秘密の森



 僕が五歳になった次の日、うちの隣にとてもきれいな人がやってきた。
 その人はサノが日本から連れてきた人だった。

 サノは日本人だけど、いろいろあって国を出たらしい。と言っても、僕らみたいな「移民」とはちがう。世界中を旅する「放浪者」なんだって父さんは言ってた。
 だけど、うちの父さんがまだ子どもだった昔、サノはちょっとだけこの島に住んでたことがあって、そのときからサノは「村の恩人」なんだそうだ。だから、それからしばらくしてサノは島を出ていっちゃったけど、ときどきこの村に「帰って」来るのを、みんなはとても楽しみにしていた。
 とくにうちの父さんはサノと仲が良かったから、サノが島に来たら一日はうちに泊まってくのがいつものことだったんだって。
 僕も一回だけ憶えてる。
 そのとき僕は三歳だった。小さかったからよくは憶えていないけれど、そのときサノがくれた日本の玩具は今も大事にしている。
 あのときはまだこの島には王様がいた。
 サノが行ってしばらくしてから王様がいなくなって、かわりに白人が来た。
 それからまたしばらくして、今度はあの人が来た。
 その人の名はケンといった。
 最初にサノがケンを連れてきたときは、みんながびっくりした。
 だって今どき着物を着る男の人なんてよっぽど年寄りの爺ちゃんたちくらいで、しかもお正月や何かの特別な日に黒い着物を着るくらいなのに、ケンは変な赤っぽい色の着物を着て、しかも重そうな日本刀を提げていたんだから。それに髪だって白人みたいに朱かったから余計に妙だった。
 ちょっと変な人だとは思ったけど、みんなサノが好きだったので、ケンのことも歓迎することにしたらしい。
 でも、みんなはすぐにケンを本当に大好きになった。
 ケンはみんなにやさしかったし、子どもとよく遊んでくれた。手先が器用で、いろんな道具を作ってくれたりもした。
 それに、ケンは男の人なのに料理がとても上手かったんだ。それもちゃんとした日本の料理の味だったから、爺ちゃんや婆ちゃんたちは懐かしい懐かしいと言って喜んだ。日本とは食べ物がちがうのにどうすればそんな味にできるのかと、何人かの女の人がケンのところにつくり方を教えてもらいに行くようにもなった。
 そして何よりケンはとてもきれいだったんだ。みんなきれいなケンを見ているのが嬉しくて、とくにやさしく笑った顔がいちばんきれいだと言ってはケンの噂をしていた。

