1-2

まつ、ひぐらしに



 ようやく剣心が目を開けた。
 透きとおった紫水晶に、夏障子から洩れる陽射しのかけらが踊る。
 ああ、剣心の目だ、と思った。
 覚束なげに、それでもくっきりと俺を映して、生きていた。
 この目を最後に見たのは比叡山の闘場。
 今でもその場にいた人間すべての一挙手一投足、言葉の一言ひとことまで容易に再現できるほど、激しい闘いの記憶は鮮烈だ。だが剣心が生死の境で眠り続けていたこの数日、一分一秒は果てしなく長く、どうすれば明日にたどり着けるかもわからなかった。永遠とも思える時間が過ぎた今、あの闘いもまるで何か月も何年も前のことのように思える。
 だが、そんなことはもうどうでもいい。
 剣心。
 やっと。
 そう思った途端、ため息が出た。身体が空っぽになるかと思うほど長い息だった。
 全身の力が抜けて思わずその場にへたりこんだ俺を、あの綺麗な瞳がぼんやりと不思議そうに見ていた。
 なつかしい紫色の光が、暴力的なまでの深い安堵で俺を満たす。
 俺はそのとき初めて、自分の心がどれほど張り詰め、そして追い詰められていたかを知った。



 白べこは嬉し泣きの嵐になった。誰彼なしに肩を抱き合って涙をにじませたかと思えば、手を取り合って小躍りする。だれよりも落ち着きなく飛び跳ねる操が騒々しい音ひとつ立てないのはさすが御庭番衆だと思ったが、ほとんどのそうでない身はどすどすと音を立てて床を揺らす。二階で始まった大騒ぎに、居合わせた店の客どもは何が始まったかと驚いたことだろう。
 そして当然、医者も目を剥いた。
「ちょっとあんたたち! 意識が戻ったとはいえ、まだまだ安静が必要であることに変わりはないんですからね。もう、みんな外でおとなしくしてて頂戴!」
「えええ、ちょっとくらいいいじゃない。せっかく緋村が目ぇ覚ましたんだからぁ。」
「そうだそうだ。ちょっと医者だからって、お前、オーボーだぞ!」
「ああら、そおう。あんたたち、剣さんがよくならなくってもいいワケ。へえぇ、ふう〜ぅん。あっ、そお。」
 久々のらしい・・・科白だった。この女も損な性分だと思った。恵も甘え方や弱音のはき方を知らずに育ったクチだ。強がることでしか自分を支えられない。もっともそれは彼女に限ったことではない。ここにいる連中はみんなそうだ。弥彦も、操も、薫でさえも。
「そっ、それとこれとは話がちがうだろ!」
「弥彦! 操ちゃん! 恵さんの言う通りよ。いまの剣心には何より安静と休養が必要なんだから。さ、下で静かにしてましょ。」
「薫さん……!」
「でも恵さん、なにかできることがあったら言ってくださいね。恵さんも疲れてるだろうし。」
「私は平気よ。医者ですからね。」
「うん。じゃあ私たち下にいるから。ほら、あんたもよ、左之助……え? あれ? 左之助は?」
「左之助ならさっき出てったぜ?」
 怪訝そうな薫の声に、大人びた口調で弥彦のそれが答えた。
 まだ十歳とはいえ、なまじな大人よりもよっぽど見所があると感じるのはこんなときだ。目聡いのは周りをよく見ているからだ。人の動きを察しているのは、人の気持ちを慮っているからだ。俺がそっと廊下に出たのを知っていたなら、この腑抜けた顔にも気づいていたかもしれない。
 そこまで思ったところで、連中がぞろぞろと部屋から出てきた。
「あ、ほんとだ。あんた、こんなとこで何してんの?」
「んー? 別にィ。しかし女狐もうまいもんだ。体よく邪魔者を追っ払って剣心と二人きり、ってか。」
「えっ?! だ、だめよ、そんなの!!」
 いひひと笑ってみせると、薫は面白いほど素直な反応を見せてくるりと部屋に向き直ったが、
「オイオイ、剣心には安静と休養が必要なんだろ。てめえが自分で言ったんじゃないか。」
 こましゃくれた口をきく弟子に階下へ引きずられていった。俺もそれに続いたが、連中と一緒に騒ぐ気分でもなく、身を持て余して町へ出た。


