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WINTER SONG

WINTER COMES AROUND ~冬の一日~



 東海道の小さな宿場町を少しはずれた林中。その道なき道を、剣心が辿っていた。
 森の冬は厳しい。樹々は凄まじく立ち枯れ、土は凍る。半年余前とはうって変わった死に絶えた情景のなかを、走る一歩手前の勢いで進んでいく。
 心の内に、凍った風が吹いていた。風は全てを鉛色に染めつつあった。
 束の間平穏だった秋の日、突き放した心ない言葉の返事に宝石のような想いをもらった。だから突然の船出も笑って見送り、気持ちに整理はつけたつもりだった。
 もう充分だ。何年離れようともお前が俺を忘れようとも、俺はお前を忘れない離さない。それだけで生きる支えには充分だと、結論を出したつもりだった。
 穏やかな生活が始まりかけていた。大きな混乱もなく左之助のいない日々が流れ、意外と平気だった自分に驚いてさえいた。
 だがそんなはずはなかった。己の身と心は予測をはるかに超えて弱く脆かった。季節が移ったことさえ認められないほど、夏の陽射しに溺れていただけだった。
 ついて行けばよかった一緒に行けばよかった。足手まといでも邪魔者でも、皆になんと思われようとも、あのときお前が追ってきてくれたように俺も追えればよかった。
 悔やんでも、もう遅い。いつも遅すぎる。手遅れになってから気づく。けれどもしかしたら、と思う。もしかしたら、あそこでなら、もう一度会えるのかもしれない。会えたら、せめて彼に言いたいことがある。
 白い息を吐きながら、ほとんど走る足取りで剣心は泉を目指していた。


 その泉は何を映す……と、老人は言っていたのだったか。
 東海道の小さな宿場町を少しはずれた林の中、樹々の間のぽっかり開けた原っぱに、小さな泉がひとつ、たしかにあった。闇のなか、腰まで生い茂った下草をかき分けかき分け、剣心はその泉に近づいていった。
 畳二帖分ほどの、ともすれば見すごしそうな泉の縁に佇んで、水面を見つめた。
 透きとおった水の鏡面は、夜更けの月光を跳ね返し、さざなみひとつない。
 だが、話を聞かせてくれた老爺のいかにも妖しのものでも映りそうな口ぶりとは裏腹に、弾けば鈴の音色が鳴りそうに硬い輝きを放つ水鏡に映る彼の姿は、いつもと変わらなかった。ほっそりした身体が前屈みにしなって夜目にも鮮やかな緋色の雨を降らせ、水さえ透き通りそうな顔の中で、ふたつの紫水晶だけが鋭く冴える。
それが剣心の目には、見苦しくてたまらなかった。貧相な身体。朱茶け、ぱさついた髪。闇が血を吸ったような毒々しい色の瞳。見慣れたはずの己の姿が、この日はいつにもまして目に障り、剣心は微かに眉をひそめた。
 これが泉の魔力だろうか。なまじな鏡よりもよっぽど主の姿に忠実なのではないかと思えるほどに生々しく映し、情け容赦なく現実を突きつける。
 ふと思い出した。老爺はこの泉は自分の心を映すと言ったのだった。それはつまりこうして本当の自分の姿に向き合うことで、自分の心を見つめ直すことができるということだろうか、と剣心は考えた。そして馬鹿馬鹿しいと思った。今さらそんなものを見せられたくらいで動じるほど弱くはない。この罪深い人でなしと一番長く付き合ってきたのは自分なのだ。所詮泉は泉、鏡は鏡。軽い失望を覚えると同時に、わざわざ目端っこいくノ一の目を盗んでまでこんなところへ足を運んでいる自分の行為がどうにも浅はかに思えてきた。
 じき京に着く。着けば志々雄との死闘だ。浮ついた情動に流されているときではない。
「人が腐るには充分な長さか。ちがいない。」
 東亰に足を留めていた間の自分こそ一体何を浮かれていたのかと思うと、自嘲に顔が歪む。
