1-2 |
|
帰去来明治十五年、七月。 空梅雨(からつゆ)に続く乾いた猛暑が人々に旱(ひでり)を危惧させるなか、盆の藪入りが迫っていた。 「央太のヤツ、今年も帰らないんだって?」 「そうなの。でもあの子がここに来てもう丸ニ年よ。一度も里帰りしないなんて、ホントは家出か何かで帰れないんじゃないかしら。弥彦、アンタどう思う?」 「何言ってんだよ。初めてここに来たとき、アイツちゃんと親父さんの手紙を持ってたじゃねえか。」 「あ、そっか。そう言えばそうだったわね。」 「お前、やっぱバカすぎ。」 「なんですってえッ!?」 神谷活心流の道場主と筆頭師範代が喧しく案じているのは、内弟子の東谷央太のことだった。陰暦から新暦へと暦が変わり、八月に月遅れ盆をするところもあると聞くが、東亰の盆は変わらず七月。その最後の十六日は薮入りで、商家の丁稚や住み込みの弟子が休みをもらって親元に帰る日にあたるのだが、央太はこれまで一度も帰郷していないのである。 彼が住み込みの門下生となったのが、ちょうど二年前の夏のはじめ。 この家の若夫婦が馴れぬ乳飲み児の世話に大童だったある朝、まだ子どもの様子をした少年がひとり、文字通り神谷道場の門を叩いた。 「東谷央太といいます! 弟子にしてください!」 親の敵でも睨むような顔つきだった。 埃まみれの旅装のくたびれ具合に旅路の長さを見てとった夫婦は、彼がひとりでやってきたと聞いて少なからず驚き、さらに彼がここにやってきた理由を知って再度目を丸くした。 「なに、じゃあ君、左之助の知り合いなの?」 「……サノスケ? あの人の名前が、サノスケ?」 央太は彼の名を知らなかった。いや、央太のみならず、宿場の誰ひとりとして、町を救った青年の名前も素性も知らない。惡一文字を背負った喧嘩っ早い青年。彼はある日ふらりとやって来て、ならず者と権力者を一掃した翌朝にはもう姿を消していた。 が、央太は父に負われて彼の最後を見送った。その別れ際に彼が言ったのだ。 「大変だろうけどもうしばらく――そうだな、姉ちゃんが嫁いで新しい家族ができるくらいまでは、いい"弟"でいてやってくれよな。それができたら一度東亰に出て来て、神谷活心流っつう剣術道場の門を叩いてみろ。お前なら必ずもっと強くなれるはず。」 そして央太はその通りにした。 事件が一件落着の様相を見せると、待ってましたとばかりに姉への縁談話が持ち上がり、翌夏、右喜は早々に宿場の小間物屋へ嫁いでいった。央太が神谷道場へやってきたのは、その一年後のことである。 眸には闇に溶けていく彼の背中が、胸には最後の言葉がほとほとと燃えつづけていた。 その思いに応えたいと思った。彼に認められるようになりたかった。だからひとりで東亰にまできた。 そして当時まだ八歳だった少年は、それ以来一度も故郷(さと)に帰らず、来る日も来る日も黙々と稽古に励んできたのである。 内弟子の央太は今日もせっせと皆の稽古着を洗っていた。陽射しは白く、立っているだけで眩暈がしそうだ。斜かいでは入り婿が同じような作業に勤しんでいる。 最初はてっきりこの人が道場主だと思った。よもや妻が流儀の師範で夫が家事をしていようとは、きっと父や姉に言っても信じまい。 央太にはただの風来坊にしか見えないが、師匠や先輩に言わせればこの人こそ無類の剣の遣い手で「日本一強い男」らしい。 そして皆の話を聞くほどに、央太の胸中には疑問がむくむくと育つのであった。 あの人がここに来いと言ったのは、もしやこの人に師事しろということだったのか。 先輩の弥彦が尊敬してやまない剣士だという。 しかもあの人はこの人の無二の親友だという。 二人が背を預け合って闘ったときのことを、幾度弥彦に聞かされたことだろう。 だが――。 相楽左之助。サノスケ……。 彼の名を知って以来、央太の頭は混乱したままだ。 憧れた背中は彼に夢を植えた。だが、それは二度目の裏切りにすぎなかったのか。 