彼の未明「刃衛エェェ!」 耳を貫いた怒声の烈しさに、左之助の身体がびくりと撥ねた。 こんなに怒った剣心を、初めて見る。いや、正確に言うと、こんな怒り方をする剣心を、だ。 怒りに熱くなる奴ではないと思っていた。最強と謳われた自らの剣技と技量に、氷のような自信をもってはいる。だが、にもかかわらず、強さに対する自負や誇りを片鱗も感じさせない冷めた目で闘う。 むしろ冷静すぎる――と、一度は相対した者として、左之助は奇妙な違和感を感じていた。 それがどうだ。 まるで仔どもを奪われた母狼みたいじゃねぇか。 呆気にとられて、刹那、手首を刺された痛みを忘れた。 そして一瞬後に激痛が戻ってきたとき、突然その符合に気づいた。 ―――俺か。 耳元で心臓がどくんと脈打ち、全身の血が沸騰した。ぐわんぐゎんと耳鳴りがする。 俺がやられたからだ・・・・・・。 「刃衛ェェェ!」 再び響いた、地をえぐるような雄叫び。 その声に呼吸を奪われた。心臓をわしづかみにされたようで、息ができない。何かが喉からせりあがってくる。 「……!」 爆発しそうな熱い塊を強引に吐き出して、ようやく荒い息をついた。 「くっそ・・・ぅ・・・。なんだってんだ、こん畜生!」 乱暴に言葉を絞り出しつつ、しかしその顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。 ―――なんで俺なんかのために! 俺は嬢ちゃんや弥彦のガキとは違う。 俺は、俺は強いんだ。お前には負けた。だが少なくともお前と闘えるだけの力はある。 誰かに心配してもらったり、ましてや庇ってもらう必要なんか、これっぽっちもない。 第一、ついこないだはお前が俺を滅多打ちにしたんだろうが。 あの後だって、飄々と当たり障りなくあしらって、そんな素振りすら見せなかったくせに。 なのにどうして。 どうしてこんなときにそんな風に俺を庇う。 なんで俺を・・・・・・守ろうとなんかするんだょ。 体内に吹き荒れる嵐を死に物狂いで抑えこんで、羅刹のごとき剣客の猛り狂う姿を見やった。 目が釘づけになった。緋い人影以外のものが視野から消えていく。周囲の物音が遠のいていく。 無言の芝居を見るかのような音のない世界で、剣心と刃衛は相変わらず激しく刀を切り結んでいた。 小さな体。 細い腕。 年下とも思える、小づくりな女顔。 刃衛と比べるまでもない。 まるで熊に飛びかかる猫のようだ。 なのに強い。 あの細い体のどこに、と思うほどの力と速さと気迫で、不気味な兵法の遣い手と渡り合っている。 しかも、今日はこれまでにも増して鬼気迫る。 ―――俺のために、か。 幼いときに家を離れ、親とも師とも仰いだ人はあっけなく殺された。 それ以来、ずっと独りで闘ってきた。 生きるために、自分を守るために、飢えと闘い、寒さと闘い、幸福な人々の罪なき悪意と闘い、しかし本当に闘いたい、いや闘って倒したい相手が何なのかもわからず、それでも闘ってきた。 同情なんかいらない。 憐れみなんか欲しくない。 優しい言葉で腹がふくれるか。 笑顔で命が贖えるのか。 人を突っぱねて生きる、それが強さだと信じてきた。 だが。 耳を貫く血を吐くような怒号が身体に沁みわたっていくのを、左之助はいま、痛いほどに感じていた。 「大丈夫でござるか? 左之。」 すぐ近くから聞こえた声にハッと我に返り、自分が血の滲むほどに唇をかみしめていたことに気づいた。 何かをこらえる表情は、痛みに耐えてのものだとでも思ったのだろう。剣心が、押さえた傷口をのぞきこんでいる。 「ああ。こんなの屁でもねェ。」 上の空で言葉を返し、頭ひとつ低いところにある顔を見つめた。 いつもの剣心だ。 一歩離れたところで、人当たりよく笑ったり、親身になって人を気遣ったりする、気のいい流浪人・・・・・・。 と、そのとき、紫水晶の瞳に揺れる何かが見えた気がして、はっとした。 垣間見た、見知らぬ剣心。 もう一度確かめようと食い入るように目を凝らしたが、先程の揺らぎはもう跡形もなく。 だが、決して気のせいではない。 どうして今まで気づかなかった? 俺は一体今までこいつの何を見ていた? 大きな瞳のなかで、抑えきれない感情があんなに狂おしく揺れていたのに。 傷への気遣いか、傍にいながら防げなかった自責の念か、いや、おそらくはその両方か。 俺のちっぽけな傷なんか比べようもないくらい、こいつの方こそまいってるんじゃないか。 眩暈がするほどの怒りとも憤りともあるいは哀しみともつかぬものに押し潰されそうになりながら、左之助は思った。 虐げられた人々を助けるだと? そんなに危なっかしいくせに。 「瞳に映す」ことしかできないほどに人との関わりを恐れながら、そのくせ本当はそんなに強く誰かを求めているくせに。 だったら何故そう言わない。 そんなふうに平静を装ったまま、お前の言う「瞳に映る人々」を守って、そうしてお前はどうなる。 誰がお前を守る。 「左之? まさか、動かない…のか?」 今ならわかる。眉をひそめただけの表情からは想像もつかないほどの嵐が、いま、彼の中で吹き荒れているのだ。 「なんでえ、屁でもないって言ってるじゃねェか。こんなの傷のうちにも入らねえぜ。」 こんな気持ちにつける名を、左之助は知らない。 ただ、この強くて弱い根性曲がりの年上のひとが、痛々しくてたまらなかった。 斬左として最初で最後の負けを喫して地面に転がったときに見た、あの透き通った青い空を、こいつにも見せてやりたいと思った。 今の俺では、まだ足りない。 だが、見てろよ。 今はまだお前の足元にも及ばないかもしれないが、俺は絶対強くなる。 強くてでかい男になる。 お前なんか、掌の上で泳がせてやれるくらいの男になって、そうして俺がお前を守ってやる。 春間近。冬の名残りの夜更けの風に剥き出しの肌を切らせつつ、夜道を往く。 並んで歩く小柄な姿にちらりと目をやり、 ―――まだまだ先は長ぇや。 そっと言葉をのみこみ、ため息をついた。 了/2003.06.20 |
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