 ぬるい平和にひたって、立ち止まった。
 流浪の果てに人知れず野垂れ死ぬ末路こそ自分には相応しい。骸は野鳥が喰らってくれるだろう。この貧相な身体と醜い人生を跡形もなく消し去ってくれるだろう。それが己に科した生き方だったはずだ。それなのに、なにを人並みにまどろんでいたのか。
 弱く浅ましい心くらい、水鏡を覗くまでもなく知っている。
 流浪人だ人助けだと口では言いながら、その実、だれかに必要とされたがっているだけの貪欲な生き物。売られて拾われて、一度は得たと思った幸せを失って、それからは抜け殻のような心を抱えて、日本中を流浪れた。いや、本当は失うまでもなく、手に入れたと思い込んだこと自体が錯覚だったの。それでも、流浪れて人助けをしていると、ほんの少し気持ちが軽くなった。だが長くひとところにはいられなかった。
 我ながら身勝手なものだと剣心は思う。
 人を助けるのは本意だが、頼られると疎ましく感じる。だからこそ、不思議と彼を恐れも恃みもしない人間が集ったあの場所を離れがたかったのだ。
 捨ててきた面々が脳裏をよぎる。
 思い出す顔はどれもすがすがしく笑っていた。
 守りたかった笑顔は、自分がいるために損なわれたというのに。否応なく危険に巻き込まれ、見なくてもいい修羅場に直面せざるを得なくなった。自分がいたから誰一人死なずにすんだのではない。自分がいたから誰かが死ぬかもしれないような事態が次々と降りかかったのだ。やはり留まるべきではなかった。
 そこまで考えて、ふと我に返った。またかと思った。東亰を出てからというもの、剣心は暇さえあれば四六時中そうして自分を苛むようになっていた。未練がましいもの思いを払い落とすように頭を振って立ち上がろうとした。
 と、そのとき、水面にちりちりと細かい波が立った。風が吹いたわけでもないのにと不審を覚えた矢先、鱗の消えた水面に映る自分の背後にもうひとつの人影が立っているのが見えた。
「左之?!」
 はっとして思わず名を呼んでいた。
 背後を振り仰いだが誰もいない。寒々しい夜空に樹々の黒い陰が蠢いているだけだ。しかし水面には確かに左之助の姿が映っている。水の中からあの黒い瞳で自分を見つめている。
 これはなんの幻だ? あるいは何かの妖術か? とすれば、応えれば相手の思うつぼだとはいうことは想像するまでもない。だがそうは思いつつも、よりにもよって敢えて考えないようにしていた今一番見たくない顔を見せられ、つい気持ちが口からこぼれる。
「さの……?」
「オラ剣心! てめェ勝手に流浪に出るなっつったのを忘れやがったのか!」
 呼びかけたつもりでもない喉に溢れただけの呟きに、思いがけなく激した反応が返ってきた。二重にふいを突かれて剣心の堰は脆く崩れ、罠なら落ちたときのことと肚を括った。
「忘れはせんが、承知したと言った覚えもござらん。」
「屁理屈なんざ聞きたかねェ。どうせそのままどっか行っちまうつもりなんだろうが、そうはいくかってんだ。首に縄ァつけてでも連れ帰ってやるから、そのつもりで待ってろぃ。」
 きっと本物の左之助もこんな風に怒っているのだろう。だからこそ黙って東亰を離れたというのに、何処のたれか知らぬが小憎らしい真似をしてくれる。
「駄目だ、来るな。絶対に。とくに左之、お主は。」
「なに?」
「危険すぎる。」
「足手まといかよ。」
「いや。ただこれ以上拙者の闘いでお主を傷つけるわけにゆかぬだけだ。」
「だから! それが足手まといだってことだろうが!」
「ちがう。本当にそういう意味ではないのだ。」
 見まいとしても視線が勝手に左之助の右肩に流れるのをどうしようもなかった。あの姿を思い出すと、剣心は今でも恐怖と怒りに指先が震える。
「あのとき、道場でお前が血まみれで倒れているのを見たとき、俺はてっきりられたと思った。」