きっと父さんは知ってる。 知りたい気持ちと聞きたくない気持ちが現れては消え、消えては現れる。 どんな顔をして父に会えばいいのか判らない今、郷里に帰る気になどとてもなれなかった。 ふと視線を感じて顔を上げると、剣心と目があった。彼はすっかり手を休めてしまっている。とすると、随分前からじっと見られていたらしい。 「怨んでいるのか、左之のことを。」 「えッ……。」 知っているのだ、この人は。そう、きっとあの人が話したのだろう。 「あの人、何て?」 「ん? ああ、そうか。いや、左之から何か聞いたわけではござらぬよ。」 「え。でもじゃあどうして……。」 「それくらい判るさ、お主を見ておれば。事情までは知らぬがな。」 隠していたつもりが、実はすっかりお見通しだったというわけだ。 「だが父上はご存知なのだな。それでお主は帰らぬのでござろう?」 央太は小さくこっくりと頷いた。盥の水がきらきらと眩しく揺れている。小さな海の小さな波。照りつける太陽の光を跳ね返して目を射抜く。 「もし僕が思っている通りだったとしても――。」 水面にポトリと汗の雫が落ちた。 「昔のことは仕方ないと思う。時代が時代だったし、第一僕は生まれてもいなかった。でも、あのときは……。」 言葉を途切らせ、唇を噛む。口にした途端それが揺るぎない信実になってしまいそうで怖かった。きゅっと目をつむって思い切る。 「だってどうして行っちゃうんだよ。非道いじゃないか! 父さんも父さんだ。どうして黙って行かせちゃったりしたんだよぅ。」 顔を上げて息を継いだ央太は、泣く直前の顔で剣心を見つめた。 後の言葉が続かない。言えば認めることになる。でももう戻られない。 「……に、兄さんなのに…。」 声は掠れた。言うと同時に、ずっとこらえてきたものが堰を切ったように溢れ出した。 黒目が勝った目からばたばたと涕を降らせて、振り絞るような声で「兄さんなのに」と繰り返す。 兄、と。これまで一度も口にしたことはなかった。言ってしまえば止まらなくなるのがわかっていたから。 ぽん、と柔らかな手が頭に乗せられるのを感じた。 「ぼ、僕はいい。どうせ顔も知らない、話で聞いてただけの兄さんだったんだから。けど姉さんを裏切るなんて……。姉さん、あんなに待ってたのに! 兄さんのことで、あんなに辛い思いをしてたのに!」 手の甲で涕をぐいとこすり取り、大きく息を吸って昂ぶった呼吸を整えようとしたが、体の震えは鎮まってくれない。 「維新志士に狼藉を働いたならず者が由縁(ゆかり)の者と知れては、宿場全体が困ったことになろう。その秘密は、幼いお主たちには荷が重い。父上もそう考えられたのでござろう。」 それはそうだと思う。だが、それは理由の半分だけで、後の半分は違う、とも思う。 彼に戻るつもりがなかったからだ。留まるつもりがなかったからだ。 「ちがう。やっぱりあの人はもう僕らの家族じゃないんだ。父さんもそう思ってて、だから言わなかったんだ。もう兄さんでも何でもなくて、だからきっともう帰って来ないんだ。あの人はまた僕らを捨てたんだ!」 「央太。」 声の近さにびくりと目を上げると、剣心は央太の方にかがみこんでひたりと目を合わせていた。 「左之助は情のあつい侠だ。身内や仲間を疎かにしたり忘れたり、ましてや捨てたりは決してせぬよ。それに、左之はお主に期待してござる。ここに来るよう言い置いたが何よりの証拠。心配は無用にござる。信じてやれ。そして待ってやれ。あんな男だから、いつになるかは判らぬが、きっとお主たちのところに戻って来よう。」 そうだろうか。そうなのだろうか。信じたい。そう強く思った。この人のまっすぐで強い目と言葉を信じたい。 「でも僕は……。知らない。どんな人かなんて判らない。だって……。」 「そうか。では、お主が見た左之はどんな男だった?」 「僕が見た?」 「ああ。兄として知らずとも、ある日宿場にやってきた惡一文字の若者なら知っておろう? 