帰去来 1-2



 そして八月朔日(ついたち)を三日後に控えた日の夕刻。
 大方の予想を裏切って、央太は早々と、しかも思わぬ人物を連れて戻ってきた。東谷上下ヱ門。今年四十四歳を数える彼の父親である。
「なぁに、どうせもう畑もやめっちまって気楽な身だ。足腰の丈夫なうちに東亰見物でもしとこうかと思ってな。」
 さすがに挨拶だけはきちんとこなしたものの、後はすっかり磊落な物言いで、着いた早々すっかり打ち解けた。むしろ央太が傍ではらはらしている。
 その様子に剣心はふと懐かしさを覚えた。
 見たような図式だ。
 面影よりも背格好よりも、まとう空気に同じ匂いがする。では央太は母に似たのかもしれない。
「じゃあ明日は名所巡りに出かけましょうよ。ちょっと暑いけど、でもちょうど学校も夏休みだし、みんなで行けるもの。ねぇ剣心、いいでしょ?」
「拙者は構わぬが薫殿、まずは当のご本人の意向を聞かねばな。長い道中でお疲れでもござろうゆえ。」
 先走る妻に笑って釘をさし、遠来の客をうかがった。
「いやなに、まだまだこんくらいの旅路でへばるほど老いぼれちゃいねェ。だが勝手に押し掛けた身だ、そんな気ぃ遣わせちゃバチが当たるってもんだ。いやもう構わねぇでくんな。俺ぁうちのが元気にやってる姿さえ見られりゃ御の字だ。」
 あら、そんな遠慮なんてしないでくださいよ、と薫が言い重ねるのを聞き、美徳の素直もときには考えものだと苦笑しつつ割って入る。
「ではまあ、とりあえず今夜は牛鍋でも如何でござる。明日のことはそれから考えるとしよう。」


 その夜の座は随分賑わった。老舗の牛なべ屋「赤べこ」に一席を設け、主賓親子に神谷一家、弥彦、由太郎、それに央太の朋輩の新市なども加わって、やや無骨ではあったが明るい騒ぎ方に、剣心も久々に心が晴れた。
「おう、緋村さん、あんたも呑め呑め。」
 拙者はもう充分にござる、などと言ってはみても、所詮相手は酔っ払い。すっかり春めいた顔の上下ヱ門は、おかまいなしに銚子を傾けてくる。
「なにが充分にござるだ、この野郎。若ェくせして隠居みたいなこと言ってんじゃねェよ。」
「おろ〜。」
「そうだぜ、剣心。このオッサンのふてぶてしさを見習えってもんだ。」
「小僧、ガキのくせに減らねぇ口だな。」
「ジジイに言われたかねえや。」
「誰がジジイだ、鼻タレが!」
「まあまあ二人とも……。」
 なだめに入ったところへ、じゃあお前が呑めと酔っ払いたちの反撃をくらった。


