瀬をはやみ「今度は他人事じゃねえ……ってか。」 つい口をついて出た呟きに苦笑が漏れた。 秋は空が高い。 草叢に寝っころがって見上げていると、吸い上げられるような、あるいは圧し潰されそうな感覚に襲われて、頭がくらくらしてきた。 大体俺は考えごとには向かねえんだよな。 だがまあ今回ばかりはそうも言ってはいられまい。 さすがにそれくらいは承知していて、そのせいか、この数日めっきり独り言が多くなっている。 「さて、と。どうしたもんかねえ。」 思った矢先、思考はまた言葉になって飛び出していた。 蒼紫と操、そして恵が、それぞれの故郷へと出発した日――。 俺は自分がおたずね者になったことを知った。お上だろうが警察だろうが、所詮相手は明治政府。畏れ多いとも怖いとも、毛ほども思いはしねぇが、それでもやっぱり自分の手配書を見るってのは、あんまり気分のいいもんじゃない。 とりあえず急場をしのいで逃げ出した。 そしてそのまま潜んではみたものの、さて、ここからが正念場だ。 それにしても、それが奇しくも恵の出発の日だったとは。そして手配のきっかけとなったのが、よりにもよってあのブタまんじゅうの件だったとは。 これもまた奇縁ってやつか。 少なからぬ感慨を抱きつつ、あの春の日に思いを馳せる。 空はどこまでも青く、雲ひとつない。 そういえば、あの日の空もこんなだった。 たしか、まだ堅い桜のつぼみが、木々をほのかに彩っていた――。 * “ま、たまにはこういうのもよかろうて。”観柳邸の闘いの日以来、何度も何度も、ことあるごとにこだまのように甦る声。 耳障りでたまらなかった。 「やっぱりよくねえ……ってことだよな。」 「おろ。何がよくないのでござる?」 小さな呟きだったはずだが、奴はちゃっかり聞き咎めた。いや、もしかしたらいっそ聞かせてしまえと心のどこかで思っていたのかもしれない。こいつ相手に洗濯の水音など何の遮蔽にもなるわけがないのだから。 逡巡したのは一瞬。肚を決め、大きくひとつ息を吸って正面向いた。 「剣心。黙って一発殴らせろや。」 「………。」 怪訝そうな顔は、俺の剣呑な気に触発されて、見る間に冴え冴えと冷えわたる。 きた――。 あの眼だ。身体の芯がぞっとする、重い眼光。奴の手に残ったままの洗濯物が、奇妙に現実離れして見えた。 「理由を言いたそうな顔だな。」 凄いほどの静かな声。 こういうときのこいつは容赦がない。きっちりと、いちばん癇に障る言い方をしてくれる。 だが、正直、嫌いじゃない。少なくとも本気から出た言葉だと思えるだけ、どこまで本音だかわからないおためごかしよりはよっぽどマシってもんだ。 「“たまには”たあ、また安い言いぐさだったな。それで俺が納得すると、まさか本気で思ってるわけじゃあるめえ。」 こいつのことだ。どうせ予測はついてたんだろう。さあ、どう出る? 相も変わらず表情の脱落した顔。思惑の読めない沈黙。 「恵殿の件が気に入らぬか。拙者が署長殿に頼んで無理を通したのが。」 「……あいつがどうこうってんじゃねえ!」 腹立たしくも、つい声が荒くなった。それほど絶妙の間で、奴は切り返してきた。こうなりゃ開き直るしかない。 「俺だって是が非でもあいつを助けるつもりだった。それにクソ政府の決めた掟なんか破ろうがねじ曲げようが屁とも思わねえ。ただ、この俺が、てめえを、許せねえだけなんだよっ!」 体重ののった渾身の一撃。だが当然のようにかわされる。 ひらりと飛び退った奴は、案の定、口で反撃してきやがった。 「ではお主に何ができた。よしんばあのときお主が言うたように、力でその場を逃れ得たとしても、警察の網から逃げおおせられると思うか。そして捕まれば死罪……。」 「そんなこたわかってらあ。だがな。理屈で判ってても勘弁ならねえことってのがあるだろうが!」 判らないはずがない。お前だってそういう気持ちに衝き動かされて維新の波に飛び込んだんじゃなかったのか。流浪人をやってんじゃねえのか。 俺にとってこれは、これだけは、命に代えても譲っちゃならねえ問題だ。たとえお前が相手でもこれだけは譲れねえ。いや、お前だからこそ……。 「……それじゃあ腐った維新志士どもと同じ、権力の犬に成り下がっちまわぁ。」 沈黙が落ちた。地面には朝の光がのどかに踊っている。塀の向こうで子どものはしゃぐ声が聞こえる。ばさばさ……と、鳥の羽音が響いたとき、眉ひとつ動かさず話していた奴の目がすっと細まった。 「くだらんな。」 「なに?」 耳を疑った。くだらない? 俺にとっては命がけの信念を、よりにもよってくだらないだと? 力いっぱい握り締めた拳のなかで、爪が掌に食い込んでいくのがわかる。それでも体の震えはとまらない。そんな俺を、奴はあの熱いほど冷たい眼で射抜いた。 「安っぽい正義感だと言ったのさ。犬で結構、腐った維新志士で結構。必要なら俺は人斬りにだって戻る。」 