風紋



斬左。維新はまだ終わっておらんよ。

―――さあ。そないなお人もおいやしたなぁ。もう、えらい昔のことみたいで、よう覚えてしまへんけども。


たしかに、形だけの維新は十年前成立し、新時代明治となった。

―――いや、そらもう強いのなんの! 群がる剣客をばったばったと斬り倒し、身の丈六尺の大男、鬼も斯くやの形相で、真っ赤な髪を振り乱し、新撰組もなにするものぞ、天狗か夜叉かと飛び回り……。


だが本当に幸せを必要とする人々は未だ弱者が虐げられる古い時代のなかにいる。

―――小さい、綺麗なお人どした。男雛みたいな、すっとしたお顔しとおいやしたんえ。まだ、年もそないに。知らへんなんだら、人斬りやなんて、夢にも思わへん、そんなお人どしたなあ。


だから拙者は及ばずながら、そういう人たちの力になるべく逆刃刀を振るっている。

―――毎日毎日、ようけ人死にが出て、町中ひどいありさまで。も、思い出しともおへん。帰っとくりやす。


一年後になるか十年後になるか。それとも永遠に維新の終わりは来ぬままか。

―――奉還金を元手に小商いを始めてはみたものの、うまく立ち行かず、こんな姿になり申した。ご先祖にあわせる顔もござらん。


わからぬが、そうすることが明治維新の犠牲になった人々の償いになると思っている。

―――まだ小さかったさかい、名前、聞くだけで震てました。親がな、言うんです。そないなてんご言うとったら人斬り抜刀斎が来るえ、て。


人斬り抜刀斎が斬り殺した人たちへの償いになると思っている。……でござるよ。

―――ええこと教えたろ。な、わての知り合いが夜道でたまたま乱闘の場に行き遭うたと思いや。抜刀斎がバサーッと袈裟懸けに新撰組か見廻組かなんかを斬り捨てたとこやったらしいわ。さあ、抜刀斎がそいつに気づく、気づいた抜刀斎が振り返った、その顔の凄まじさ言うたら。血まみれの顔でニイィッと笑う、その口が耳まで裂けて……。



一、

 はいはい。よう、おこしになっとくれやしたな。今日は何さしてもらいましょ。へ。長州のお歴々が好んでお食べやしたお菓子、どすか? あの、失礼ですけど、おたくはんは一体・・・・・・。
 へえぇ。志士はんらのことを調べにわざわざ東亰から。いやあ、そうどすか。そら、えらいご苦労くろさんどすな。ほな、うちのことはさしずめ木屋町ででもお聞きやしたんどすやろ。ほほほ、そら判りますわ。お互い長い付き合いどす。それに、あちらさんも長州はんとは深いご縁があらはるさかいにな。
 そうそう、お菓子どしたな。この十年でいろいろと変わりましたよってに、もう、のうなったもんも、ようけありますけどなぁ。さいぜんお言いやした、あの、桂はん。あのお人がよう召し上がっとくりやしたのが、この「ひりゃうす」どす。
 よろしかったら、おひとつ、どうぞ。
 可愛らしおすやろ。
 せやけど、南蛮菓子のなかでも、これが一等風変わりなんとちがいますやろか。いやあ、そうどすか。お口に合うたようで、よろしおした。
 そうどす。そうても、手ぇのこんだもんどす。いっぺん油で揚げて、蜜に絡めて、上に金平糖をのせたりますのや。
 ほんに、そうどすえ。
 尊皇攘夷の志士さまが、南蛮菓子。
 それも子どもみたいに嬉しそうなお顔で、食べとおいやした。なんや不思議な気ぃがしましたなあ。
 そら、うちとこかてこんな商売どすさかい、いろいろありましたえ。それに、長州はんは、肩身の狭い時期がなごおしたよってに。せやけど、お菓子屋には、お菓子屋の、意地の通し方があるんどす。ご公儀がどうの、どこの藩がどうの、そんなん、関係あらしまへん。とにかく、うちは、ずうっと南蛮菓子を作ってました。それが、この「ひりゃうす」どす。
 そやさかい、これが町衆の誇りや思て、今も頑張らしてもろてます。

