じょうずなワニのつかまえ方朝食が済み、薫と弥彦が稽古を始めた直後だった。 「どうした左之。何があった」 枝折戸にふらりと姿を見せた左之助は、二日ほど見ないうちに、何に取り憑かれたかと思う程くたびれた外見になっていた。 ふらりというよりも、ゆらりに近い。 着たきり雀の無頓着はいつもと変わらないはずだったが、髭が不精に伸び、目の周りには濁った隈、そして肌につやと張りが失せているせいで、いつもの半纏さえひどく萎びて見えた。 人間のこういう状態を一般に憔悴と言う。 この男には不似合いなはずの言葉だが、今はそれしかないというほど似つかわしい。 「左之」 声に、つい糾す調子が混じった。 「別に、やましいこっちゃねえ。傘貼りを手伝ってただけだ」 同じ長屋の住人が請け負った期日に間に合わず難儀しているのを手伝ったという。 身内には面倒見のいい左之助のことだ。そう聞けば、 「そうか」 と腑に落ちた。 「なんぞ食うか」 朝の残りがなくはない、と、言いかけて、止めた。 縁側に仰のけざまに寝転んだ左之助が、軽い寝息を立て始めていたからだ。 普段はお前は何様かと質したくなるほど偉そうでふてぶてしい若造だが、そうして殊勝に寝ているとなかなかあどけない。ただ、そのあどけなさが、おぼこい子どものようというよりは、むしろ子犬か子猿か、ともあれ何か動物じみたあどけなさで可笑しい。 見ていると、少々かまってやりたくなった。 「ああ、動くな。そのまま、そのまま」 「……んん?」 左手の指のごく先で触れただけだったが、左之助の眉が寄った。煩わしげに顔を背けるのにひやりとして、右手の剃刀を慌てて浮かせた。 「こら、動くなというのに。あたってやろう。かまわん、寝ておれ」 寝ていろと言ったのに、言った途端、ぱかりと目が開いた。 無表情なうえにやけにくっきりと見開いていて、寝惚けているのやら、覚めているのやら、かえって判別がつかない。やつれてもそれだけは変わらない濡れ羽色の双眸が、眼前の剃刀を注視し、やがて視線が合う。 うん、と、うなずいて見せたが、意図は通じなかったらしい。 「…………へ?」 無表情のまま、ずり上がるように身じろいだ。その拍子に、首元に掛けてあった手拭いが落ちる。それをまた赤子のよだれかけのように掛け直してやって、髭の伸びた顎を撫でた。 「まるで文覚上人だ。さ」 「あ……う?」 「すぐ済む。寝ておればよい」 安心させるように笑ってみせると、それでようやくゆっくりと瞼が閉まった。 が、その直後、ごっくんと大きな音を立てて咽喉仏が動き、押し殺したような細い呼吸が始まる。 見るからに緊張しているせいで、伸びやかなはずの大の字が、はりつけにされた蛙のように見える。 相楽左之助ともあろう者が、一体何をそうも怖じているのやら。 忍び笑いつつ、ざらつく顎に再度指先をのせると、触れた瞬間、大きな身体がぴくりと痙攣して、呼吸が止まった。 興味深い。 水をふり直してそっと頬に刃を当て、ゆっくり引く。まつ毛がごく微かに震えた。刈り取られる髭と連動しているようだった。 じっ。 濁った音とともに、髭は肌から切り離され、黒い粒々になって、落ちていく。 中のいくらかは縋るように刃に留まるが、それも次の「じっ」までの間でしかない。 刃を浮かせた後になって、詰めていた息はようやく吐かれたが、いかにも恐る恐るといった、はばかる息づかいに、思わず同じように息をひそめそうになる。 じっ、じっ。 忍耐強く、かつ非情な音だった。 剃刀は黙々と、だが容赦なく、仕事を続ける。 じっ、じっ、じっ。 左之助は人形のように硬直したまま、細い呼吸を繰り返す。 じっ、じっ、じっ。 吸って。止めて。吐いて。 じじっ、じじじじっ、じっ。 吸って。止めて。吐いて。 その合間に時々ぴくんと痙攣したり、まつ毛や鼻の穴や口唇の端が震えたりもする。 わざと間をおき、緩急をつけてみると、これがまたおもしろいほど素直に反応する。 じじじっ。 じじっ、じじじじっ、じっ。 