 この街は相も変わらず他人行儀で取りつくしまがない。
 前に来たのは冬の終わり。人を拒絶するような寒さのなか、抜刀斎の足跡を追った。
 だが今はうって変わって蒸し暑く、べたべたと湿った空気が肌にまとわりついて煩わしい。
 足任せに歩くうち、気づけば河原に出ていた。べったりと凪いだ街中とは異なり、かすかだが吹く風に生き返る心地がした。
 河原では浴衣姿の一団がお囃子の稽古をしている。夏祭に備えてのことだろうが、それにしもてこんな気の抜けるようなお囃子でよく神輿が居眠りしないものだ。
 抑揚なく一音一音を長くのばす悠長な旋律はいかにも雅らしく、京都の人間が話す言葉を思わせる。
――へええ、わざわざ東亰から。そうどすか。そら、えらいご苦労くろさんどすな。
 そう言ってにっこり笑いはするものの、なにを訊いても、
――さあ。はあ。そうどすなぁ。
 知っているともいないとも、それさえ判然しない。彼らから実のある話を引き出すのには苦労した。しかも、ようやく聞き出したと思えば、会う人ごとに言うことはてんでんばらばら。聞けば聞くほど、抜刀斎が判らなくなった。
 埒もねえ、そもそも人の話なんか聞いてなにが判るってんだ。
 真向勝負でやり合ってみるしかない、と思った。
 きっとあれが、全ての始まりだった。

 最初は凄い男だと純粋に惚れて、そうして目が離せなくなったはずだった。
 だが知れば知るほど奴は脆く傷つきやすく、けれどそんなそぶりも見せない。簡単にひとひねりにできそうなほど小さくてか細いくせに、俺なんか話にもならないほど強い。
 どこからおかしくなったんだったろう。
 そんなに強いくせに奴は痛々しくて危なっかしくて、そしてあまりにも綺麗だった。
 痛みを秘めた激しい怒りの声。俺を見つめるあの不思議な色の瞳。ふいにほどけた髪の奔放な流れ。くたびれた着物が映す華奢な肩。たすきをした袂から伸びる腕の白さ。袷の奥にのぞく肌の翳。
 気が狂いそうだった。もうだめだと思った。
 女を抱いても喧嘩をしても、俺のなかの嵐はどうにもならなかった。取り返しのつかないことになる前に、剣心に蔑まれる前に、東亰を離れようと考えた。どのみち身寄りも財産も家財道具さえない身だ。横浜か神戸か、どっかの港町にでも行けば、また喧嘩で食っていける。行き先なんかどこでもいいからどこかへ消えてしまうつもりでいた。
 だが、渡りに船と月岡の計画に加担した俺の前に、剣心は現れた。
 あんな剣心を見たのは初めてだった。
 彼を駆り立てていたのは友情などではなかった。正義でもなかった。もっと生々しくて、どろどろした熱いものに見えた。それはきっと俺がよく知っているもので、でもそんなはずはないと思った。
 まさか。ありえない。
 すぐには信じられず、自分に都合のよい勝手な幻影を見ているのではないかと、自分の神経を疑った。
 でも、幻でも錯覚でも思い込みでもなかった。
 しなやかな身体を腕のなかに抱き取った後のことは、まるで夢のなかのことのように霞んでいる。ただ、綺麗に濡れて俺を映していたあの不思議な瞳だけを、はっきりと覚えている。