彼は何をした? お主のその眼(まなこ)には、彼の何が映った?」 央太の脳裏に甦るのは、鮮やかに翻る惡一文字。ひとりで不動沢のならず者に立ち向かう背中。父を追って夜道に駆け出した背中。累々と横たわる男たちのなかにぬっと立つ背中。そして夜明け前の街道に消えていった惡一文字。 そうだ。憧れたのは、あの背中――。 央太の幼年期を颯爽と駆け抜けた。 だが、去った男がよき兄かどうかがどうして判るだろう。どうすれば信じられるだろう。 「それで足らねば、左之ではなく父上を信じろ。家を飛び出して十年以上も帰らなかった彼を平然と迎え、そして再び去るに任せたお主の父上が、左之を信じるその心を。」 「あ。」 世界がうらがえったような心持ちがした。 「央太。お主はもう立派に一人前でござる。父上も、今のお主に隠し事はなさるまい。一度郷里(くに)に帰って、父上と話をしてみてはどうだ?」 再びの涕に言葉を失ったまま、ただ何度も何度も頷く。頭に温かい手の重みを感じた。 そんな折、赤べこの常連客の生糸商人がちょうど彼の郷里へ商用の旅に出るという話が聞こえてきた。この乾いた猛暑に子ども連れとなれば、常でも六、七日の行程が二、三日は余計にかかろうものを、人のいい商人は快く引き受けてくれた。神谷の夫婦は、それへせめてもの旅支度と心付けを欠かさず、央太の家族への土産にも余念がない。 そして七夕の井戸浚いを道場総出でやっつけ、明日が草市という日に出立するのを皆で盛大に見送り、神谷道場にはまたいつもの日々が戻ってきた。 「ふうぅ。これで一段落ってところね。ありがとね、剣心。剣心が言い聞かせてくれたんでしょう?」 剣路が昼寝をする束の間の休息。縁側にかけてほっとひと息ついた薫が話しかけてきた。 「おろ。いやなに、ほんの世間話にござるよ。」 「そうぉ? ま、どっちでもいいけどね。でも信州だから戻ってくるのは八朔も過ぎた頃になるわね、きっと。」 「つーか、十五夜過ぎても帰って来ねえかもな。」 「なによ、弥彦。あんた何が言いたいのよ。」 「お前すっげーこき使ってたからな、アイツのこと。剣路の子守りとか思い切りさせてただろ。」 「だってアレはあの子が自分から……!」 「って言ったって、させるか普通?! 今ごろ東亰には鬼婆がいてとか言ってるかもしんねーぜ?」 「なんですってえッ!?」 片や娘時分と変わらぬおきゃんな物言い。片やようやく年相応に感じられるようになった小生意気な口ぶり。にぎやかなやりとりを右から左と聞き流しつつ、剣心はハハハと笑った。 幾つになっても変わらぬことだ。 ふっと浮かんだ考えに、いやそれは自分こそかと可笑しみを覚えた。 じき四年になる。 流浪して十年、ここに居付いて足かけ五年。人を変えるのは時間ではないと、今では知っている。 だが不在の月日は澱のように降り積もり、剣心の内部を濁らせていた。 そして先に央太を慰めた言葉が、己には毒の棘となってじくじくと身を苛む。 そうだ、帰っては来るだろう。 だが欲深い心はそこに安住できない。不実がすぎると言い聞かせても、一度気づいた渇えを抑えられはしない。 まるきり信じていないわけではないのだ。だが信じ方に必死さがある。信じている、と言わずにおれないほどに怯えている。 やくたいもない思考を払うように束髪を振って空を仰いだ。 「ほんに今年はてんで降らぬな。」 年明けには神田に大火が出てずいぶんな数が焼け落ちた。梅雨は雨を知らず、残暑は居座り、巷では今年は火の当たり年だなどと騒ぎ立てる始末。今も空は太陽をかくすほどに白く晴れ、見上げていると目が眩みそうだ。 ふぅとため息をつき、頭を巡らした。 その硝子玉のような瞳に、女と青年の姿が小さく映っている。女の揺れる髪も、鳴り止まない蝉時雨も、通りをゆく燈篭売りの呼び声も、全てがどこか遠くの出来事に思えて、もうひとつの拠り所がある央太が羨ましかった。 |
|
│次頁│ |