「残照」 灯ともし頃、目覚めるとそこは神谷の客間だった。傍らには青い顔をした恵がいた。聞けば三日も意識を失ったまま。しかも、その張本人である例の細目、新撰組の生き残り斎藤一が、今この邸に来ているという。 剣心がいれば大事あるまい、と思いつつも妙な胸騒ぎを禁じえず、渋る恵に強いて道場へ向かった。 そこに、彼ならぬ彼がいた。 ――人斬り抜刀斎。 「剣心」が十年かけて封じ込めてきた暗殺者がいた。 見惚れた、と言ったら、闘いと刃傷を嫌う潔癖な剣客は嫌うだろう。しかし左之助は、猛々しく美しい剣心の、いや、抜刀斎の姿に、我を忘れて魅入っていた。燃える氷のような、剣士の魂。同じ闘いの世界に身を置く者ならば、誰もが感じるだろうこの昂り。大声を上げて駆け出したい衝動にかられた。 これが抜刀斎か。 ざわざわと全身が鳥肌立つ。血がたぎり、体の奥底から震えがこみあげてくる。そして、これまで闘いの最中に垣間見た荒ぶる姿さえ、「彼」の片鱗にすぎなかったことを知った。 もっと見たい。 全部見せてくれ。 これが、人斬り抜刀斎――。 傷も痛みも、肩を預けた恵の存在さえ忘れ、憑かれたように剣心の闘いを凝視した。全てを脳裏に刻み込もうとするように。 そして、無理に動いたことがたたったか興奮したことが災いしたか、大久保卿が辞した後、左之助は再び激しい痛みと傷からくる発熱に襲われ、恵が処方したゆるい痺れ薬を服んで床に就くことになった。 誰だ……。 傍らに人の気配を感じて目を開こうとした。だが、まだ薬が効いているのか、両の瞼は張りついたように動かない。衣ずれの音。人の息づかい。その気配が、歳長けた女医が様子を見に来たにしては忍びやかすぎて、 剣心……? 半覚半睡のまま、声を出さずに呼んだ。 髪に触れる指を感じ、期待は確信に変わる。次は頬。一旦顎まで降りて、少し戻って止まった。冷ややかだった指先に、左之助の体温が移ってゆく。 (さの。) 声が聞こえたと思った。瞼の裏の剣心は今にも涙をこぼしそうで、「泣くな」と言ってやりたくて、どうかこうか眼をこじ開けた。すると、すぐ目の前、一尺足らずの距離に静かに微笑む顔がある。二重に意表をつかれて、束の間、表情に困った。が、ここは笑っておこうと思った。悲しそうな顔を見るよりはよほどいい。 「おう・・・・・。」 声が掠れて、まるで他人が話すのを聞いているようだ。 「ど・・・・した。寝つかれねぇか。」 眠れまい。それは先刻承知ながら訊く。だが袴を着けていないところを見ると、いったん床には入ったとみえる。 「左之。拙者……」 「謝んなよ。」 言い淀む隙をとらえ、先手を打つと、頬に残されたままの指がぴくんと撥ねた。 斎藤の一件。この傷のこと。 「これは、俺の買った喧嘩だ。お前には関係ない。」 半ば以上は自分に言い聞かせている。 置き土産。 斎藤が口にしたその言葉が、左之助の脳裏にこびりついて離れない。 悔しかった。手も足も出なかったこと、わざと急所を外され愚弄されたこと、ただ剣心を怒らせるためだけに斃されたこと、そして、斎藤の思惑のままに自らを責めているだろう剣心と、そんな状況で寝ているしかできない自分――その全てが、どうしようもなく悔しかった。 「左之。」 適当な言葉が見つからないのか、剣心はひたと目を合わせてきた。だが、よく見ればその表情は相変わらず柔らかい。そして視線を離さず言った。 「よかった。お主が無事で。」 声には、懸念よりも安堵の色が濃い。意外な反応に面喰った後、つまりそれだけ不安が深かったのだと気づいて憮然とする。 そうだ。相手が本気で殺すつもりだったなら、自分は今ここにこうしてはいなかった。奴は正確に急所を外した。