 翌日は終日道場の稽古を見学し、その次の日も上下ヱ門は朝から竹刀の往来を見ていた。
 そして昼も近くなった頃。
「ずいぶん世話んなったが、ぼちぼち帰ぇるとするか。」
 そう言い出して皆を驚かせた。
「もう帰んのか?! 一昨日着いたとこじゃねえか!」
「そうよ、まだ浅草も銀座も見てないのに。」
「せめてもうニ、三日ゆっくりされてはいかがでござる。」
 慌しさに驚いて引きとめたものの、留守居がいない家を案じる気持ちも判る。ならば見物がてらに洋食でもと、昼は神田の精養軒まで足を伸ばした。昼のドンを聞いてから出かけたものだから、ぶらぶらと街並みを見ながら帰り着くころには、風に夕方の気配が混じりつつあった。
 剣心はいつものように皆のしんがりをやや離れ気味に歩いている。いつしか上下ヱ門がそれへ歩を並べていた。
「緋村さん。アンタにゃ礼を言わざなるめぇ。うちの倅がずいぶんと世話をかけた。」
 剣心は黙って目だけの微笑みを返す。
「小さい頃のあいつは滅法無口で、そりゃあもうおとなしいもんだった。まあ上の娘が人一倍口数の多いはねっかえりだったから、喋る間もなかったのかもしれねぇがな。その代わりと言っちゃなんだが、いつもじぃっと人の話を聞いてやがった。そんで小さいなりにいろいろと考えてたんだろうなぁ。」
 何を思い出したか、上下ヱ門が小さく笑った。その笑い方は剣心に懐かしい人を思い出させた。
「まさかあんなに思い詰めるとは思わなかったが、済まねぇ、こっちへ来る前にきちんと話しておくべきだったんだ。俺の見当ちがいで迷惑かけちまった。」
「迷惑などと。」
 罪ほろぼし。とまでは言わないが、左之助との間にある秘密を思えば、彼らに対する気持ちは充分に後ろ暗い。ましてこの父親には、どこか見かけ通りではないものを感じる。迂闊なことは言えないと、実は幾分気を尖らせてもいた。
「あいつは母親を知らねぇ分なおさら姉の右喜を慕ってる。何をするにも何処へ行くにも、いっつも二人でくっついてやがった。というか、右喜の方があいつを放さなかったんだな。央太の奴もそれは判ってた。だから周りからは金魚のフンだ何だと言われてたが、ほんとはアイツの方が右喜を気遣ってたのさ。」
「ほんに央太は姉上思いでござる。拙者と話したときも"姉さんが可哀想だ"と随分な勢いでござった。」
「ああ、俺も言われたぜ。そんでそういうお前はどうなんだとやり返したら、鳩が豆鉄砲くらったような顔してたがな。」
「……。」
「右喜がどうとか俺がどうとかじゃなく、お前自身がどうしたいか、あのバカ野郎にどうして欲しいのかを考えろ、ってな。あいつは口数こそ少ねぇが、ほんとにやりたいことがあるときは、あれでちゃんと自分を通してやがる。ってこたぁ考えられねぇんじゃねぇ、考えてねぇだけだ。そりゃ逃げってモンよ。仮にもうちの倅に、そんな甘ぇことが許せるかってんだ。」
 深い皺が刻まれた男の顔は、見れば見るほど潔く、見れば見るほど息子に似ている。いや、息子が父に似た、と言うべきだろう。
「それで央太はなんと?」
「もうやめだとさ。」
「やめ?」
「ああ。疑うのも信じるのも、今はやめにするらしいや。自分ひとりであれこれ思い悩んで答えの出る問題じゃないから、野郎が帰って来てから考えるそうだ。」
 たまらず噴き出した。それでは本末転倒、物事の順序が滅茶苦茶ではないか。振り返った上下ヱ門の顔も笑いを含んでいる。くすくすと笑いながら素直な感想を口にした。
「なるほど、央太もしっかり東谷の血をひいたというわけでござるな。」
「おう。心配かけたが、まあアイツはこれでひと安心よ。ついでだから待つのもやめっちまえって言っといてやったぜ。」
「……それはまた思い切りのいい。」
「そうかい? だが待ってっから長いんだぜ。忘れてりゃあ、気がつきゃ帰って来てそこらへんをウロウロしてるって寸法だ。面倒がなくていい。」
 その言いざまが、いかにもこの人らしかった。
 だがそれを絶対の信頼というのだと剣心は思う。
 朝になれば太陽が昇り、夏が過ぎれば秋が来るのと同じように、いつか彼が帰ってくると知っている。
 だから去ってもかまわない。
 いつかがいつでもかまわない。
 なんという強さ。
 十歳にもならず家をとび出したわが子をそうして心に宿しつづけてきた父親の言葉は、一筋の清流のように膿んだ心に沁み通った。
「すりゃ、あっという間さ、緋村さん。」
 その面上に、別人のように柔らかな笑みが一瞬閃いて消えた。
「上下ヱ門殿……。」
 ふと、遠いどこかにいるはずのひとの気配を、なぜかありありと感じた。
 眩暈がするほど濃厚に。そこにいるとしか思えないほど確かに。手を伸ばせば触れられそうなほど近くに。
――さの。
 懐かしい気配に包まれて、不思議と素直に自分の気持ちと向き合えた。
 時代は変わる、人も変わる。誰もそのままではいられない。ずっと変わらず続くものなどない。
 では、俺にもそんな日がくるかもしれない。
 こんな風に信じられるようになる日が。
 いつでもいいから帰ってこい、と言える日が。
 その日を待ってみようか。
 俺のなかには信ずるに足るものも依るべきものもこれっぽっちもないけれど、でもここには、お前が残していった熱とこの人が示してくれた道がある。
 ずっと変わらず続くものなどない。孤独と絶望でさえもそうなのだ。
 ならば、生きていくのも、悪いことばかりではないのかもしれない――。
 軒の風鈴の音にハッと我に返ると、上下ヱ門はずっと前を皆に混じって歩いていた。


 出立は八月朔日(ついたち)。明治が開けたとはいえ、家康権現以来三百年の祝日とあって、やはり町は祝い事めいて華やぎ浮き立っていた。そこで何もこんな日に朝発ちする手はなかろうと引きとめ日中は江戸の佳節を見物させ、午後の遅くにようやく出発となったのである。
 上下ヱ門は到着したとき以来の丁寧な口で礼を述べると、「殺されても死なねぇのがうちの家系の男の取り得だ。びしびし鍛えてやっておくんなせぇ。」と、最後までいかにもらしい台詞を残し、街道辻まで見送る央太と連れ立って去って行った。
「面白いお父さんだったわね。」
「央太のオヤジさんとは思えねぇくらい口が悪かったけどな。」
「弥彦!」
 ふたつの人影が辻を曲がって見えなくなるまで手を振って、一団はぞろぞろと邸内に入っていく。
 そのとき、ふわりと運ばれてきた風に、どこか涼やかなものを感じて剣心は足を止めた。風の来た方に目を向ける。
「おろ。」
「どうかした?」
「薫殿、あれを――。」
 指した先には、むっくりと首をもたげた入道雲。
「あらまぁ! よかった、今日こそひと降りしてくれそうね。たくさん降ってくれると助かるんだけど。」
「ああ、あの様子ならきっと大丈夫でござろう。」
 が、その応えを聞く間もあらばこそ。
「大変、急いで洗濯物取りこまなくちゃ。ほら剣路、おいで! 弥彦ォ、あんた手伝いなさいよ!」
 言いざまに子を抱き上げてひらりと身を翻し、娘のように駆け出していた。
 やれやれ。とでも言いたげにその後ろ姿を見やった剣心は、再び西の空を振り仰ぐ。
「待ち人来たる、でござるな。」
 目を細めて呟いた言葉は、風にまかれて宙へ散った。




了/2003.07.15
参加イベント/遣らずの雨
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