「……。」
 黙り込んでしまった泉のなかの左之助が、険しい目で剣心を睨む。
 その目に睨まれているうちに、いっそ思い切って全部言ってやろうかという考えが剣心の頭をかすめた。そうすれば胸のつかえも少しは下りるかもしれない。だれかが仕掛けた妖術かも知れぬが、聞かれてもかまいはしない。このことを本当に知られたくない相手は左之助だけだ。夢、幻なら気も軽い。
 それでも、他の耳を憚るように囁くように声をひそめた。
「心底ゾッとした。足元にぽっかりと暗い穴が開いたようだった。死など見慣れていたはずだったのに、お前が死ぬと思うと体中が冷たくなった。」
 そして恐ろしい考えが頭に浮かんだ、と剣心は続ける。
「いっそ他の誰かならよかったのに、と。」
 思った瞬間、我に返って愕然とした。そんなことをちらとでも考えた自分の心根のあまりの醜さに顔が熱くなった。
「なんとか一命を取り留めるだろうと聞いてホッとした後は、わけのわからない怒りだけが俺を支配していたな。お前を傷つけた斎藤も、腑抜けていた自分も、くだらない赤松も、何もかもが腹立たしかった。ついでに言えば、警官だというだけであの男を家に上げた薫殿と弥彦も。それから、俺があれだけ打ち込んでも倒れなかったくせにたった一撃で何日も寝こけていたお前もだ。八つ当たりもいいところさ。」
 相手が実体でないという気安さが、剣心をいつになく饒舌にしていた。
「腹が立つと体が震える。もっと腹が立つと目の前が真っ赤になって耳鳴りがする。でももっともっと腹が立つと、不思議に気持ちが落ち着いてくる。周囲の雑音が消えて、怒りの対象だけがくっきりと浮かび上がって見える。それ以外は目に入らなくなる。」
 左之助は何も言わない。黙然と剣心の言葉を聞いている。平生は心情を素直に語るその顔も、今は造ったように動かない。
「獣さ、そうなると。それを喰らい尽くすまでおさまらない。斎藤と闘っていたときの俺は、抜刀斎でさえなかった。ただの獣だった。あと少し技量か時間があれば、確実に殺していた。相手が斎藤で助かった、というところだろう。」
 風にあおられて束ねた髪が剣心の頬を叩いたが、水面は相変わらず鏡のように静かに左之助を宿している。
「だが、このままいけば、いずれ間違いなく俺が人を殺す日が来る。お前や皆を守るという建前のもとに。……いつか言ったようにな。」
 必要なら俺は人斬りにだって戻る。それを言ったときの左之助の顔を剣心は忘れない。あれは観柳邸の闘いが済んだ直後のことだった。
「でも、それでは昔と何も変わらない。人のためという大義名分を口実に人を殺す。人助けを人殺しの言い訳にしているだけだ。」
 どんな理由があっても、もう誰の生命も奪わない奪わせない。二度と再び自分の目の前で誰かの未来が不本意に閉ざされることのないように。そのために生きていると自分で言っておきながら、いつのまにかその心を見失っていた自分が許せなかった。彼に不殺の道を示した女性ひとに対する裏切りにも思えた。
「志々雄との闘いで不殺を守り通せるかどうかは正直判らない。だが仮に人斬りに戻ってしまったとしても、それをお前たちのせいにしてはならない。誰かのためだったと、また己の罪過から逃げる口実にしたくない。だから一人できた。」
 どうして欲しい?
 執拗に訊かれたことがある。別になにも。剣心はそう答えた。
 そうだ、何かをして欲しいわけではない。ただ、そこに左之助が生きてあるという事実があればそれでよかった。明日か明後日か数日後か数年後かに、また会える。その小さな希望があれば、それだけで俺は生きてゆける。
 心の中でそう呟きつつ、剣心は妻だった女性に詫びた。東亰で別れを告げた少女に詫びた。情の薄い身勝手な心を彼女らの前にさらして詫び、せめてそれを左之助に見せないことで贖おうとした。そのとき、無表情なままの左之助の唇が小さく動いた。