 え、長州はんのなかで剣に長けたはったお方、どすか? さあ……。よう分かりまへんけど、皆さん、でけはったんとちがいますやろか。なにぶん、あんな時代どしたよって。
 とくに? そうどすなあ、桂はんも相当お達者やいう噂どしたけど、あの、お抜きやしたところをだれも見たことない、て、その話の方が有名どしたさかい。
 え、抜刀斎? 抜刀斎て、あれはただの人斬りどすえ。
 志士?!
 とんでもあらしまへん! 一緒にしたらバチ当たります。あんな野蛮な人斬り。首斬り役人と変わりおへん。
 ええ、ええ、ここにも何べんか来はりましたえ。護衛やとか何とか言うて、桂はんはえらい可愛がっといやしたけど、髪も真っ赤やし、大きい傷もあるし、それにあの薄気味の悪い目つき……。うちのお菓子食べたはるときかて、陰気なお顔で、なんや無理からみたいな食べ方しはりますのんや。お菓子が可哀想どしたわ。おんなしひりゃうすかて、嬉しそうに味おうとくれやす桂はんに食べてもろうた方が、なんぼか幸せやろ、思うて。
 やっぱり、長いこと人斬りなんかしてると、自然とあんな風になるんどすやろなぁ。

 あ、はい、まあ、長いて言うても、せいぜい二年か、三年か……。ええ、わこうおしたえ。たしか、初めてお連れやしたときに、十七やて、言うとおいやしたと思います。
 その頃はまだ「抜刀斎」言うても、だれも知らへん頃どした。
 そやけど、あっという間どしたやろ。
 泣く子も黙る、人斬り抜刀斎。
 あの人、うちに来はっても、ひとっ言も喋らはらしまへなんだんどすえ。そやから、いっぺんも、お声、聞いたこと、おへんのどす。ほんまに鬼か魔物なんやないやろか、て、なんべん思うたことか。


 鳥羽伏見から、ふっつり話も聞かんようになりました。
 今どすか。さあ、どこでどないしたはるんどすやろなあ。明治になってずいぶんと経ってから、薬屋になったんやとか、今もおんなしような生業を続けてるんやとか、海の向こうに行ったんやとか、いろんな噂が立ちましたけど、ほんまのとこは、だぁれも知らへんのとちがいますやろか。
 そやけど、どこで何をしたはっても、一緒どすわ。あの姿、あの顔、あの目つき。一生、忘れしまへん。明治になったかて、いくつになったかて、人斬り抜刀斎は人斬り抜刀斎どす。そうに決まってます。




二、

 ここで砥ぎ屋を始めて長いか、て? どやろ。そないに長うはないけど、短うもないんとちがうか。あんさんが言うたはる昔いうのはいつのことや。ご一新か。そんなん、昔のうちに入らへんわ。しとった。せや、その頃からワシがひとりでやっとる。
 そないな話やったら、うちなんどに来んでも、もっと好きな連中がぎょうさんおるやろ。そっちに行ったらどないや。
 こらまた、えらい物騒な名前や。
 ああ、もう、そない意気込みな。あの頃ここにおったもんやったら、三つの子どもでも知っとるやろ。なんでや。わしかて、世間の噂で聞いたことくらいしか知らん。刀砥ぎしとるから言うて、別になんも詳しいことあらへん。
 うちに刀を砥ぎに出してたやろ、て? さあ、覚えてへんな。どやろ。そら、もしかしたら来たはったんかもしれへんけど、あの頃は毎日毎日、目ぇ回るほどぎょうさん刀を研いどったさかい、いちいち覚えてへん。話すようなこと、なんもおへんわ。
 なんやて? 阿呆な。そら、長州はんにはご贔屓にしてもろてたで。せやけど、そないなことは……。
 ちっ。あの阿呆たれが。風呂屋の番頭がそないに口軽かったらどもならんわ。ほんまにしゃあないやっちゃ。

 ふん。ほな、三つや。三つだけ、答えよ。わしが知ってることやったら、やけどな。


 ひとつめは。

 剣、か。ふん、うまいこと訊きよる。
 流儀は飛天御剣流。
 いいや、古流の秘剣や。この道の人間やったら、誰かていっぺんは聞いたことあるやろな。ただし伝説としてや。わしかて、あれが世の中に出てくるまで、ほんまにいてるとは思てへんかった。
 なんで、て。
 飛天は、秘天。天の秘めたる剣や。
 長州はんの人斬りやなんて、はじめは嘘やと思うた。切羽詰った長州のお人の素っ頓狂な大法螺やとな。
 それが、どや。ほんまやった。吃驚したなんちゅうもんやあらへん。せや。最初は陰の人斬りやった。せやさかい、しばらくは身内だけの噂やった。それが蛤御門のナニがあって、さすがに話聞かんよなったな思てたら、さあ、年が明けた頃からやったやろか。志士はんらの警護や何や言うて、表立って動くようになっとったんや。遊撃剣士とかいうたかいの。そないなったら、なんせ飛天御剣流や。そら、噂にもなる、伝説にもなる。その頃からや。うちに、来るようにならはったのは。
 刀? 刀な……。ごく普通の刀やったで。ま、業物は業物やったけどな。
 一刀やろ。いいや、一応二本差してはったけどな。せやけど、ワシは太刀しか砥いだこと、ないさかい。