命を奪わないよう、そして身体の機能さえ致命的には傷つけないよう、細心の注意を払って。 明らかに意図的な斃し方は、左之助の自尊心を傷つけ、剣心に大きな衝撃を与えた。それは、血まみれで倒れる左之助を見た瞬間ではなく、犯人の思惑を知ったときに訪れた。道場に転がっていたのが左之助の死体だったとしても、なんの不思議もなかった。むしろ、敢えてじきに完治する傷つけ方をするつもりで来ていたことが僥倖だったにすぎない。 そう思うと、全身の血がすうっと下がった。指先が冷たくなり、足下にぽっかり穴が開いているような不安を感じた。そして、自分でも驚くほどの恐慌に襲われた。 左之助が死ぬ? だめだ。それだけはだめだ、だめだ、やめてくれ、頼む! 祈る神も知らず、それでも何かに祈らずにはいられなかった。 「左之。死ぬなよ。」 熱を帯びた視線を絡ませながら、剣心は言い重ねる。 「なに言ってやがる、縁起でもねえ。おめえにやられたときの方がよっぽど重傷だったぜ。」 とでも常ならば返そうものを、左之助をしてそんな応えを憚らせるほどに、語りかける言葉と視線はどこまでもまっすぐだった。 いつもは憎らしいほど腹の底を顔にも口にも出さない天邪鬼が、今日は一体どうしたというのか。 潤んだ瞳でじっと見つめられて胸が弾まないと言えば嘘になるが、しかし甘い気分に浸っている場合ではないと、頭のどこかで警告音が鳴っている。 筋金入りの根性曲がりが、なんだってまたこんなに可愛いことを言ってくれる? 何かあるとしか思えない。そして思い当たることと言ったらひとつだ。 「剣心。まさか、行く気か?」 「左之、何度も言ったろう。拙者はもう人を殺める気はござらん。」 「答えになってねえ。それとこれとは話が違うだろが」 険しい声は軽く受け流したが、剣心の口につい苦笑が洩れた。 「お前もたいがい素直でない。拙者がお主には生きていてくれと願うのが、そんなにおかしいか」 「いいや。妙なのは、おめえがそういうことをすらっと口にすることだろうよ。」 単細胞に見えて実はそんな鋭さを備えていながら、しかしそれを真っ向からぶつけるあたりがやはり若い。いや、若さではないのか。 「可愛くない。拙者はそんなにひねくれ者か?」 聡すぎる子は損をするぞ、と、これは心の内で呟いた。 「おう。ひねくれ者の意地っ張りの根性曲がりのわからずやだ。」 「斎藤め。どうせなら、この減らず口がきけぬようにしてくれればよかったものを。」 「ついでにおめえのその曲がりまくった根性も叩き直してもらやぁよかったのによ。」 久方振りの軽いやりとりに誘われて、剣心の中にふと悪戯心が起きた。 「相楽左之助。目上の者は敬えと、教えてくれる者はおらなんだのか?」 相手は薬で痛みと熱を散らしている。身体の自由が利かないのをいいことに、ちょっとからかってやることにした。 「大人をからかう子には、」 言って、覆い被さるように身を寄せた。 「え?」と問う間もあらばこそ。 「お仕置きでござる」と吐息で囁いて、頬と言わず額と言わず顔中にくちづけを降らしはじめた。青天の霹靂、鬼の霍乱。左之助は呆けたようにぽかんと口をあけたまま、匂いたつような笑顔を見つめるばかり。 「け・・・・けんしん?」 しかし、らしくもなくかぼそい声をようよう絞り出して言った台詞が、「なんか悪いもんでも食べたのか?」ときては、さすがの剣心も毒気を抜かれた。 「・・・・・・。」 あまりといえばあまりな言い様。 「・・・・・・恵殿が正しい。」 「?」 「お主は日本一の馬鹿でござる。」 そう言って、体重をかけぬよう注意深く両腕で身体を支えつつ、今度は静かに唇を合わせてきた。そっとついばみ、舌でつつき、小さく歯を立てる。