「結局そうやって自分の本心を見ないつもりなんだな。」
「本心?」
「まだ判らねぇふりか?」
「……左之?」
 水鏡のなかの左之助の黒々と鋭い眼が剣心を射抜いた。見知ったはずの黒曜石の双眸が闇で塗りこめた洞窟のようだった。底知れぬ空漠に吸いこまれそうな錯覚を覚える。目が離せない。金縛りにでもあったように体の自由が利かない。ふたつの黒い洞窟はどんどん大きくなり、剣心をすっぽりとその内に閉じ篭めた。全身を包む視線が、肌にねっとりと絡みつく。妖しい感覚がぞくりと背を這い上がった。馬鹿な、と思ったとき、左之助が動いた。水中の自分に背後から腕が回り、首筋に唇が寄せられる。
「やめろ!」
 と叫ぼうとしたが、声が咽喉に絡まって出てこない。
 あれは鏡像だ幻だといくら自分に言い聞かせても、ちりちりと刺激される肌の感覚はぬぐいようもなく、剣心はただ呆然と鏡像のはずの己がそれに応えるように目を閉じてゆっくりと首を傾げるのを見つめていた。左之助の指が顎にかかり、横を向かせて口を吸う。男の口づけに応えて腕を絡める水中の自分は、相手にしなだれかかって恥じらいも忘れ無心に唇を貪っている。
 水鏡の中で左之助の手がひたひたと剣心の肌を這いまわっていた。合わせを割って入り込んだ手が衣の下で何をしているかは想像するまでもない。絡み合う舌の間から透明なものが糸を引いて口角を伝い落ちたと見えたとき、剣心は突然、鋭敏な部分を慰む指先をまざまざと自分の肌に感じた。
「ふ。」
 針で突かれたほどの鋭い刺激に眩暈にも似た快感が走り抜け、信じられない声が漏れた。
「ば、かな……。」
 ようやく絞り出した言葉も呪縛を破ってはくれない。泉の向こうではもうひとりの自分がはだけた胸を押し付けて左之助の肌に手を這わせ、潤んだ目を切なげに眇めて彼を見上げて何かをねだっている。恥ずかしさに全身が燃えた。だがまるで縛されたように目が離せない。
「あ…。」
 左之助が手の中で陶然となった顔を見せつけるようにねじ向けた。情欲も露わな濡れた唇に深く口付け、わざと舌をちろちろと動かしながらこちらに視線を流す。
―――だろ?
 細く笑った目がそう言っていた。
 その拍子に呪縛がとけ、はっと我に返った剣心は平手で力任せに水面を叩いた。
「や…めろっ!」
 張り詰めた水の膜が大きく波立つと、ふたつの人影が蝋燭の炎のように揺らめいて、そして消えた。だが揺れる水面に二人の姿が消えた後も、同心円を描く小波から目が離せなかった。両腕できつく身体を抱いても痙攣がおさらまない。乱れた息を整えながら水面を睨めつける。
 何が言いたいのだ。彼に深入りするのを恐れていると言うのか?
 馬鹿な。今さら逃げ出したところでどうにもなりはしない。そんなことは判っている。心ならとうに奪われた。肉など問題ではない。ただ俺がそんなことにかかかずらっていてはいけないだけだ。ぬるく満たされた日常は自分に相応しくない。
 罵り。怒り。蔑み。そしてほんの少しの食い物と、見知らぬ人の束の間の笑顔。
 それで充分だった。自分はあんなところに留まることの許される人間ではない。ましてや人並みに肌のぬくもりにくるまれてのうのうと快楽を貪っていていいわけがない。今さらそんなものを見せつけて、何を言わせたいというのだ。
「くっ……。」
 剣心の食いしばった歯がギギと音を立てたとき、最後のひと波が去って元の輝きを取り戻した泉に再び茫洋とした人影が現れた。逆立つ黒い髪に赤い鉢巻のその姿は、判然するのを待つまでもなく左之助以外ではあり得ない。またか、と眉をしかめて背を向けた直後、奇妙な違和感を覚えて振り返った。さっきとは何かがちがう。
 でも何が?
