「昨日と明日の間で」

 しまった、と思ったときには遅かった。
 気づいたのは、彼の手が頬に触れた瞬間。痺れが爪先から脳天へとかけあがり、全身が総毛だった。予感と不安と、そして期待に戦慄する。思わず固く目を閉じ、硬直したように強張ってしまった自分を、あやすように包み込む腕を全身で感じながら、真っ白に霞んでいく頭の片隅で思った。
 まずいな。十も年下の、しかも男相手に――。
 本気になりそうだと、しかしそれはもはや思考の中でさえ、きちんとした言葉にはならない。若さの勢いにほだされたのだと己を言いくるめるには身体が返す反応が鋭すぎ、気づかぬように目をそむけ続けてきた自分の本当を、見ずにすませることは、もうできなかった。


 そもそも最初から、妙な男ではあった。真っ直ぐな眼をしていながらどこか荒んだ狂おしさを秘め、稚気と思えば年に似合わぬ成熟を匂わせ、直情と見えて平気で人をたばかる腹芸もこなす。
 維新の渦中をくぐり抜け、諸国を流浪れて塩を踏み、まもなく三十路にもなろうという今、もうたいがいの豹変には驚かない。しかしこの男には調子を狂わされること甚だしい。
 赤報隊と聞いたとき、怒りと嘆きの深さを知ったと思った。同時に、九歳から十年間にわたってその気持ちを強さもそのままに抱きつづけてきたことと、にもかかわらず、こんなにも真っ直ぐであることに驚嘆した。
 九つから十九。十八から二十八になった自分の十年とは、意味も長さも違う。
 剣心は思う。
 時間は暴力だ。どんな強い想いも、深い悲しみも、そのままではありえない。自分は、もはや倦んでいた。流浪れることにも、維新のひずみに巻き込まれた人を助け、時代の歪みを正す試みにも、過去を悔悟することにも。心は涸れ、乾いていた。色褪せないのは、絶望と呪いだけ。
 そんなとき、左之助に出逢った。十年経った今も、癒えぬ傷口から血を流し続ける、強い魂に。病むことを知らない魂に。
 一生敵わない、と思った。
 鋼のような烈しさと、雄々しく堂々とした生き方。自分が決して手に入れえぬもの。闘いには勝った。が、この男には、敵わない。誰に悟られはしなくとも、その敗北感はいっそすがすがしいほどに圧倒的で、きっとあの時から、この男に縛されてしまっていたに違いない。


 その左之助が、どうして自分などに執着するようになったのか、剣心にはむしろそれが不思議でならない。
 強さに絶対的な信をおく青年が、飛天御剣流の遣い手に一目置くのは判る。人懐っこく情の深い侠が、知人としてまた仲間として大切にもするのも理解できる。
 だがなぜだ。根っからの衆道ではない。にもかかわらず、いつの頃からか、左之助が剣心を見る目に、それまでとは違う種類の熱がこもるようになっていた。
 気づいていた。だが、気づかないふりをした。無自覚を装いながらも、慎重に距離をとり、避けていた。それを、気づかない左之助ではない。それもまた、わかっていた。

 これでは一体、どちらが先に仕掛けたかさえも判然しない。薄氷を踏むような距離感を保ちつつ、この結末は一体どこへ向かうのだろう、と、時々そんなことを思いつつ、日々を過ごしていた。
 彼が剣心から逃げようとした、そのときまでは。左之助は彼らのもとを去り、旧友と共に内務省を襲撃しようとした。人には「俺に勝手に流浪れるな」などと言っておきながら、そんな馬鹿な話があるものか。
 酔い潰れて寝たふりをする自分に、それがふりであることを知りつつ、敢えて気づかぬ風を装って語りかけた。
「すまねぇな、お前ら。わかってくれとは言わねえが、やっぱり俺にとって赤報隊は特別なんだよ。」
 常の陽気さは、いっそ巧みな演技だったかと思わせるほどに、乾いた目と声だった。
「なあ、剣心。あれは俺なんだ。お前に会えなかった、もう一人の俺なんだ。」
 平生の朗らかな態度につい忘れそうになる彼の過去と、彼が背負っているものを思い出す。そうだ、この男も、自分と同じ虚無の中を歩いてきたのだった。たった九歳で、一人永劫とも思える暗闇に突き落とされて、この男は、いや、その少年は、どうやって生き続ける道を見出したのか。
 「喧嘩屋は廃業したけどよ。それでも俺ぁやっぱり喧嘩屋なんだ。口じゃうまく言えねぇ。拳でしか言えねぇんだよ。でも、克にはそれは通じねぇ。奴はそういうんじゃないからな。だから俺じゃあいつを止められねぇ。といって、放っとけもしねぇや。だからよ。せめて一緒に堕ちるさ……。」
 そう言って、左之助は道場に背を向けた。

