対話

対話



 暑い日だった。
 夏が、一度去ったふりをして、皆が油断した頃を見計らって引き返してきた。そんな意地の悪い暑さが、ねっとりと肌にまとわりついていた。
 その朝、どうして道場が無人だったのか、また、どうして自分がそこにいたのか、剣路は覚えていない。
 なぜ稽古がなかったのか。学校は休みだったのか。出稽古ならば、なぜ同行していなかったのか。
 誰もいないはずの道場に、なぜ、足を向けたのか。
 夢だったかと錯覚するほど、すべてが曖昧で、頼りない。
 ただ、そこでひとり刀を振るっていた父の姿だけが、鮮烈に体内に焼きついている。
 思い出すだけでも鳥肌立つほどの物理的な重圧が、現実よりも現実的に、剣路の身体に焼きついている。


 父は剣路に背中を向けて立っていた。抜き身の刀を構えていた。腰に残る鞘は見知った黒塗り。いつも床の間に置かれているものだった。
 だがその刀を父は使わず、少し肘を引いて、足で身体を軽々とさばく。
 話には聞いていた。
 だが初めて見る。
 これが父の、飛天御剣流の流儀か――と、剣路は食い入るように見た。
 人は父をもの静かで穏和なと称するが、剣路の目には柔弱と映った。学校の友達はみな父親を怖がっているが、剣路にはそうではなかった。
 多分、普通の家とは、違うのだ。
 子どもは大人が思うほどに無垢でも愚鈍でもない。剣心の中の父性の不在を、剣路は理屈ではなく本能的に知っていた。それが剣路を剣心から遠ざけていた。
 右に左に、舞うように揺れる父が次にどう動くのかはまるで予測がつかない。八歳の剣路の目にさえ小柄な身体は、およそ人に不可能と思われる動きを見せる。どこかから誰かに操られていると言われた方が、まだ理解できた。理解も予想も超えたところで舞うように動くさまは、敏捷も巧緻も過ぎて、優雅と言うにふさわしかった。
 前触れもなく父が跳んだ。天井すれすれまで跳び、そして撃ち下ろす。
 渓流が瀑布に転じる情景に似ていた。
 そして、技の型稽古ではなく、迎撃を想定してのものだと、その時になってようやく気づいた。
 水に舞う花弁のような動きは、ひらひらと身を躱わす動作だったのだ。
 父は誰かと闘っている。
 相手がいる。
 上からの一撃は、風の裂ける音さえ鳴らないほどの速さと重さだった。
 首筋や脇腹にべたべたとにじんでいた汗が、いつのまにか嘘のようにひいている。ぞわぞわと震えが走る。指先が冷たく、顔が熱い。
 こんな父を初めて見た。
 どんな顔をしているのだろうと思った。
 見たいようでもあり、見るのが恐ろしいようでもあった。
 次に閃光が弾けた。
 何をしたのか皆目わからなかった。
 幾本もの剣線が花火のように開いたように見えた。
 父が刀身を鞘に納めるのを、息を詰めてただただ見つめた。
 まだ終わりではない。
 なぜかは知らず、ただその確信だけがあった。
 見合っているのだろう。
 静止する父の視線の先に、同じように構えて静止する相手がいる。
 張り詰めた緊張感はなおも高まり、ほとんど物理的な圧力を剣路に加える。小さな胸郭の中で、息を吸ったまま硬直した肺が、小刻みに痙攣する。
 そのとき突如、同じように消える父を見つめる小さな子どもの姿が見えた。
 赤茶けた髪の幼児。あれは小さかった頃の自分。
 夢の中では自分の姿が他人のように見える。ちょうどそれと同じように、現在の自分とかつての自分の姿が二重映しに見えた。
 視覚と肉体が分離する。
 周囲を取り巻いていた重圧が突風に変じて、そして霧散する。
 今度は剣線だけでなく、父の姿そのものを見失う。
 かたん、と、小さな金属音が聞こえて、急速に視界が平常化した。
 それが刀を鞘に納めた音だったと、父の手元を見て気づいた。
 父が振り向く。
 振り向いた父は、いつもと同じ茫洋とした微笑を浮かべる。
「そろそろ昼餉の用意をするか。」
 いつもと同じ、少し頼りない声で言う。
「あれは、だれ?」
 問いは、無意識に口から出ていた。声は掠れて咽喉に絡まったが、意味を伝えるには十分だった。
 言った瞬間、しまったと思った。ばつの悪そうな顔をしただろうか。
 父は、大丈夫、というように、また少し笑った。
「あれ?」
 答えを期待しない、なだめる口調は、父に話を聞いてもらいに来る相談者達に対するそれと似た響きで、癪に障った。
 苛立ちが剣路の声を尖らせる。
「大きくて、手が長い。けど素手。速い。でも芸がない。」
 父の視線が剣路に注がれる。静かな凝視は剣路を落ち着かなくさせる。
 父は誰かと闘っていた。
 だが動きは不自然で、間合いがさらに不自然で、そして何かがもっと不自然だった。
 最初の一撃で勝負はついていたはずだ。
 弥彦に譲る前は父のものだったという逆刃の刀だったとしても。あるいは木刀、竹刀でさえ。
「勝った?」
―――ねえ、どっちが勝ったの?
 甲高い幼児の声が、違う言葉で同じことを訊く。
 忘れていた記憶の一閃。
 これと同じことを、いつかどこかで経験している。
 同じものを見た。同じことを訊いた。
 だがそれは現実だろうか。
 浮遊する記憶は白昼夢めいて、そのあやふやさと明瞭さに、寒気がした。
 混乱した記憶と思考は、父によって解かれる。
 頭に柔らかく乗せられた手と、「面目ない」と苦笑する、その時と同じ仕草と表情と声によって。
 夢の断片は急速に質量を持ち、身体に納まった。
 三つか、四つか。
 その日も暑かった。
 夏の入口だったのか出口だったのか、いずれにせよ、暑かった。流れた汗が冷たく凍る、その感覚が、よく似ていた。
 そのとき父が手にしていたのは逆刃刀だったにちがいない。
 直感的にそう思った。
 同じように剣を振るって誰かと闘う父の姿を、幼なかった自分は何を思って見たのだろう。
 感情が欠落した、物理的な感覚のみの記憶。
 全てがやはり朦朧としていた。