「剣心! 剣心なのか?!」
 水の向こうで叫ぶ左之助を見つめる。汗と泥に汚れた逞しい顔に激しい驚愕の表情を浮かべてこちらに乗り出している。痛々しく包帯を巻いたむき出しの肩の背後には、鬱蒼とした深い森が広がっていた。
 驚きがおさまり少し落ち着きを取り戻したらしい左之助が、何やら呆れたような顔をして呟いた。
「おいおい、さっきから一体全体何がどうなってるってんだ。今日はえらい大盤振る舞いだな。」
「なに?」
「いんや、なんでもない。んなことよりてめえ! このばかやろう!! なんで独りで行っちまいやがった! 畜生、一発ぶん殴ってやらざ気が済まねえ。すぐ追いついてやっから覚悟してろ!」
 またかとは思いつつ、何故かまたも真面目に答えてしまう。
「だから、これは俺の闘いだから、もうこれ以上お前たちを巻き込むつもりはなかったから、だから一人で来た。俺のせいで皆を危険にさらしたくなかったからだ。だから左之、来るな。」
 言いつつもう一度思い返す。間違いない。さっきは後ろに森などなかった。左之助もこんなに泥まみれではなかった。ただ言っていることだけが同じだった。
「だからよ、要するに俺が弱いからダメなんだろ? 強くなりゃいいんだろ?」
「左之?」
「お前が心配する必要がないくらい、俺が強くなりゃいいんだろ?」
「ちがう。だからそういう問題ではないとさっきも言ったろう。俺は……!」
 同じことを言ってはいる。だがやはり何かがちがう。ひっかかりを覚えながらも言い募りかけたが、これではまた堂々巡りだと思い直し、今度はもっとはっきり言ってみることにした。
「人の生命に軽重も大小もない。どんな理由があっても、どんな生命でも、だれかに無理矢理奪われるべきではない。なのに今の俺はお前たちだけを大事にしてしまう。そのためにいとも簡単に人の生命を奪ってしまいそうになる。そんな自分が許せない。それだけなんだ。」
 あんな妖しいものを見せられたにもかかわらず、やはり水面の相手との会話は現実味に乏しく独り言のようで不思議と素直になれた。考えまいとしていたことさえ、やすやすと口にできる。なるほど、自分の心を映す泉だと言うのもあながち嘘ではないのかもしれない。
 水の幕の向こうで、左之助が大きく溜め息をついた。
「判った。そこまで言うなら好きにすりゃいいさ。だが俺は俺で好きにさせてもらう。」
「左之!」
「いいか剣心。俺はお前ほどお人好しでも流浪人でもねエ。自分の大事なものを守りたいだけだ。他がどうなろうと知ったことかよ。」
「左……。」
「剣心。お前、人を殺すのがそんなに怖いか。抜刀斎に戻るのが、そんなにいやか。」
 左之助の瞳は獣を思わせる獰猛な光を宿して、はぐらかすことを許さなかった。黒く熱い宝石を見つめながら、小さく頷く。
「死ぬよりもか。」
 剣心はもう一度、ゆっくりと固く顎を引いた。殺すよりは殺される方がまだいい。ただ後に残す危険を思えばうっかり死ぬわけにはいかないだけだ。
 左之助が唇を引き結んで幾度か首肯した。その顔は数日前より随分大人びて見えた。すっきりと通った鼻筋と意志の宿った強い瞳は変わらないが、頬のあたりはやや硬さを増し、眉の翳りが濃くなった。その硬さと翳りの原因が何にあるかは言うまでもない。剣心が内心に頭を垂れたとき、まるでそれが見えたかのように左之助がおもむろに口を開いた。
「なら、そんときゃ俺がやってやるさ。」
「左之?」
「お前が誰かを殺す前に、俺がお前を殺してやるって言ってんだ。」
 剣心の身体が弾かれたようにぴくんと跳ねた。科白の物騒さとは裏腹に左之助の表情はいたって静かで、激情やはずみから出た言葉ではなさそうに見えた。
 だが。
「言うなよ。今の俺では無理だってことくらい知ってら。けど明日の俺にはできる。」
「左之……。」
 いつもは口達者な剣心が、他に言葉を知らない子どものようにただ相手の名を繰り返すしかなかった。
「覚えとけよ、剣心。この次お前に会うとき、そんときゃ俺はお前を殺せる男だ。この生命を懸けて、俺はその力を手に入れてみせる。」
 ひとの生死に敏感な流浪人は、生命を懸けてという言葉に過敏に反応した。
「おい! 何をするつもりか知らぬが馬鹿な真似はよせ!」
「聞こえねェ。」
「馬鹿、そんなことに生命を懸けるなどと……!」
「悪ィがもう遅い。それとな、それ、ちょっと違うぜ。」
「左之?」
「馬鹿は馬鹿かもしれねえが、でもな、“そんなこと”さえ出来ないなら、生きてたって意味ねえんだよ。」
「左……。」
「命も懸けねぇで手に入るような力なら要らない。」
