聞こえてきた人足たちの会話が耳に止まった。 「ちょっと 「せやな。大事な荷、濡らしてしもたらえらいこっちゃ。」 「ごめんやっしゃ、ごめんやっしゃ、荷物、通しとくれやっしゃあ。」 男たちにつられて空を仰いだが、夕立の来そうな気配はどこにもない。目で訊ねると、剣心も肩をすくめた。 「どうでござろう。京の空は気まぐれで、先が読めないからな。」 お前とおんなしだ。と言いそうになったが、さっきを思い出してやめた。つねられるのはかまわないが、これ以上へそを曲げられては厄介だ。 「はっきりしねえのは天気もかよ。」 「まあ、なるようになるさ。」 地元の人間の強みか職業柄か、いずれにせよ彼らの言葉が本当だったと判ったのは、もうじき三条通りにさしかかろうという頃だった。 あんなにすっからかんだった空に、今は厚い雲が垂れこめている。夕陽がこもった灰紫色の妙な空。空気もねっとりと湿気をにじませ始め、ほどなく空は堪りかねたようにバタタッ……と大きな雨粒を落とし始めた。 「左之。」 剣心が気づいたのも同時。だが、「こりゃ本降りになるな」と返す間もなく、雨足は一気に加速した。 「わわっ。い、いてっ、いててっ。こりゃたまらねエ。」 咄嗟に軒先を借り、肌を叩くつぶてから避難した。 それは雨ではなく 痛いはずだ。店には悪いが、しばらく雨宿りをさせてもらうしかなさそうだ。 糸屋格子の、ここも呉服屋らしい。そう思って何気なく店先を覗き込んで「おや」と思った。 この店、来たことがある。店内には客が一組。その前に主人らしき男が幾つかの反物を広げて見せている。奥には女将風の女と番頭。 まちがいない。やっぱり、ここだ。 そのとき、女がついと顔を上げた。 反射的に目を逸らすと、横では剣心が衣服と髪についた水滴を払い落としていた。往来には、俺たちと同じ雨宿り組もあれば、手拭いを被って駆ける者もいる。用意周到に傘を持っているのはやはり馴れた者だろう。 「雨ならまだしも、まさか雹たァ。」 「立ち往生でござるな。小止みになるまで、ここで待たせてもらうしかあるまい。」 「だな。このうえずぶ濡れで連れて帰った日にゃあ、女狐や嬢ちゃんあたりになに言われるかわかったもんじゃねエ。……にしてもまた妙な色してやがる。」 雹を撒き散らす赤紫色の空。時ならぬ雪を降らせる春の空も、よくこんな色をする。ふたりして見上げているところへ、背後から声がかかった。 「あの、もし……。」 店の女将が、のれんを分けて立っていた。手に傘をふたつ持っている。 「どうぞ、これ、使うとくれやす。」 「これはかたじけない。だがじき止みそうだ。しばらく軒を貸していただければ充分でござる。」 「姐さん、ありがとよ。気持ちだけもらっとくぜ。」 「そやけど……。」 「なぁに、この暑さだ。ちっとくらい濡れたって、かえって丁度いいってもんさ。」 「でも、あの。ほんまに、お気兼ねのう、持ってっとくれやっしゃ。店のアレでなんどすけど、あの、返してもらわんかて、かましまへんさかいに。」 ひどく気がかりそうな顔で俺と剣心を代わる代わる見て、言い募る。俺たちは顔を見合わせた。さすがにこうまで言ってくれているのを断るのもかえって心苦しい。 「よう、剣心。こんなに言ってくれてんだし……。」 「そうだな。では、ありがたくお借りするとしようか。」 その言葉に、女の顔が輝いた。 「……ええ、ええ、どうぞどうぞ。どうぞ、 目を細めて、それぞれの手に傘を持たせてくれた。 俺たちは口々に礼を述べ、めりめりと新しい音を立てる傘を開いた。 ばらばらばらっ……。雹の粒を弾く小気味よい音が心強い。 「ああ、よろしおした。ほんに、まあ、よろしおした。どうぞ、道中お気をつけて。どうぞ……。」 丁寧な女将の言葉に送られて軒を離れる。しばらくして振り返ると、女はまだ店先に佇んで、俺たちを見送っていた。 薄暮。夏の長い日が今まさに暮れようとする頃、ようやく白べこに帰りついた俺たちを待っていたのは、案の定、東亰剣心組の大目玉だった。 「散歩に出て道に迷ったですってえッ?!」 「そこが嘘くせえよなあ。剣心がついててなんで迷うんだよ。悪い遊びでもしてたんじゃねえのか?」 「弥彦! アンタ子どものくせになに言ってんの! だいたい悪いのはアンタよ、アンタ! そうに決まってるわよ!」 「いででででっ! なんで俺なんだ! てててっ、耳、放せってんだ……いでっ!」 「だいたい剣さんも剣さんです! ご自分の状態がわかってるんですかっ! こんな馬鹿なんかの口車に乗せられて……。」 「だからなんで俺なんだっつぅの。」 「いや、なんとも面目ない。」 「だあっ! てめエも否定しろ、剣心!」 なんで俺ばっかり責められるんだ。誘ったのは剣心なのに。 とはいえ、彼女らの非難が実に見事に正鵠を射ているのも否めない。たとえそれが本人たちに思いもよらないところの話であったとしてもだ。 寄ってたかって小突かれながらも、やっと戻ってきた日常の手触りに口許がゆるむ。 西は夕陽の名残りの茜色。東はさっきが嘘のような澄んだ紺色。そして風は冷涼。 京も悪くない、と思った。 道はわかりにくいし、冬は寒いし、夏は暑い。 人は本音が見えないうえに、天気まで気まぐれ。 でも、餅は旨かった。杉も見事だった。気のいい人もいる。なにより、剣心がここにいる。 「わぁーった! 今日は俺が奢る! な、それでチャラにしろって!」 「げ。左之助のオゴリ? もう雹はやだぜ、俺!」 「えぇっ、あんたお金なんか持ってんの?!」 「奢ると言ったって左之、それは月岡殿が用立ててくれた路銀でござろう。」 「アンタがあたしに奢ろうなんて十年早いわよ。」 前後左右から一斉に攻撃された。これでも一応反省してるのに、いくらなんでもひどすぎはしないか。 「……てめエら、俺をなんだと思ってるんだ!」 「左之助だろ。」 「左之助よね。」 「左之でござるな。」 「ええ、馬鹿のね。」 さすがにがっくりと肩が落ちる。 やれやれ。まったく、ふざけた連中だ。仕方ない、今日のところは降参としいうことにしておいてやろう。 顔を上げると、西の空にひとつ、白い星が大きく光っていた。 了/2004.04.15/06.17 |
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