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ふう。
それにしても暑い。
暑いというか、頬が火照ってカッカする。
火に煽られてるからかな。
でもなんだかちょっといい気分だ。
まさかビールごときで酔いはしないだろうが、でも気のせいでなければ、ひょっとしてちょっとは回ってるかもしれない。
地面がフワフワして気持ちいい。
あの匂いがまだしてるけど、それももう大して気にならないし。
あー、しかし右喜ちゃんもお酒強いなあ。あれで四本目だっけ?
東谷さんも超ザルだし、酒豪一家なんだよな、きっと。
それにこの食べっぷり。見てて気持ちいほどサクサクおいしそうに食べるよな、ここんちの人達って。
央太くんも大人しそうに見えて食事に関してはしっかり東谷家の一員で、網の上に自分のコーナーを作って、着実にお肉を獲得している。
なんだ、結局似たもの一家なんだ。
あれ、あれれれ。
うっわ、いま気づいた。
大笑いしたらみんな同じ顔になるんだ!
すっげー、おもしろー! ていうか面白すぎーーー!!
………ん?
ややっ?
えっと、これってナニ、俺が笑われてんのか?
「やっだー、剣ちゃん、それウシー!」
「なんじゃそりゃーー!!」
「うひゃひゃひゃひゃ」
彼らが腹を抱えて大笑いしている対象は、俺が今まさに網にのせようとしていた茄子だった。どうしてそんなものが紛れ込んでいたのか、ともあれそれは精霊馬――お盆の送り火に供える茄子の牛。丸のままの茄子に短く切った割り箸四本を脚に見立てて刺しただけ……といえばだけなのだろうが、じっと見ていると本当に牛っぽくてもっさりとした妙な愛嬌がある。
ニヤリ。
「いてまえ! 牛の丸焼きっ!」
うははははー。
またみんなで大笑いして、いやあ、肉は美味いし、ビールは美味いし、お天気はいいし、サイコー! ヒャッホー!
みんなとっくに汗だくだったが、とくに左之助がひどいことになっていた。
剥き出しの背中には汗が文字通り滝のように流れてるし、動くたびに髪の先からぽとぽとと大きな粒になった水滴が落ちる。素肌に着けたエプロンも、首にかけたタオルも、見るからにたっぷり汗を吸ってどぼどぼになっている。
そもそも服を着ないのがかえってイカンのだ。
砂漠の国の民族衣装がいい例だ。全身を布で覆うのは強烈な直射日光から身を守るためで、肌をさらしているよりその方が実利的だからだ。
ふん、愚か者めが。
じっと見ていたせいか、左之助が目を上げてこっちを見た。どことなく微妙そうな、けど人を小馬鹿にしたような視線を向けられて、意地になって睨みつけた。
だーるまさーん、だーるまさーん、にーらめっこしーま………あり?
敵前逃亡かっ、意気地なしめ!
とりあえず勝った……と言えるのかどうか、あっけなさすぎて張り合いがない。むーん。おさまりがつかないので、クーラーボックスに屈みこむ敵の背中をしつこく睨んでみた。
濡れた背中に太陽が鋭く反射する。
油のしたたる刃物のような光がぎらりと目を刺して、その瞬間、眩暈がするほどの生々しい衝動がつき抜けた。
頭の中でわんわん光がうねって、たまらずその場にしゃがみこむ。
「おい剣心さん、大丈夫か」
「あれー、どしたの剣ちゃん、酔っちゃった?」
「まさか。こいつオレよりザルだっての。日射病とか?」
皆がうちわと身体で影を作ってくれて、それで少しらくになったところをみると左之助の言う通り日射病か熱射病か、何かそういうものなのかもしれない。
んー、でも日射病と熱射病ってどう違うんだ?
「とりあえず日かげ行く?」
「央太、水!」
「え、これ?」
「馬鹿、ちがう、コップに!」
うすく目をあけると、央太くんが消火用に用意してあったバケツを両手で提げて、今にもかけんと構えている。
おいおい、勘弁してくれよ。
でもその必死な顔がどうにもこうにも可愛くて、ああ、笑いが止まらない。
「えー、でもだってこれってあきらかに酔っぱらっぱじゃないー? 家戻って休んでた方がよくない?」
「めっずらしー。コイツが酒で酔ってんのなんか初めて見たぜ」
「まああれだな、ここんとこいろいろあったから、疲れてたんだろうなあ、剣心さんも」
「お水? もっといる?」
うーん、ごめんねー、大丈夫、ちょっと寝てたら平気だからさ、いいから食べてて食べてて。
そう言ったつもりなのに全く通じてなくて、四重唱の声はさらに心配そうになったり慌てたりして、なんやかやと言ってくれてる。
ていうか、嘘だろ、マジで?
信じられないけど、俺がビールごときで酔っ払うなんて。
不覚。超不覚。
でもごめん、なんかすっごいいい気分なんだ。
ふわふわうねうねして、海の中みたいで。
もうこのまま寝てていいですか、そうですか、いやあ悪いねすまないねー。
と思った途端、腕をつかまれた。反対の腕と背中にも非情な手が伸びてきて、寄ってたかって身体を起こそうとする。
「ほら、立てって、オイ」
「剣ちゃん、大丈夫? ちょっとだけ頑張って。おうち帰ろ? ね?」
ああもう、右喜ちゃんまで。
みんなひどいぞ。
情け知らずどもめ。
「立たねえと引きずってくぞ、オラ!」
うるさいなあ、もう!