 剣心ははっと息をのんだ。左之助が顔前に掲げた自分の拳に左の手を添え、震える声で囁く。祈りか呪詛か、あるいは誓いか。彼の声は低く小さかった。
「俺が欲しいのは、お前を殺せるだけの力。抜刀斎おまえを確実に抑えられころせる圧倒的な力。それを手に入れようってんだ。命くらい懸けねえでどうするよ。」
 口許に浮かんだ笑みと左之助らしい直な想いが、剣心の身体にぞっとするほど切なかった。だが、自分はそれに値する存在ではない。決してない。
「馬鹿な。どうして……。」
「それが判らねえお前じゃあるめエ。」
「さの……。」
「いいからお前ぇは志々雄退治に専念しろや。」
 これは俺が自分で決めたことだ。お前に口出しされる筋合いはない。鋼の強さを秘めた瞳が、そう言っていた。
「左之! ならば死ぬな!」
 何か思い決したような剣心の鋭い声に、左之助の視線が面食らったように揺れた。その声音に、言葉に、彼が何を読み取ったのかは判らない。だが、剣心がさらに何かを言い募ろうと口を開きかけたそのとき、ふいに突風が顔面を叩き、樹々の梢を騒がせた。咄嗟に両手で眼を庇う。はっと気づいて泉を見れば、先刻から風などには揺らぎもしなかった水鏡が、今は風に壊されて鱗を生じていた。
 風が吹き過ぎ水面が静まるのを待ったが、もうそこには覗き込む己以外のものは映らない。
 幻覚にしては生々しすぎ、夢にしては鮮やかすぎた。
 二人の左之助の言葉は、一体だれの心の内にある想いだったのだろう。
 今となっては、剣心自身にも自分が最後に何を言おうとしていたのかは判らなかった。
 だがもしかして、と思う。
 本当に追って来ているかもしれない。自分が本当は心の底で望んでいた通りに。弱いとは言わないが、全然及びもしないくせに俺を殺してやるなどと大言を吐く大馬鹿野郎。もしかして、本当に命懸けの修業をしているかもしれない。そして本当に次に会うときには俺を殺せるほどの男になっているかもしれない。あの男なら――。
 剣心は、放心した面持ちで泉の傍らに佇んだ。きっともう何も映らない。そう直感しつつも足は動かなかった。


 あのとき泉に映った幻が自分の迷いが見せたものだったのか、あるいは本当に安慈の元で二重の極みを修行中の左之助と場所を隔てて通じたのかは今も判らないままだ。
 そんときゃ俺がお前を殺してやる。
 同じ言葉を二度聞いた。二度とも何も答えられなかった。今ならどう応えるだろう。何度も考えてみたが、それは剣心にも判らない。
 判らないが、ただどうしようもなく顔が見たかった。幻覚でも偽者でも、彼の望む答えを答えられなくてもかまわない。
 狂おしさに足をもつらせ、息を乱し、寒々しい雁の声に急き立てられるように、深い絶望とかすかな希望の狭間の細い一本道を行く。飛び立つ心に追いすがって泉を目指す。
 だが、行けども行けども泉は姿を現わさない。畳二帖になるかならぬかの小さな泉だ。目印となるような目立つ木や岩もなかった。さては山だてを誤ったかと行きつ戻りつして、小一時間も捜し回っただろうか。確かにここと思っては裏切られ、それを繰り返すうちに、記憶していた山の姿、木々の様相さえ次第に覚束なくなってきた。
 捜しあぐねたうえに刻々とたそがれる気配に気も急き、地元の人間に案内を乞おうと、一旦宿場へ戻ってみた。
 ところが町で訊ねてみると、誰もそんな泉の話は聞いたことがないと首をかしげるばかり。そんなはずがあるものか、確かにあのとき話も聞いたし、泉もあった、と、らしくもなく荒い声で言い返しても、相手は心許なく訝しがるばかりで問答にもならない。
 剣心は急にまるで何もかもが夢幻ゆめまぼろしであったかのような不安に襲われた。そして、その不安を逃れるように再び林のなかに取って返した。だがやはり何度捜しても、泉はおろか水たまりのひとつも見当たらない。
 いつの間にか、日もすっかり暮れた。剣心はその場に立ちすくみ、死んだ林をぐるりと見回した。耳を澄ませるように首を傾けて空を仰ぐ。
「さの? 聴こえたら返事をしてくれ。さの、さの……。」
 夜が小さな呼び声を吸い込んだ。
 凍った風がびょうと吹きつけ、煽られた砂に眼を瞑る。瞼の裏に墨が流れ、冥い渦が剣心を飲み込んだ。



WINTER COMES AROUND (冬の一日)
TM NETWORK
より抜粋



了/2003.12.21、2004.10.14
参加イベント/WINTER SONG
拍手










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