 でも僕は知ってる。
 ケンが本当にきれいなのはそんな風に笑ってるときじゃない。
 あの人には、もっときれいな顔がある。
 僕だけが知っている。

 そう、あれは雪解けの水で川があふれる何日か前のことだった。
 その日、僕は川を遡って森の奥へ入って行った。
 ふだん、子どもひとりでそんなところへは行かない。行っちゃいけないときつく言いつけられている。道に迷ったら大変だし、どんな獣に会うかもしれないからだ。でも学校のことで父さんにこっぴどく怒られて家を飛び出した僕は、父さんに仕返しをしてやろうと思った。そして、いつもしちゃいけないと言われてることをして、父さんを困らせてやろうと思いついた。
 この季節はとくにいけないと言われていた。でも危ないとも怖いとも思わなかった。父さんを困らせることさえできれば、そんなことはどうだってよかったんだ。
 ずんずん歩いていた僕は、生い茂った草の鋭い葉に腕を切られたとき、いつのまにかかなり上流まで来ていたことに気付いてちょっと心細くなった。後ろを見ても村はもう見えないし、もちろん人の声だって聞こえない。気がつくと森もだいぶ深くなってて、足元も歩きにくかった。
 そのとき、すごく近くで何かがガサガサと音を立てた。僕はびっくりして飛びあがった。音の正体は小さなウサギだったけれど、僕の心臓はしばらくドキドキがおさまらなかった。
 なんでこんなところに来ようなんて思ったんだ? もう帰ろう。そう思って振り返って、僕は動けなくなった。二十歩も離れていないところに、黒い大きな熊がいたんだ。口からヨダレを垂らしてグルグル唸ってる。僕の全身はカタカタと震えて、足なんか全然動かなかった。
 どうしようどうしようどうしよう。
 頭のなかが真っ赤になった。熊がメシリと一歩を踏み出して、僕は心のなかで父さんゴメン!と叫んだ。本当に身体が凍りついたみたいになってしまっていたから、目を閉じることもできなかった。大きくて凶々しい獣と、まるでにらめっこでもしてるみたいだった。言いつけを破るんじゃなかったと反省する余裕なんかなかったと思う。
 もうだめだ……。全身の力が抜けそうになった。
 でもそのとき、僕の目の前に、赤い風が吹いたんだ。
 何が起こったのか全然判らなかった。
 ただヒュウンと赤い風が吹きぬけて、え?と思った瞬間には、熊は仰向けに倒れていた。
 そしてその向こうに、いつどこから現れたのか、ケンが立っていたんだ。
 ケンの右手には日本刀が握られてキラキラと輝いていた。
 そしてケンの目もキラキラと紅く光っていた。
 そのときのケンは、それまで見た何よりも怖かったけど、でもそれまで見た誰よりも何よりもきれいだった。
 ケンは、もう一度起き上がってくるんじゃないかと熊に刀の先を向けて腰を落としていたけど、しばらくしてもう大丈夫だと思ったのか、刀をかちゃんと鞘に収めて、僕の方に近づいてきた。
「東吾、大丈夫でござるか? 怪我は?」
 もういつものケンだったと思う。
 でも僕はまだうまく喋ることができなかった。
 大丈夫。そう言おうと思った途端、膝の力が抜けてぺたんと座りこんでしまった。
「あれ?」
「ははは。腰が抜けたか。」
 ケンに笑われて僕はとても恥ずかしかったけど、ケンが「どれ。」と言って僕を抱き上げたときはもっと恥ずかしかった。もう大丈夫だから降ろして、と言おうと思ったとき、向こうからサノが走ってくるのが見えた。
「サノ!」
 僕の呼ぶ声にケンも振り返る。サノはそばまで来ると腕を広げてケンごと僕を抱きしめた。
「坊、無事でよかった。」
 サノの声が耳のすぐ近くで聞こえた。
 でも、ケンから僕を取り上げて腕に座らせてくれたかと思うと、サノはすぐに目をぐりぐり回して怒り始めた。
「……このバカ小僧! 今の時期は森へ入っちゃ危ねぇっていっつも言われてるだろうが! てめぇ獣に食われてぇのか!」
「左之、そんなに怒ってやるな。本人が一番反省しているさ。そうでござろう、東吾?」
 必死で頷く僕にサノは、
「まあでもほんとに無事でよかったぜ。……おっとそれから、坊、このことは内緒だぜ。」
 と、ケンの刀を指して言った。
 村のみんなのあいだでは、ケンの刀はほんとの刀じゃなくて木の刀だということになってる。ケンが最初に来たとき、日本刀なんか物騒だと騒ぐみんなを、「ほれ、この通り竹光にござる。」と取り出して見せて納得させたんだ。じゃああれは偽物だったんだ。もちろん、今さらケンに村を出て行けという人はいないだろうけど、ウソをついたとなると口うるさいみんなが何を言い出すか判らない。僕はもう一度、今度は一回だけしっかりと頷いた。
 サノは僕に「男の約束だぞ。」と言って歯をむき出して笑ってみせ、それからケンの方を見て「おめぇは大丈夫か?」と訊いた。
 僕はサノのそんな声を聞いたことがなかったから、ちょっと驚いた。
 その声はとても静かで優しくて、そしてほんのちょっと悲しそうだった。
「ああ。さすがに昔のようには身体が利かぬが、まあ熊の一、二匹なら……。」
 熊の一、二匹なら? 普通は一匹だってムリだよ、と思ったけど、口に出して言うのはやめた。ケンがほんの少しだけど息を切らしているのに気づいたからだ。よく見ると頬っぺたもちょっと赤い。サノも心配そうだった。
「ほんに平気か?」
 サノはあいてる方の手をケンの額にそっと当てた。
「ああ。さほど早くも動いておらぬしな。」
 そう言って、ケンはサノに笑った。
 それは、みんながいちばんきれいだと言ういつものやさしい笑い方とは全然ちがう笑顔だった。
 もっと静かで優しくて、そしてやっぱりほんのちょっとだけ悲しそうだった。
 僕はサノの腕に抱えられていたから、それはまるでケンが僕に向かって笑ったような感じだった。
 僕は何か悪いことをしたような気持ちがした。見ちゃいけないものを見てしまったような。ひとの秘密の宝物をこっそり盗み見てしまったような。そんな気がして、顔が熱くなった。
 心臓がどきどきしているのがサノに知れやしないかと思って余計にどきどきした。
 サノの服を握り締めた自分の手を見つめながら、このことは絶対だれにも言わない、と、僕は決めた。
 死ぬまで言わない。
 死んでも言わない。
 だって僕は気づいてしまったんだ。
 サノはケンが誰より大事で、ケンはサノが誰より大事で、だから二人はたった二人で故郷の日本を離れて、海を越えて遠い遠いこの島までやって来たんだってことに。
 僕はだれにも言わない。
 だってそれは二人の秘密なんだ。
 きっと二人だけの秘密にしておかないといけないことなんだ。
 理由なんか判らなかったけれど、とにかく、そのとき僕はそう思った。


 あれから何年も経って、サノもケンももういない。
 三人の秘密だったあの日の出来事も、今では僕ひとりの秘密になってしまった。
 でも僕はときどき思い出す。
 もうだめだと思った瞬間、僕の目の前を吹きぬけた赤い風を。
 抜き身の日本刀を構えたケンの紅い目を。
 二人が交わした密やかな視線を。
 そして思う。
 彼らはいまどこにいるのだろう。
 なにをしているのだろう。
 元気でいるだろうか。
 やっぱり一緒にいるだろうか。
 いまも二人で、笑っているだろうか――と。


 死ぬまで言わない。
 死んでも言わない。
 でも僕は忘れない。
 僕だけが知っている、僕の大切な二人の思い出。




了/2003.07.23
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