 ふたつめは。

 鳥羽伏見の後か。なるほどな。よう、調べてはるわ。ほな、それ以降行方知れずやいうのはもう知ってはるんやろ。
 噂か。噂なら、聞かんこともないな。なんでも、流浪人になったとかいう話や。ナニて、そら流浪人いうくらいや。日本中を放浪してはるんとちがうか。
 何のため、て。
 そないなこと、なんでワシに判るかいな。あんさん、捜して、自分で訊いとおみ。


 さ、最後や。みっつめ、言うとおみ。

 ……勝つ?! 抜刀斎に?! 勝つて、だれが。あんさんがか。
 阿呆な。何を言い出すかと思たら。なんでて、どもこもあらへん。勝てるわけあるかいな。
 なんやて? 斬馬刀? 斬馬刀て、あんさんがか? いまどき、そんなもんあるかいな。大体、あったかて、使いこなせるもんやない。阿呆も休み休み言い。
 そら、これでもこの商売で食うてきた身や、それくらい知っとって当然やろ。
 なんやて、持っとるて?! しかも、喧嘩に使うとる?

 ……ちょっと、腕、貸してみ。
 ふん。なるほどな。たしかに、細う見えて、力はあるやろ。これやったら、そこそこ使わはるかもしれへんな。そやけど、剛の技で、あの剣は破れへん。悪いこと言わんさかい、やめとき。


 もう、よろし。聞いても、話すことないさかい。


 わかったわかった、わかりましたて。ほんにまあ、難儀なお人や。ほな、ま、好きに話し。


 ふうん。あんた、幾つや。十九じゅうくか。若い、いうのは、えらいことやな。いや、そうでもあらへんか。おなし十九でも、な。
 あんたも、いろいろあったんやろな。
 ええ、ええ、言わんでええ。そやけど、見てたらわかるよってな。若いだけで、そうはならん。それに、ただとし重ねても、そうは、ならん。


 な。これは、噂やけどな。逆刃刀を差した流浪人、いうのがおるらしいで。
 せやから、そない意気込みなて。
 どやろ。そこまで知らんなあ。噂や言うたやろ。

 ああ、逆刃刀かいな? 字のまんま、刃と峰が逆についた刀や。そんなん、聞くまでもないやろ。斬れるわけあらへん。
 さあ、何のためやろな。そないなこと、なんでワシに判るかいな。あんた、自分で訊いとおみ。

 それよりな、え? その、斬馬刀、もう、使いなさんな。
 理由。そんなん、知れとる。刀なんちゅうもんは、碌なもんやない。振り回してるつもりが、いつのまにやら自分が振り回されとる。切りもせんのに、我がの身だけが切り刻まれていく。切ったはずのもんに縛られて、どもならんようになる。そうなってからでは、遅いんや。
 そやから、な。悪いこと言わん。早よ、捨て。そうなる前に、捨ててしまい。




三、

 えっ。そないな話、どこでお聞きやしたんどす? 村田のご隠居はん? まあ、そうどしたか。東亰のご親戚の方ですのん? え、赤の他人。いやぁ、突然お訪ねやして? それでようあの気難しいご隠居はんが、そないな話、しやはりましたなぁ。あんたはん、よっぽど気に入られはったんどすえ。

 そやけど……。そうどすか、ご隠居はん、覚えとおいやしたんどすな。むかぁしに、ほんのちょっと言うただけやったのに。どのくらい、お聞きやしたん? あれまあ、なんにも? とにかくここに行て訊いとおみ、て。ふふふ。ご隠居はんらしおすな。

 あの、中川村て、知っとおいやす?
 ここらからずうっと北の奥のほうにある小さい村で、杉を、作ってるところですの。北山の杉、いうて。お聞きやしたこと、おへんやろか。
 うち、そこの出なんです。ここに嫁いで来たのはご一新の後。その中川村にいた、娘時分のことどした。

 杉の村では、女も男もいっしょに働くんどす。男連中が木に登って枝打ちしたり、丸太のあらむきをしたりしますやろ。ほんで女がそれを小むきしたり、滝の砂で磨いたりしますのや。苗、育てたり、下刈りしたりも、します。今はこうして呉服屋のもんになりましたよってに、こないなきもの着て、いちんなかにおりますけど、その頃はうちも絣にもんぺで毎日山に出て働いてましたんえ。