「……あり?」
 しまった。道を失わないよう用心して川沿いに下っているつもりだったのに、どこかで路地に入り込んでしまったようだ。なんとなく左右前後を見渡してはみたが、そもそも土地勘がないうえに、自慢ではないが筋金入りの方向音痴だ。見当もつかない。
 とりあえず少しは人通りのありそうな道に出ると、ちょうど目の前に大きな屋敷があった。延々と続く塀の向こうに、鬱蒼と茂った樹木が頭を覗かせている。
「こりゃまたご大層な屋敷だな。」
 ひとりごちたところへ、折りよく商人らしき二人連れが通りかかった。
「すまねえ。三条の橋へはどう行ったらいいんだい?」
 それが唯一わかる目印なのだ。
「へえ、三条大橋どすか。せやったら、あすこの柳のねきに通りがおすやろ? あれを左へ折れたら鴨川に出ます。出たら、そこからは川に沿うてずうっと下ってお行きやしたらよろしおす。」
「下んのかい? 上るんじゃなく?」
「そうどす。そこが荒神橋こうじんばしどすさかい、なんぼかしもどす。」
「なんだ。てっきり下ったと思ったが、遡ってたってわけか。こいつぁ助かったぜ。」
「いいえぇ。ここいらの道は、馴れへんお人には、判りにくおすさかい。あんたはん、東亰のお人どすか。」
「おう。知り合いの白べこってェ牛鍋屋で厄介になってるんだが、散歩に出たら道に迷っちまってな。」
「ああ、三条の。そうどすか。白べこはんにおいやすのか。そやったら、ちょうど前ぇ通りますさかい、よろしかったらご一緒に、どないどす?」
「お、あんたら、白べこ、知ってんのかい。そりゃ助かるぜ。」
 京都人にも人懐っこいのがいるのか白べこの名が利いたのか、いずれにしてもありがたい申し出だった。
 針屋の主人と番頭だという二人の細かい足取りに歩調を合わせて歩き始めたが、道沿いに例の大屋敷の塀がかなり先まで続いているのが気になった。
「よう。ここはなんなんだ? 随分でかいが、だれかお偉いさんのお屋敷かい?」
「へっ。なにて、それこそなにをお聞きやすことやら。仙洞の御所はんどすえ。」
「え。」
 思わず足を止めて仰ぎ見た。
 御所。
 あの頃、日本の中心だった場所。
 赤報隊が信州の山中で自分たちこそ維新のさきがけだと信じて踊らされていたとき、ここで国が動いていたのだ。
 この厚く高い塀の向こうで。
 そしてだれかの一言が赤報隊の運命となった。
「どない、しやはりました?」
「いや、別に。さすがに立派なもんだと思ってよ。」
 ふと、剣心はここへ来たことがあったのだろうかと思った。
 人斬りは先鋒。上の人間からすれば、捨て駒のひとつに過ぎなかったろう。自分が殺す相手の名前すら知らされないこともあったのではないのか。なんと結構な四民平等か。
「……そやさかい、まあ、昔に比べたら、えらい少のなりましたけど、それでも“寺町”言うだけあって、今でもようけ、お寺はんがおす。」
 針屋の主人が、おっとりと話し続けていた。
 白いものが混じり始めた髪を今風に短く揃え、質のよさそうな薄手のひとえをきちんと着ている。針屋と言われてもぴんとこないが、そこそこの店なのかもしれない。
 人のよさげな主人の説明に適当な相槌を打ちながらその寺町通りをまっすぐ南へ下り、ほどなく白べこの姿が見えてきた。
「アレ、白べこはん、今日はまたえらい繁盛したはるみたいや。」
 店では日も高いうちから呑めや歌えやの大騒ぎが繰り広げられていた。
「というか、ひでえ騒ぎだな、おい。」
「賑やかどすな。」
 ぴたりと重なった番頭の声に、なるほどそれが京風の言い回しかと苦笑がもれた。
「ありがとよ。助かったぜ。」
「いいええ、ご近所さんどすさかい、このくらい、なんでもおへん。」
「なんだ、あんたんとこ、近いのかい。」
 そんな話をしていると、店から冴が出てきた。手に桶と柄杓を持っている。水を打とうとしたところで、こちらに気づいた。
「あれえ。はりせいはんと左之助はんやおへんの。お二人、お知り合いですのん?」
「いえ、ちょっとそこで……。」
「なんだ、知り合いかよ。おっさん、それならそうと先に言ってくれよ。人が悪いぜ。」
「いややわぁ、左之助はん、おっさんやなんて。」
「ま、ま、よろしやおへんか。うちとこ、そこの『はり清』いう店どして。おかげさんで、小商売こあきないどすけど、なんとか続けさしてもろてます。」
「ようお言いやすこと。はり清はんは老舗の大店なんどすえ、左之助はん。はり清はんのお針、いうたら、そら、もう。」
「へえ、そうなのか。」
「わらべ歌にかて、ありますのんえ。」
「いえいえ、そんな大したもんやおへんけど、ま、よろしかったら、女子はんへのお土産でも見繕いにお越しになっとくれやす。」
 そう言い置いて去っていく二人の後ろ姿を、冴と一緒に見送った。
「しかしえらい騒ぎだな、おい。」
「なんや今回の祝賀会どすて。葵屋のみなさんも、きばっといやすえ。さ、さ、左之助はんも、よ、お入りやす。」