ていうか、そんなエロいカッコで俺に触るな!
うりゃーーーーっ!!
「ぶごっ」
「きゃあー、剣ちゃん、ストップストップ!」
「ちょ、おいこら、おま……暴れんなって、わっ」
うるさーい! 放せーー! 俺は酔ってぬわいぞおーー!
「うわっはっはー! なんか判らんがいいぞいいぞーー」
――――――――――――――――――――――――――――――
ただ【只】
――より高いものはない
只で物をもらうと、往々にしてかえって高くつくものだということ。
只で物をもらったのが元で、禍(わざわい)をこうむること。
――――――――――――――――――――――――――――――
階段室のドアが閉まって周りが真っ暗になるのと同時に、ふわりと身体をすくわれた。
なんだ、はじめからそうしてくれたら必死に歩かなくて済んだのに。
と思ってから、ちがう、みんながいたからだと思い至った。
「たくもう、野獣かお前は。おもくそ殴りやがって」
とか何とか言いながら、熱く湿った唇が額に触れてくる。その触れ方が反則的に優しくて、自分がバーベキューの肉かなんかになった気がした。
首に回した腕にぎゅっと力を入れて肩に顔をうずめると、また一瞬だけあの匂いがして、でもすぐに左之助の匂いに駆逐された。真昼の直射日光に灼かれていた左之助の肌は、もう大概火照ってるはずの俺の顔よりもまだ熱くて、その熱と匂いに焙られて、沸騰した液体がまた体内を奔る。
なんなんだろう、これは。
なんでこんなことになってるんだろう?
わけがわからない。
でももういいや。
もうどうでもいいからどうにかしてくれ。
自分でも理解不能な衝動に翻弄されて、浅い息をつきながら目を開けた。
すぐ目の前に左之助の首がある。
汗に濡れて赤銅色に光っている。
触覚、嗅覚、それから視覚。
自分の足で立っているときよりちょっとだけ目の位置が高いことに気づいた。
暗さに慣れた目で、皮膚の下の筋の動きを見ていると、耳の後ろから汗が一筋伝い落ちた。鎖骨に向かって流れるそれを、舌で受け止めてゆっくり舐め取る。
アンド、味覚?
「バ……! やめんかアホんだら!!」
大声を上げて驚いた左之助に落とされそうになって、慌ててしがみついた。
踊り場でいったん降ろされ、今度は背中に負ぶわれた。
重い音を立ててドアが開き、また昼の陽射しに包まれる。
屋上から一階下りたここがマンションの最上階。ここから下は入居階で、エレベーターが通っている。
だが人目をはばかってということであれば、おんぶかだっこかというような次元ではなく、真っ昼間に半裸エプロンとべろんべろんの酔っ払いという自分たちの格好の方こそ、よほど人さまの度肝を抜くに十分な非常識さだったのだが、生憎その時は二人ともそんなことを客観的に考えられる状態ではなかった。俺は俺で久方ぶりにもうどうしようかというほどご機嫌さんだったし、左之助は左之助でとりあえず相当テンパっていたらしい。
でも左之助の背中で気分よく浮かれていた俺はそんなの知ったことじゃない。エプロンの首紐をいじったり、髪をかき分けて地肌のホクロを数えたり、耳たぶのかさぶた(串本でクマノミに噛まれたらしい。どんくさっ!)をふやかして剥がしたりして遊んでいるうちに、いつの間にかエレベーターを降りて家に到着していた。
* * *
「ほら、クツ自分で脱げよ。オレ手ないから」
「ん……んんー」
後ろ手で鍵を閉めながら、背中の悪戯者を荒く揺する。
「んー、左之っちのー!ハダカエプロンでしゅー! エロエロー!」
「えええっ!!」
あーりーえーなーいっ!!
小さな悪魔の手はさっきから片時もじっとはしていなかったのだが、とはいえ脇からエプロンの中に侵入して胸をまさぐり始めたのにはさすがに仰天した。
こらー! 人の乳首をいじるなーー!!
と思ったら、今度は自分のスニーカーを両手で引っこ抜いて、オレの鼻先に突きつけてきた。
「ぷわあーーーーん!」
…………くっそ、調子に乗ってんじゃねえぞテメ。楽しそうに笑いやがって。
まあいいけどな。どうせ今のうちだけだし。後でしこたま反省させてやるし。
つうか大体こいつがビール数本で酔っ払うわけがねえんだよな。
ポン酒一升平気で空けて、酔うより先に腹がふくれるとか言ってるくせに。
酔ったふりして人で遊びやがって。
コノヤロ、覚えてろ。
そもそも今日は朝からヤバかったんだ。
何ってこのタカさんの“暑中見舞い”が!