「・・・・・・。」 さすがに言葉を失った。二度と人は斬らない。不殺(ころさず)の逆刃刀。それがお前の信念なんじゃねえのか。お前にとって信念ってのはそんなに簡単に捨てられるものなのか。 こんな顔は、幾度か見た。だがいつもはその氷の顔の下に熱い何かがあったのに。 これは誰だ。何を言ってる。俺は何をどう言えばいい? 口のなかがカラカラで、舌が動かなかった。手足が凍ったように冷たい。 「死んだ命は帰らぬ。死ねばすべて終わりだ。」 そうさ。知ってるさ、そんなこと。どんなに願おうが努力しようが、実力(ちから)がなけりゃなにひとつ叶わねえってことも、てめえ一人で血へど吐くほど力振り絞ったってどうにもならねえことがあるってことも。だが。 「だが、だからこそだろ剣心。だから俺は悔しいんじゃねえか。結局なにもできなかった。最後の最後で……お前…に頼るしか、なかった…ことが……。」 “抜刀斎”としての剣心に。 濁した言葉が口に苦く残った。言いよどんだ沈黙は、残酷な一言を暴いてしまったにちがいない。ちがう。傷つけたいわけじゃないのに。 「それで恵殿の命を助けられるのなら、な。それをお前がどう思おうとお前の勝手。軽蔑したければするがいいさ。」 「わ……からねぇ。剣心。なんで……。」 「判らずともよかろう。」 そう言い置いて、そのまま振り返りもせず、奴は奴の日常へと戻っていった。 何もなかったかのように、洗濯物の続きにとりかかるその背が、ひどく遠くに見えた。 * あのときの俺に、それ以上なにが言えただろう。自分の感情に手一杯で、剣心の顔さえ見ていなかった俺に。彼の瞳の中に揺れていたはずの切ない光を、見ようともしなかった俺に。今ならわかる気がする。 あのとき奴がどれほど瀬戸際にいたか。奴の魂がどれほど痛々しい悲鳴をあげていたか。そして、奴が何を言おうとしていたのか。 もう誰一人目の前で死なせない。 そのための不殺。そのための逆刃刀。そのための流浪人。 だからこそ、勝ち負けよりも誇りよりも信念よりも、守らなければならないものがある。 俺はなんて馬鹿だったんだ。なんて酷いことを言っちまったんだ。 ――それじゃ腐った維新志士どもと同じ、権力の犬に成り下がっちまわぁ。 俺などに言われるまでもなく、奴こそそんな自分をどれほどか嫌悪していただろうに。否応なく背負わざるをえない「抜刀斎」の権力(ちから)を、人斬りの剣以上に強く厭っていただろうに。 あのとき奴はどんな顔をしていたんだろう。 そして俺は一体どんな顔をして、あの無邪気で残酷な言葉を口にしたのだろう。 閉じた瞼に映る奴は、やっぱり後ろを向いていて顔が見えない。 守って闘う。守りぬく。 奴が闘う意味は、ずっと変わらずそれだけだった。 崖っ淵を歩っつくような生き方してやがるくせに、なんだかんだ言ってやっぱりあいつには敵わねえ。しかも今の奴に迷いはない。瀬戸際の危うさが薄れてきたのも気のせいではないだろう。 そのことを、奴のために心底掛け値なしに嬉しく思っている俺がいる一方で、奴を独り占めできなくなることに淋しさを感じている俺もまた、同時に俺のなかにある。 「俺あまだまだだなあ。」 ぼそりと呟き、瞑っていた目を開けると、青い世界にひと筋の雲が駆けていた。 こんなことじゃ駄目だ。 お前を幸せにすると、お前を超える強くてでかい男になって、俺がお前を守ってみせると決めたのに。ブタまんじゅうの屋敷で刃衛と闘り合った、あの夜更けの帰り途で、そう自分に誓ったのに。 「ちっ。最初と最後がブタまんじゅうかよ。」 言葉と共に、苦い笑いが口の端を歪めた。 守る守ると言いながら、俺は奴を追い詰めてばかりいる。思ったことを全部ぶつけちまう。そうして惑わせて、困らせて、泣かせてばかり。 とんだ馬鹿野郎もあったもんだ。 「……馬鹿につける薬はねえ、か。」 ならいっそ、世界一の超大馬鹿野郎になってみるのも悪くない。日本一だの亜細亜一だの、それじゃあ何にも使えまいが、馬鹿も世界一までいきゃあ、何かの役には立つだろう。 第一、世界一の馬鹿が相手なら、いくら奴が苦労性だっつったって、ウダウダ考えたりせずにすむかもしれねえ。 そんな男になってみるのも悪くない。 「ちっと行ってくるとすっか。」 剣心。 淋しくなったら俺を思い出せ。 お前が俺のことを考えるときは、必ず俺もお前を想っているから。 俺はお前を幸せにする。それが俺の、勝ち負けよりも誇りよりも信念よりも、何よりも大切なただひとつの真実だから。 そして俺は絶対お前のところに帰ってくるから。それまで――。 心地好く乾いた風が、雲を走らせ、草叢と髪に戯れる。 さらさらと、砂が流れるような音を聞きながら、予感がひたひたと満ちつつあるのを感じていた。 了/2003.05 |
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