 その日のそれを第一次会に、京都死守および志々雄一派打破記念祝賀会とやらは連日回を重ねた。
 ゆっくりとではあるが順調に回復してきた剣心が床を上げたのは、その第三十一次会の日。
「こう騒がれては、おちおち寝てもいられない。」
 そう言って降りてきた剣心の久々に見る帯刀姿が、自分でも驚くほど懐かしかった。
 そして明日はいよいよ葵屋の竣工という日。朝から少し辺りを歩っついたものの、また道に迷ってはお笑い種と白べこに戻ろうとした矢先、まさにその白べこの格子戸のすき間から、剣心がすべり出てきた。
「よう。どうしたい。」
「左之か。なに、ちょっと散歩でもしようかと思ってな。いいかげん身体がなまる。」
「ちがいない。……ま、あんまり無理すんなよ。」
「大丈夫でござる。道に迷ってはりせいのご主人に送ってもらったりはせぬよ。」
「けっ、可愛くねエ。」
 その減らず口が今はなによりも嬉しいのだとは言えず、無理に口を尖らせた。目を離せずその後ろ姿を見つめていると、少し行ったところで剣心が足を止めて振り向いた。
「一緒に、行くか?」
 元々ここがここでさえなければ来るなと言われてもひっついて行ったであろう俺に否やのあろうはずがない。嬉々として駆け寄る俺の目を、逆光の陽射しが眩しく刺した。
 白べこのある寺町から三条通りを東へ。この界隈は京の文明開化の中心らしく、白べこをはじめ、西洋菓子屋や洋装店、写真舘、芝居や見世物の小屋など、いずれも今風の店が軒を並べている。
 川に出る手前で、例の「はり清」の前を通りかかった。堂々とした店構えに驚いた。広い間口の黒光りする糸屋格子に、屋号を染め抜いた藍ののれんが掛かっている。なにが『小商売こあきないどすけど』だ。やっぱり京の人間はよくわからない。
「お前も知ってたってことはナニか、ここの針ってのはそんなに有名なのか?」
「ああ。家光公の時代からの御用針司でな。なんでも大層使いよいらしくて、都名所図会にも載っている。」
「ふうん。針にもいろいろあるんだな。」
「不思議と布が傷まないんだそうだ。一度使うと他の針は使えない、と……。昔、知り合いが、言っていたよ。」
「……おい! それ、女だな?」
「? もちろん女性にござる。男がそう縫い物などするまい?」
「そうじゃねえ! お前の女かって訊いてんだよ!」
 ぽっかりと口を開けて無防備に見上げてくる顔を見ていると、無性に腹が立ってきた。なのに剣心はなにが可笑しいのか、楽しそうに笑い声まで立てている。
「馬鹿だな、左之。妬いてるのか?」
「ったりめーだろ。」
「では訊くが、主こそどうなのだ?」
「んあ?」
「喧嘩屋斬左。ずいぶん盛んだったと聞くが?」
「う、や、いや、それはほら、む、昔の話じゃねえか!」
「ほらみろ。拙者とて、昔の話でござるよ。」
 と言われては、ぐうの音も出ない。
「第一この歳で女も知らないようでは、それこそおかしいだろう。」
 ますます返す言葉がない。それは勿論そうなのだが、それでも剣心の口から直接女の話が出ては、やはり穏やかではいられない。
 だが剣心ときたら。
「まあ、よいではござらぬか。男はお主が初めてだったのだから。」
 涼しい顔でさらりとそんなことを言ってのける。
 口から飛び出しかけた心臓を強引に飲み下し、いつどうやってこの仕返しをしてやろうかと思いつつ、そしらぬ様子でさっさと先へゆく剣心を追った。