昨日広げた時は別に普通の割烹着だと思ったが、今朝剣心が着てるのを見てどビックリだ。
腕をカバーしないエプロンに調理着の意味はないという剣心は、ひたすらガンコな割烹着派で、年中長袖割烹着で通している。無地だったりチェックだったり右喜が洒落で作ったドラえもんアップリケだったりと色柄もいくつか持っている。白の無地だってある。だから、右喜のエプロンのお礼を兼ねた暑中見舞いと称してタカさんがくれた白無地割烹着を見てもなんとも思わなかった。というか、なんでわざわざ、と思ったくらいだった。
なのに、気持ち大きめのサイズのせいか、ふんわり膨らんだ丸っこい形のせいか、後ろで紐をチョウチョ結びにするちょっと古風なデザインのせいか、なんでか判らんが、とにかくべらぼうに可愛い。
しかもこの三角巾だ。
なんだこりゃ、誰だこんなもん発明しやがったヤツは。
「せっかくだし、これも」
と何気に巻いたとこまではまあいいとして、でも結び目があたるとか何とか言って髪をおろしたのは、あれはまちがいなくオレに対する挑戦だったと思う。
昼の焼肉の間中あんなものが目の前をウロウロするのかと思うとゾッとした。
どう考えても腹より違う方が元気になるだろうが!
ちょっとでもガードになるかと、オレもタカさんにもらったエプロンをしておいて助かった。
――つか、まさかそれを見越してじゃねえだろうな。
あの人ならあり得るから怖いっての。
ま、何がスゴイって、あの人を奥サンにしてるクソ野郎が一番すげえけどな。
背中の確信犯は相変わらずコロコロと笑い続けていて、咽喉の転がる振動と細かい呼気が肩と首と下半身を直撃してくる。
駆け込む勢いで部屋に突進して、ようやくソレをベッドに放り出した。
くにゃりと芯の抜けた身体がスプリングに弾んで、笑いが止む。
剣心がオレを見上げて不思議そうに首をかしげた。
「………お前が悪いんだからな」
充血した目は熔けた銀のようにくるくると色を変えて、意識を侵食する。
問題の三角巾とおさげのゴムをはずす。
――そう、このおさげもヤバすぎた。
右喜は、あいつはある意味天才的なセンスの持ち主だと思う。
あいつの手にかかると剣心は間違いなく何割か増しで可愛く、あるいはエロくなる。はしゃいでいられる程度ならいいのだが、ときどきちょっとシャレにならない。
束ねを解かれて、縄がゆるゆるとシーツに散っていく。きつく編んであったようには見えなかったのに、髪には三つ編みのあとがきっちりとついて、規則正しい波を描いている。うねる髪の海にピンクに染まった顔が浮かんで、いつも見てる顔なのに、何も変わったところはないはずなのに、どうしていいかわからないほど息苦しくなった。
なんでそんな不思議そうな顔してる。
なんでそんな、もうこれきり会えないみたいな切羽詰まった目をしてる。
その潤んだ目がふいに甘やかに緩んで、細い三日月に形を変えた。
それから小さな唇が柔らかそうに蠢いて、吐息に声が混じったとは思ったが、頭の中はもう真っ白い光の洪水で、その囁きがなんと言ったかまでは理解できなかった。
* * *
「あ、お兄ちゃん」
「おかえりー。剣ちゃん大丈夫そうー?」
「あー、おう。まあとりあえず水飲ませて寝かしといたし」
「あれ? エプロンはずしちゃったんだ」
「つか、汚れたから洗濯機放り込んできた」
「汚れた?」
「おう。剣心にゲロ吐かれてよー」
「ありゃりゃ。ていうか、ほんと大丈夫? あたしついてようか?」
「あー、いいいいいい、いいって。もう寝てるし。放っときゃいいって」
「えー、そうー?」
「あいつああ見えて頑丈だって。おい、それよか肉ねえぞ肉! オレの肉は!」
「……喰った」
「ンナニィー!」
「弱肉強食?」
「テメーらなあ!!」
「ウソだよお兄ちゃん、とってあるよ」
「あーダメじゃん央太、言うの早いってー!」
「でもだって」
「おおー、偉いぞ央太! うっしゃ肉肉ーー!」
「こっちは剣ちゃんのだからね。食べちゃダメだからね」
「うひょー、ンマそ。いっただっきまーす!」
* * *
携帯メール
時尾→左之助 8月15日 午前9時44分
剣くんの三角巾にちょっとイタズラしてあるから、二人のときに使ってねーん( ̄m ̄〃)
左之助→時尾 8月15日 午後5時08分
なんで?
時尾→左之助 8月15日 午後5時09分
な・ん・で・も♪ 結果報告セヨ( ̄∀ ̄*)
* * *
うーん、結局なんともなかったのかなあ?
左之っちに訊いてもメール返ってこないし、剣くんも別に普通とか言ってるしぃ。
さすがに海外モノだけあって、けっこう効くと思ったんだけどなあ、アレ。
いくらなんでも、やっぱ男の子には駄目なのかしらん……。
つまんなーい!
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だそく【蛇足】
十分出来上がっているものの後に付け加える余計なもの。
あっても益がない不要のもの。なくてもよいもの。
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END/2005.10.26
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