 一瞬、背中の悪一文字が禍禍しい朱色に染まって見えた。あのとき、自分の中に見つけた気持ちを隠すつもりはない。
 あれほど真っ向から気持ちをぶつけておきながら、自分から離れようとする左之助への怒り。無謀なはかりごとを企て、それへ左之助を引きずり込もうとする月岡への憤り。月岡と共に堕ちようとまで左之助に言わせる赤報隊への、妬み……。

 もう、自分を装うのは限界だった。
 激情に任せて内務省へ先回りし、二人を待ち受ける。連れ戻しにきたのかと月岡は問うたが、去ろうとする彼を止めることのできる自分なら、こんな泥沼にはまりはしない。心とは裏腹な突き放した言葉を返しつつ、憤りと自嘲を封じ込め、刀を振るった。
 振るいながら思った。
 これは暴露(ばれ)れるな、と。
 自分でも分かる。顔には出ずとも、俺の太刀は馬鹿正直に語っている。隠したはずの心情を、無残なまでに吐露してくれる。左之助も言ったように、月岡には分かるまい。だが――。
 彼の言葉は拳、自分の言葉は剣。
 人斬りは所詮人斬り、と言ったのは刃衛だった。是とは言わぬが、否とも言えぬ。人を斬るか斬らぬかはさておき、剣に己を託していることに変わりはない。
 剣客。この逆刃刀を鍛えた業師はそう呼んだ。そうなのかもしれない。言葉よりも眼差しよりも行動よりも、剣で語り合う者を剣客と言うのならば。
 そして左之助は、拳で語る。だから、喧嘩をしたがった。
 「喧嘩しようぜ。」
 それは「もっと知りたい」という告白に等しい。
 俺には言えない。と、剣心は思う。
 そんな勇気はない。挑まれて応える闘いとは違って、それは自分の全てをさらけ出すことになる。
 どうしてそんなことができようか。

 だが左之助は月岡に当て身をくらわせた後、またしても真正面から訊いてきた。
「俺にも、その剣を振るったか。」
 自分に本気か、と。
 よくもまあ、ぬけぬけと言ってくれるものだ。あまりの倣岸ぶりに馬鹿馬鹿しくなって、やぶれかぶれ半分、感嘆半分で、正直に言ってやる。
「ああ。生ぬるい馴れ合いはごめんでござる。」
 もう逃げるのはやめだ、と。


 しかし困ったことに、この若造は時として突然子どもに戻る。月岡が意識を回復したのを見届け、剣心の待つ破落戸長屋に戻ってきた左之助は、まるで借りてきた猫のように落ち着かない。酒でも呑むかと言って立ったかと思えば、今度は茶碗が汚いだの水瓶が空だから水を汲んでくるだのと言い出した。
 こんな時間に井戸をからげる馬鹿があるか。
 引き止めると、桶に手を伸ばしてしゃがみこんだ姿勢のまま、叱られた子どものような目で見上げてきた。
 ひと回り以上大きな図体のくせに、しかもいつもは面憎いほどふてぶてしいくせに、今さらそんな幼い顔をして見せる。これがわざとなら単に忌々しいものを、そうでないから可愛くない。
 そう思いつつも、青年が珍しくも返した年相応の反応につい口許がほころんでしまい、降参して手を伸べた。
「馬鹿だな、左之。もういいから。」
 相変わらず困ったような上目遣いの子どもに、
「言ったろう。相手がお前でも、遠慮なく叩き伏せると。」
 静かに息を吸い、意を決して、精一杯の言葉を告げる。
「気に入らねば、な。」
 おいで、とさし招く手に引き寄せられるように、ひどく神妙な顔つきの左之助が歩み寄ってくる。そして、存在を確かめるように伸ばされた左之助の手がそっと頬に触れた瞬間。
 稲妻に打たれたような戦慄と陶酔の中で知った。自分の方こそ、どうしようもなく心を募らせていたのだということを。