 どんどん焼けの、次の年どしたやろか、その次の年どしたやろか。そのお人は、杉の山のなかを、毎日走っとおいやした。ちょうどうちの家から滝に抜ける小道のそばを、ものすごい勢いで、わき目もふらんと、びゅうびゅう走ったはりますのや。
 毎日どすえ。
 そら、ぉおした。まだ子どもみたいなさいなりのお人でしたけど、髪が、あの、えらい……朱うて。あんまり速いさかい、きっと天狗の子ぉやて。最初はほんまにそう思てました。
 そやけど、しばらくして気づいたんどす。よう見たらお顔が、普通の顔したはる。着てはるもんも普通やし、うちわを挿してはるわけでもあらしまへん。それに、お顔に、普通どころか人形にんぎょさんみたいな可愛いらしいお顔に、あの、大きな……お傷がおしたんどす。
 天狗やったら、そないな傷、きっとおへんわ。
 なんや、人間ひとさんや、て。
 せやけど、気づいたら余計怖ぉなりました。
 なんせお顔がな、ちぃとも、動いてしまへんかったんどす。
 そないに走ったら、普通やったらしんどおすやろ。苦しおすやろ。そやのに、そのお人はまるで平気な風で、それでも、息だけは、ぜぇぜぇきらしながら走ったはりましたんや。杉の木をうまいことよけながら、それは身軽にお走りやした。せやけど、目が、こう、どこを見ていやはるのか判らんような、まるでなぁんも見てはらへんような、そんな風で。
 もちろん、そうどす。あっという間どす。ザアッと走り抜けはる、そのときだけやさかい。
 そやけど、うち、あの目ぇ見て、ぞっとしました。怖いような、悲しいような、ざわざわした気持ちになって、それになんや妙に気が急いて、胸がどきどきしましたわ。
 あんなお顔してはったらあかん、思いました。なにをしていやはるお人か、そのときは何にも知らへんかったんどす。知ってたら、それこそ怖ぉて、あんなこと、でけしまへんどしたやろなあ。

 ええ、はい。うち、そのお人に、水筒を渡そとしたんどす。いいえ。そないなええもんやあらしまへん。普通の竹筒で、中身かて、ただのお水どすわ。そやけど、水筒を受け取るときくらい、足、お止めやすやろ? お水飲むときくらい、目も、お閉じやすやろ? 深ぅ息でもつかはったら、ちょっとはなんぞお変わりやすやろ、て。そない思て、竹筒に、うちらが砂を取りに行く菩提の滝の水を詰めて、持って通たんどす。
 いえ、そら、毎日は無理どした。仕事でどもならん日もありましたし、ひとの目ぇも、やっぱり。せやけど、都合のつく日は必ず行きました。水筒持って、いつも同じ場所で待ってましたんや。
 どう、て。
 どもなりませんでしたなぁ。そら、そうどすわ。なんも見てはらへんのどすえ。うちがいてるのにも、気づいてはらへんかったんどっしゃろなあ。

 それだけどす。それだけの、ことどした。
 さあ。よう分からしまへんけど、足腰鍛えるのもやっぱり修行なんとちがいますやろか?
 お知りになりたかったようなことは、ようお話しでけしまへなんだなぁ。堪忍かにしとくれやっしゃ。なんで、て。ほほ。お顔に書いたありますえ。


 そうどす。ここへ嫁いできて、どのくらい経った頃どしたか、なんの折にか、村田のご隠居はんと話してるときに、ひょいとそんな話が出たんどす。ほしたらご隠居はんが、それは人斬り抜刀斎やで、て。気づいてくれんで命拾いしたんやで、いうて、教えておくれやしたんどす。
 今は、長州はんらいうたら、みなさん大変なお役に就いていやはるんどすやろなあ。あのお人も、お役人にならはったんどすやろか。
 あの。あんたはん、知っとおいやす?

 へえ、そうどしたか、東亰においやすのか。やっぱり、えろうならはったんどすな。え、ちゃう。ちゃうて、ほな、なにしとおいやすのん?
 るろうに。
 それ、なんどす?
 はあ、あんたはんも知らはりませんの。


 えっ。

 い、いえ。どうもしまへん。そう、そうどすか。斬れへん刀、どすか。そうどすか……。

 あっ、はいはい。え、もう行かはりますの。いえいえ、こちらこそ、お役に立てませんで。ほな、道中お気をつけて。



 あ、あの! ちょ、ちょっと! ちょっと待っとおくれやす!