「せっかくだから、少し足を延ばさぬか。」
 鴨川にかかる三条橋まで来たところで、剣心が言った。
「俺は構わねえが、身体、大丈夫か?」
「なに、ちょっとした散歩でござるよ。」
 そう言って河原を北へ遡る。多分、先日俺が通ったのと同じ道なのだろう。
 足元では踏みしめられた砂利が濁った音を立てる。浅い川は、京の街の東側を北から南へ、しゃらしゃらと軽やかに流れていく。橋の下には夕を待つ川床ゆか。川向こうに目をやると、なだらかな山々の稜線が波打って霞んでいた。
 どれが比叡山だろうかと思いながらぼんやり山の姿を眺めていると、突然剣心が細い声で妙な抑揚のある呪文めいた節を口走り始めた。
「まーる、たーけ、えーびすに、おーし、おいけー、」
「なんだ、そりゃ。」
「わらべ歌にござる。通りの名を順に連ねた。京の子どもはこれで道を覚える。」
「それがか。まじないみたいだ。」
「はは、たしかにな。だがこれが他所者には意外と便利でな。新参者はみな、これを歌って指折り数えながら歩いたものだ。地の人には、いい大人が子どものつかいのようだと笑われたが。」
 丸太町、竹屋町、夷川、押小路、御池。東西に走る通りの名前の、それぞれ頭をとってあるという。
 剣心の昔話は珍しい。この街にいい思い出があるはずはないが、それでもやはり懐かしい場所ではあるのだろう。
 だが、いつもござるござるの武家言葉を話している剣心が、そうやって気の萎えそうな上方風の音律を口ずさむ姿を見ていると、本当に自分は彼のことをほとんど全くと言っていいほど知らないのだと思い知らされる。
「じょうふく、せんぼん、……はてはにしじん。」
 歌い終わって、剣心は足を止めた。少し先の、川が二つに枝分かれしている辺りを指して言う。
「あそこからしもが鴨川。そこよりかみは、右が高野川、左が賀茂川という。」
「カモガワ?」
「ああ。でも字がちがう。こっちは鳥の鴨で、あっちは、こう。」
 と言って、宙に指で字を書いた。
 白さを増したしなやかな手指がひらひらと動き、それこそまじないのように俺を縛った。
「で、賀茂川。」
「……鍋に、茄子か。そりゃ鍋だろ。」
「馬鹿。」
「てめ、最近、馬鹿馬鹿言いすぎだぞ。」
「お主が馬鹿すぎるんだ、仕方あるまい。」
「お前なあ……!」
 相手が本調子なら張り倒しているところだ。
「まあまあ、そう怒るな。ああ、そうだ、ここならちょうどアレがある。左之、餅を買うてやるから機嫌を直せ。」
 こっちだ、と言って土手を上りはじめた。
 少し行くと、なるほど餅屋があった。剣心が馴れた様子で餅を求める。
 ぽってりふくらんだ豆大福をほっそりした手に乗せ、にこにこと差し出してくれる。
 餅よりもその笑顔と手に気をとられつつ頬張ったにもかかわらず、それはびっくりするほど旨かった。餅はやわらかく、豆は塩が利いて小気味よい歯ごたえがある。あんはなめらかで、そしてほんのりと温かかった。
「うお。こりゃ旨え。」
 あっという間に平らげてしまった。だが剣心は半分ほどになった手の中の餅をなにやら不思議そうに見つめていた。
「どうした? 石でも入ってたか?」
「……いや。」
 大きな目を瞬かせてまじまじと餅を見ながら、意外そうに呟いた。
「おいしい。」
「おう。知ってて食わしてくれたんだろ?」
「ああ、いや、うん、まあ、そうなんだが。」
「なんだ、はっきりしねエなあ。」
「いや。昔から評判はいいし、拙者も何度か食べてはいたが、こんなに美味しかったかな、と思って。やはり十年も経てば餅も旨くなるものなのだな。」
 本気で言っているだけに、言葉に詰まった。
 昔から評判がよくて今まで続いている餅屋の味がそうそう変わるわけがない。変わったのはお前の方だ。
 旨そうに餅を噛みしめる剣心の姿に、噂に聞いた抜刀斎のそれが重なる。
 同じ朱い髪、同じ十字傷の、冷徹な人斬り。
 ハッと我に返った。
 知りもしないくせに、なにを――。
 ぶるんと頭を振って、益体もない幻想を払い捨てた。
「あーあ、馬鹿はお前の方だぜ、ったく。」
「なぜでござる?」
「さあ? てめエで考えろって。」
「だからなにを。」
「知りまへん。なんどすやろなあ。」
「こら、左之。そんな小憎らしいことばかり言ってると放っていくぞ。帰り道も判らないくせに、生意気言うな。」
「おい。お前、最近性格悪くなってないか?」
 反論しつつ、ずんずん歩き始めた剣心を追う。
 あてつけのように何度も辻を曲がり、大きな荒れ寺の境内を抜けて、なおも進む。
 鬱蒼と茂った境内を通るうちに止まっていた汗が、またじわじわと背や脇を濡らし始めた。日が高くなり始めれば、気温は一気に上がる。今日も暑い一日になるのだろう。
 もうかなり歩いた。一体どこまで行くつもりなのか。勢いのいい歩きっぷりに剣心の体調が危ぶまれはするが、久々に二人で過ごす時間を早々に切り上げるのも惜しい。
 いざとなったら背負って帰ればいい。
 そう考え直して、黙って肩を並べた。

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