 左之助の熱い息が首筋を覆う。存外に細い指をした大きな手が、袷の内へと這い降りていく。肩といわず胸といわず、その手が触れるたびに、おぞ気にも似たものが身体をかけ巡り、脳を痺れさせる。
 と、不規則に肌を上下していた指が、予測もつかない唐突さで胸の尖りを掠めていった。
「あっ……。」
 思わず声がこぼれた。自分のものとは信じられない高く掠れた声音に頬が熱くなり、もう洩らすまいと口元にやった拳は、だがあっけなく取り上げられた。
「今さらだぜ、剣心。腹ァ、括ったんだろ?」
 それとこれとは話が違う。
 言葉で言う余裕もなくただ必死にかぶりをふる間にも、左之助の手は容赦なく煽り続ける。さっきまでの幼さを微塵も感じさせない男に半ば本気で腹立ちを覚え、険をこめた目で睨めつけてみるのだが、まったくこたえないらしい。どころか、ますます勢いづいて手を動かす。
「ちょっ、左之、ま……。」
 が、待ってくれ、などと言えるわけがない。
「なんだ」
「ま、まず灯り、を……。」
「往生際の悪い。」
 苦笑しつつ、しかし素直に蝋燭を吹き消した。だが、灯火が消えてみれば、煌々と照るほどの星明かりで部屋は却って白々(しらじら)と明るい。
「ああ。お前えにはこっちのが似合ってんな。」
 猛々しい笑みについ見惚れてしまった剣心に、もはや抗うすべはない。うっとりと目を閉じ、左之助という名の荒波に身を委ねた。


 長屋の朝は早い。住人は夜明けと共に起き出し、逞しい日常が始まる。塀を巡らした神谷道場の奥住まいとは違い、屋外との隔ては板戸一枚。耳元で聞こえるほどに近く感じられる喧騒の中、ただでさえ眠りの浅い剣心が安穏と眠っていられるわけがない。
 いつになく気だるい目覚めに違和感を覚えつつ目を開ける。
 見慣れない天井。朝日にけむる埃っぽい空気。硬い床の感触。そして何よりも、自分の上にある、布団とは似ても似つかぬ熱量をもった物体。
 状況を掴みそこねたのも束の間、瞬時に頭の霧は晴れわたる。とりあえずこの体勢から抜け出そうと身体を動かした拍子、ふわりと立ち上った雄の匂いに狼狽えた。
 昨夜の痴態がまざまざと脳裡によみがえる。己の身体にはそこかしこに彼の痕跡、相手の身体には自分がつけたと思しき爪痕。目のやり場に困りながらももぞもぞと身を起こし、その刺激で下肢を走った疼痛に絶句してまた狼狽えた。
 暑さにも闘いにも崩れない涼しげな顔を、これ以上ないくらい真っ赤にしてじたばたともがく姿に、いつから目覚めていたのか、狸寝入りを堪えきれなくなった左之助がくつくつと笑い出した。
「天下の飛天御剣流も形無しだな、剣心。」
「馬鹿。起きたなら起きたと言え」と開き直った膨れっ面で返せば、「お前ぇのそんな可愛い顔、めったに見られるもんじゃねぇからな」と、減らず口。
「知らん。帰る。」
 と、今度こそ身を起こしたところへ、長い四肢を投げ出してどさりと覆いかぶさってきたからたまらない。
「左之! 言ったろう、生ぬるい馴れ合いはごめんだと。」
 眉を逆立てて睨みつけたが、寝乱れた襦袢姿で組み敷かれた体勢では、何を言ってもただの睦言にしかならない。
「上等だぜ? 俺も生ぬるいのは好かねえからな。」
 頭上から低い声で囁き、獰猛に笑う。一気に密度を増した男の気配に、藪の蛇を起こしたと気づいたときには、もう後のまつり。肩越しに見る無双の格子に晴れやかな朝の水色がのぞいていた。



了.

「花は爛漫」さまに投稿させていただいたものです。
 
     

 

 

 

 

 

 

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