薄く目を閉じた無心な様は餌をねだるひな鳥のように無防備で、左之助はたまらなくなって顔を背けた。大量の出血で青白かったはずの顔に、いつの間にやら必要以上の血の気が戻っている。 「ば、ばかはお前だっ!この唐変木!」 「左之?」 「それともナニか。てめぇ、わざとか? こっちが動けねえからって図に乗ってやがるな?」 言葉の後半は囁くような低い声音で耳朶に流し込み、余裕の態で空とぼける剣心に、せめてもの反撃を企てた。覆い被さっていた小さな身体が敏感に反応を示し、ふるりと微かに全身を震わせたのを見逃さず、鈍い右手をどうにか持ち上げ、腰を抱き寄せて逆襲を試みる。 「こ、こらっ! お前はおとなしく寝ておれ!」 「と、言われても、このままじゃ寝るに寝らんねえや。誰かさんがひどい悪戯してくれたからなあ。・・・・・・それともお前ぇがしてくれるか?」 狐につままれたようにきょとんとしたのも束の間、すっかり理解が及んで剣心は、耳まで真っ赤なゆで蛸になった。別人のような色慣れぬ反応に、悩殺するつもりかと、左之助は心中で天を仰ぐ。 剣心は幾度か口をぱくぱくと開閉したあと、ふと口をつぐんで、細い指を頤にあてた。今度は何やら真面目に黙考している。 だが何を? 今度こそ先の読めない展開に、左之助が恐る恐るといった風情で声をかけようとした矢先。 「ふむ。それも悪くない。」 「は・・・・?」 呟く剣心は、打って変わってこれまで見たこともない挑戦的な顔をしていた。 「よし、先だっての借りを返すとするか。さんざ嬲ってくれた返礼に、今日は俺がお前を楽しませてやろう。」 「は・・・・?」 怖いもの知らずと打たれ強さが身上の元喧嘩屋が、阿呆のように繰り返す。百面相みてぇだ、とどこかで誰かが呟いた気もしたが、機嫌よさげに笑み崩れている剣心には聞こえていないようだ。 「左之、遠慮は無用だ。」 「い、いや、だがよ・・・・・。」 体さえ動けば、肘でもついて後ずさっていただろう。左之助の頬には妙な笑いが張りついていた。 「喧嘩屋斬左の名が泣くぞ。」 その笑み、その声、その姿。 凄絶なまでに艶めかしい。 いつもは怜悧な目を熱っぽく潤ませ、小さな口の端をかすかに上げている。 「さの……」 濡れた声で囁き、左之助に舞い降りようとしている、これは一体、誰だ―――? 「け、けんし……」 「お主はおとなしく寝ておれ。今宵はな。」 笑んだ形のまま、ひらりと唇で唇をかすめてから、剣心は怪我人の足元に身を沈めた。 上掛けをはね上げ、指先で足首に触れる。そのまま脛を辿り、膝頭をくりりと巡って、腿を這い上がる。裾を割り、手の平全体を吸い付かせるように撫であげ、そして腰骨に辿りついた。 「さの。」 羽根のような刺激と、秘めやかな囁きが、左之助の脳髄を貫く。 「っ……。」 思わず固く目を閉じる。どくりと、身体の奥が脈打った。 「お主、存外かわいいな。」 笑いを含んだ声に瞼を上げると、酔ったように自分を見つめる柘榴色の眼がふたつ。 これは、魔、か――。 「け……。おめえ……。」 「何だ?」 「とんでもねえ奴だ。てめ、こないだの、は・・・・。」 装ったか、と言わせもせず、ふいと身を持ち上げて体を添わせ、目を合わせてきた。 「だからお主はかわいいと言うのだ。」 そう言って、己の左胸を左之助の右胸にぴたりと寄せる。 「?」 「聞こえぬか?」 密着した肌から伝わる心の臓の鼓動は、まるで打ち鳴らされる半鐘のように激しく早い。 「け……。」 では、この狂態は――。 「二度はないぞ。とくと愉しめ、さの――。」 乱れてもみせよう。狂ってもみせよう。 お前がそう望むなら。 それでお前が、俺を心にとどめてくれるなら。 お前の命ある限り。 