そんなことを何度か繰り返して、片頬と鼻の下の雑草がなくなる頃には、鉢巻の端が染みた汗で濃く変色していた。 調子に乗って遊んでいたが、笑いをこらえるにも限界がある。 「こら左之! もそっと力を抜け。そう気張られてはこっちが手が狂う」 ついに根負けして、笑って鼻をつまんだ。 左之助はふいごのような音声を発してびくんと跳ね上がり、それから長い手足をこんにゃくのように投げ出した。 「うっへえーーー」 四肢同様に脱力した声は、あの世から生還した者を連想させる。 「おもしろすぎて咽喉を掻っ切りそうでござった」 「真面目な顔で言うな。てめえが言うと洒落に聞こえねえ」 「洒落?」 自慢ではないが、洒落を解さないことにかけては自信がある。 「………あ、後は自分でやるからいい」 「まあそう言わず」 「いいってばよ」 そんなぺかぺかの剃刀握ったお前に咽喉さらして寝てられっか、と、それこそ真面目な顔で言う。心外だ。 「遠慮は無用」 「怒んなよ。こええって」 「相楽左之助。そこへ直れ」 「………まな板の鯉たあ、よく言ったもんだぜ」 観念したような、開き直ったような、いずれにせよ、よく晴れた空に似た口調だった。 再び大の字になった長身に屈み込み、続きにかかる。 だが、馴れたのか肚をくくったのか、さっきほどに愉快な反応が返ってこない。息は相変わらず細いが、静かで、よどみない。口唇は泰然として、瞼は堅牢な門扉のように閉ざされている。剃られた髭は、訓練の行き届いた僧兵のように、黙々と、潔く、離れていく。 暮れ時の辻にひとり取り残されたような気分になった。 大体、まな板の鯉などと、それこそよく言う。 人に組み敷かれるときの人間がどれだけ無用心を強いられるか判っているのか。あれこそ、これ以上ないほどまな板の鯉ではないか。それを、たかが剃刀ごときで何を愚駄愚駄と。 手を休めると、左之助の目が開いた。 「なに拗ねてやがる」 「拗ねてなど」 おらぬ、と言った頬を、左之助の指が突付く。口がつんと尖って、 「拗ねてなどおらぬ」 意地っぱりな子どもの顔で真似た。 他の人間がすれば小憎らしいだけのそんな振る舞いも、この男には許されるらしい。人徳というほどご大層なものでもないが、だがまあ似たようなものなのだろうか。 苦笑して、手拭いに散った髭の残骸をつまんだ。 「お前によく似ておる」 「どこが、どう」 「ふてぶてしい。偉そう。何様俺様文句あるか」 すると左之助は、なにが嬉しいのか、やけに楽しそうに笑いながら、手を伸ばしてきた。顎先をつまんだ親指で、くるくると円を描いて言う。 「今度おれにもやらせろ」 「なにを」 「剃ってやる」 「拙者は髭はあまり」 「いいから」 だから何がそんなに楽しいのだ。 「……好きにしろ」 うるさいので、椀の水に手先を浸して、必要以上に散らしてやった。 わっ、と大袈裟に驚くのにかまわず、少し残った髭に剃刀を当てる。 すると、大人しくなった左之助が、目を瞑ったまま、片頬を笑いの形に歪ませた。 「おう。見惚れてんなよ」 余計なところばかり鋭いのが可愛くない。 腹いせに、すっと刃を横に引いて赤い筋をつくり、舐め取った。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 【ワニをつかまえる方法】 どんなに小さくてもワニはワニ。かみつくことがありますから用心してください。 ・・・(中略)・・・ 大人のワニをとり押さえるには、上あごと下あごをしっかりと閉じ、引けばきつく締まるような ロープの輪を鼻の上にかけます。胴体としっぽもロープで縛らなければなりません。 もちろん、これにはおおぜいの人の応援が必要です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 出典:主婦の友社 『じょうずなワニのつかまえ方』 ダイヤグラムグループ 了/2005.12.25 ![]() |
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