「なあなあ、先生。先生、左之兄ぃに
「DV!? ドメスティックバイオレンスのDVか? まさか。どうして?」
「………」
「ヤヒコ? 怒らないから。言ってごらん? どうしてそんな心配を?」
「……べつに。なんとなく」
「――なんとなく?」
「………ウン」
「………」
「と、とにかくっ! 今はなくても、もしそんなんなったらおれに言えよ。
どうしてってだって、見てしまった。
あれはいわゆる――そう、絶体絶命だった。
あら、おばあさん、なんて大きなおみみ。
おまえのこえが、よくきこえるようにさ。
あら、おばあさん、なんて大きなおてて。
おまえが、よくつかめるようにさ。
それに、おばあさん、まあ、なんて大きなおくちだこと。
おまえをたべるにいいようにさ。
最初は普通だった。
左之兄ぃは保健室のすみでいつものイスに座っていた。ヒト型だった。膝にはウサギの先生がのってて、左之兄ぃは先生のウサギを撫でていた。先生は丸くなってモフモフされて気持ちよさそうだった。
覗き見するつもりじゃなかったけど、目を離しがたくて、しばらくそうっと二人を見ていた。
様子がおかしくなったのはしばらくしてからだ。
先生は体をちぢこめてうずくまるみたいになっていって、でも左之兄ぃは変わらずモフモフを続けていた。なにがどうとは言えない。でも何かちょっとちがう気がした。なんだろうと思っていたら、左之兄ぃが突然先生をひっくり返したのだ。
動物ならだれだって仰向けにされたら怖い。まして先生はウサギで左之兄ぃはキツネだ。怖くないわけがない。先生はもがいた。でも左之兄ぃが少しモフモフするとすぐにあきらめた。そりゃそうだ。左之兄ぃのでかい手で掴まれたら、ウサギの先生が逃げられるわけがない。
先生は苦しそうだった。
ぴくぴくして、震えてて、だんだんぐったりしていくのがおれのいるところからでも見てとれた。耳はへたっと垂れて、ひげがときどき思い出したようにぷるるっと揺れる。ふかふかのきれいな白い毛並みは、風の日の原っぱみたいにざわざわしてた。
どうしよう。助けないと。
でも動けない。変にドキドキして気ばかり急く。掌に爪を握りしめておれは汗をかく。
その瞬間、おれはアッと声を上げそうになった。
今にも死にそうな先生のお腹を左之兄ぃがべろりと舐め上げたのだ。
かわいそうな先生が苦しそうに身をよじっても、左之兄ぃは先生を放さない。それどころか二度も三度も同じことをくり返して、先生をさらに苦しめる。べろりとされるたびに先生の耳はふるふるっと揺れる。
注射の前に消毒薬で肌を拭くのに似ていると思った。そうして準備をして、もうよかろうというところでずぶっといくのだ。左之兄ぃもきっとそうだ。
先生ピンチ。
万事休す。
だめだ。もう黙ってられない。
けど、ちょうどまさにその時だった。
左之兄ぃがバッと顔を上げてこっちを見た。モロに目が合って、おれは飛び出しかけた中腰のまま固まってしまう。だって左之兄ぃの本気顔はちょっとしゃれにならないくらい、怖い。全身チリチリのキリキリで、あっちこっちが熱かったり冷たかったりで、どうしよう先生かわいそうにかわいそうにおれでもこんななのに先生なんかウサギなのにかわいそうに……!
左之兄ぃはちらっと先生を一瞥すると、おれに向かってニッと笑った。
こいつをたべるにいいようにさ!
そして左之兄ぃはくったりしてしまった先生を両手にすくうようにして持ち、奥の部屋に消えた。ぱたんとドアの閉まる音が響く。
おれは腰が抜けたまま、しばらく呆然としていた。
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かわいそうな せんせい<全1> 2008/2/13
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