 それにしても、こんな光景を、どうして忘れ得たのか。
 信じ難い思いで、父を見上げた。
 子どもの目にも頼りない。弥彦や央太はおろか、母と比べてさえ、線の細い姿。
 剣心は強い、剣心は凄いと周りが言えば言うほど、剣路にとって父親はそうではなく、また、穏和な、よく出来た人だと聞くにつけ、剣路にとってはそうではなかった。優しさの奥から膿みのように滲み出る拒絶と残酷を、そうと知らずに感じていた。
 父の使う剣は、これまで見た誰よりも速く鋭かった。そして誰にも似ていなかった。誰よりも日頃の父に最も遠くかけ離れていた。
 見たことのない父が、そうして闘っていたとき、どんな顔をしていたのかを知りたいと、今になって強く思った。
 だが、見上げた先にあるのは、いつもと同じ、つかみどころのない微笑。
 ふいに強烈な苛立ちに襲われた。理不尽なまでの怒りともどかしさの発作が剣路を捉えた。
 それが何に対してかも判らず、発作的に父にしがみついた。
 そんなことをする息子ではなかった。癇の虫がついて泣きつく相手は必ず母であったものが、このとき、突き飛ばす勢いで父親に抱きついた。
「おろ。」
 父は少し驚いて、だが優しく頭に手を乗せ、肩を叩いてくれる。
 それが余計にもどかしく、年甲斐もなく、駄々っ子のようにさらに強くしがみつき、身を揺する。
 そしてすぐに、衝動的で幼稚な行動を恥ずかしく思った。
「ちょっとした遊びだ。勝ち負けはよいのだ。さ、昼餉にしよう。」
 勘違いした答えに便乗して手を離し、並んで厨に向かう。
「皆には内緒だぞ。特に母さんには。」
「うん。」
―――それであれは誰と闘ってたの?
 隣を歩く父を見上げると、白い太陽が目を刺した。
 空気はべたついて暑かったが、陽射しはくすんだ秋の色をしていた。




了/2005.10.10
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