夜が明けても。 明日が過ぎても。 そして、俺がいなくなっても――。 「ん……く。…っう…」 剣心は左之助の下肢に顔をうずめて、喘ぎともうめきともつかぬ声を洩らしている。夜更けの静寂のなか、粘液質の水音と微かな衣ずれが響いていた。 自分の腰の上で揺れる赤毛を見つめ、左之助が掠れた声を上げる。 「剣心。」 呼ばれて顔を上げた。汗ばんだ額に前髪を張りつけ、ぬらぬらと光る唇には張り裂けそうなものを咥えたまま、熱を帯びた目を左之助に向ける。乱れた着物から覗く白い肌が、素肌よりもかえって艶めかしく、その情景を目にした瞬間、左之助の全身に痺れるような疼きが走った。 「く、う……あっ。」 暴力的なまでの快楽の波が押し寄せ、気づいたときには剣心の熱い口の中に欲望を解き放っていた。 「んっ……。」 苦しそうな、というよりも泣きそうな顔で、それを受け止める剣心が見えた。 「っ……悪ィ、つい……。出せ剣心、構わねぇ、から。」 息を整えつつ言うが、固く目をつむったまま剣心はふるふるとかぶりを振る。 こくん……。 飲み下す小さな音が部屋に響いた。 「くはっ……。ぁ、はあっ……。」 目に涙をためて肩で息をする愛しいひとを、しかし今は抱きしめることもできない。それが左之助には歯痒くてたまらず、そしてだからこそ余計に愛おしい。 「剣心。こっち来な。」 顎で促したが、ようやく息の落ち着いた剣心は、胆の読めぬ笑みを浮かべて、また小さくかぶりをふった。 「言ったろう? 今日は俺がお主を楽しませてやると。お前はそうして寝ておれ。」 だが、という反論は、言葉になる前に凍りつく。膝立ちになった剣心が、左之助の身体を跨ぐようにして裾を捌き、とっくに復活した左之助を受け入れようとしていた。だが、もちろん馴らしもしていない。見かねて、先程よりは自由を取り戻しつつある右手を持ち上げ、腿に添えた。 「剣心。いいからこっち来な。」 潤んだ目でしばらく左之助の顔を見つめていたが、しかし今度は素直に従い、おとなしくその手に身体を寄せてきた。そして不自由な手をひと回りほども小さな両手でそっと包むと、その指を自らの体内へ引き入れた。 「んっ……」 痛みをおして腰を落とし、長い指を受け入れようとする。しかし、自らいざなっているとはいえ体内に受ける刺激は鋭く、それにもまして自慰めいた仕草に注がれる左之助の視線に力が萎え、たまらずかくんと顎が上がった。 「あ……」 そののけぞった喉の白さに、左之助は陶然と魅入る。日頃の彼からは想像もつかない淫らさ。憑かれたかと思うほどの乱れぶり。 「剣心……。」 その声に正気を取り戻したかのようにうっすらと目をあけた剣心は、ふぅっ、と息を吐きつつ、ずっぷりと埋もれた指からようやく身体を抜き、再び左之助の上に身体を開いた。 「さの。」 震える膝と手で懸命に身体を支えて少しずつ身を沈め、今度こそ左之助を己の中に取り込んでいく。 んっ。……はぁ。ふ…うっ…。 ――死ぬな、左之。 この地上のどこかに、お前が生きて笑っていると思えば、それで俺は生きてゆける。いつか会えるという希望さえ許されるなら。 たとえ身は側になくとも。 たとえ異郷を流離おうとも。 たとえ、お前が俺を忘れようとも。 だから死ぬな。 もう、ここにはとどまれぬ。 だが、だから――。 心の声は胸に秘め、他に言葉を知らない子どものように名を呼び合う。 「さの……」 「けんしん……」 部屋にはいつまでも喘ぎ混じりの吐息が響き、闇が夜を覆い尽くしていった。 了. 「花は爛漫」さまに投稿させていただいたものです。 |
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