 あの。

 あの、さっきの話、ほんまは続きがあるんどす。ここから先は、村田のご隠居はんにも、だれにも言うたことおへん。よかったら、聴いたってもらえしまへんやろか。

 はい。おおきに。

 いつも同じ場所で水筒持って待っとった、いうのは、さっきお話しした通りどす。あのお人は、相変わらずうちのことなんか見もせんと、びゅうびゅうと走り続けてはりました。
 せやけど、気づいてはらへんのと、ちごたんどす。ちゃんと見とおいやした。知っとおいやした。知ってて、気づかへんふりしといやしたんどす。

 秋の、多分はじめ頃どした。気持ちのええ秋晴れやなぁ思てたら、突然えらい雷が鳴り出したんどす。空はよう晴れたままやのに、ぴかぴかーどどどーん、いうて。ちょうど、そのいつもの場所に行こ思うて、小道を抜けたところどしたわ。あたりは杉の林ですよってに、身を隠すようなところもあらしまへん。そうこうするうちに、雷がどんどん近づいてきましてな。うち、もう怖ぉて怖ぉて、杉の木に縋りつくようにしてふるてましたんや。
 気がついたら、あのお人が横に立っとおいやした。
 ほんで、木から離れた方がいい、て。
 そらそうどすわなぁ。うち、慌てて杉の木を離れて地べたにうずくまりました。うずくまった拍子に、腰にカマをさしてたんに気づいて、それも慌てて放りました。
 それでいい、大丈夫、て、あのお人はお言いやした。
 そやけど、顔を上げたら、ご自分はぼーっと立ってはるんどす。しかもお腰のもんも、差したままどす。あぶのおす、はよ、おかがみやす、お腰のもんもお離しやす。そう言うたら、うちを見て、お言いやした。
 大丈夫、君には落ちない。
 走ったはるときの、なんにも見てはらへんお顔とは、ちごて、ちゃんとうちを見たはりました。せやけど、やっぱり、おんなし目ぇやったんどす。まるでなぁんも見ていやはらへんような、どこを見ていはるのか判らんような、あの目どす。
 ああ、あかん、思いました。このお人は、ご自分に雷が落ちるのを待ってはるんやないか、て、ふとそんな気ぃがしましたんや。
 なんで。さあ、なんでそないなこと思たんか、自分でも分からしまへんわ。そやけど、うち、何も言えしまへんでした。ほんで、それ以来、水筒持っていくの、やめてしもたんどす。


 これで、ほんまのほんまに終わりどす。

 むずかしことは、判らしまへん。そやけど、世間が言わはるようなお人やなかったんやないかと、うちは思うてますのや。


 やっぱり、お知りになりたかったようなこととは、ちごてたましたか? いえ、なんとのう。えらい、難しいお顔、しとおいやすさかい。
 そうどすなあ。怖い、いうより、なんや困っとおいやすようなお顔に見えますわ。いらんこと言うてしもたんやったら、堪忍かにしとくれやす。せやけど、さっきお言いやした、あの、斬れへん刀。あ、はい、逆刃刀、それどす。それ聞いて、うち、なんやホッとしましたんや。ほんで、はなし、聞いてもらいとうなって……。
 ほんまにおおきに。おかげさんで、胸のつかえが下りた気がします。ずうっとずうっと、だれかに聞いてほしかったんかもしれまへんなあ。
 え、そうどすか、ほな、ちょっとはお役に立てましたんやな。そら、よろしおした。えらいお引き止めしてしもて。堪忍かにしとくれやっしゃ。


 あの、もし、な、もしもどすけど……。

 いえ、やっぱりなんでもおへん。
 いいえ、ほんまに。
 はい、はい……。ほんに、おおきに。
 道中お気をつけて。





喧嘩の相手がちがうのではござらんか。

―――とんでもあらしまへん。ただの人斬りどすえ。一緒にしたらバチ当たります。


よく見ておけ、左之助。徳川三百年の支配が終わり、新時代が幕を明ける。

―――そのお人は、杉の山のなかを、毎日走っとおいやした。


赤報隊がお主に教えたのは維新志士を倒すことか。それとも維新を達成することか。

―――志士様やなんやいうたかて、結局、みんな自分がええ目みたかっただけどすやろ。


英雄気取りで維新志士様の真似は構わんが、俺たちをぬか喜びさせるなってんだ全く。赤報隊、とんだ悪党だぜ。

―――明治になったかて、いくつになったかて、人斬り抜刀斎は人斬り抜刀斎どす。そうに決まってます。

斬左。維新はまだ終わっておらんよ。

―――これは、噂やけどな。逆刃刀を差した流浪人、いうのがおるらしいで。


維新はまだ―――。





了/2004.06.18
参加イベント/こころはや ぬばたまの
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