めかぶとろろごはん
あたたかい手が頭を撫でて髪をすいていく。
穏やかな声が静かに意識に沁みる。
気持ちいい。
完璧に気持ちいい、至福の時間。
だが長くは続かない。
子守歌のような旋律が、突如意味を持って脳に飛び込んできた。
「六時過ぎてっぞー。おーい、剣心起きろー」
なに。
ちょっと待て。
それはない、ありえない。
六時は仕事の始まる時間だ。
「お、やっと起きた。ウソウソ、まだ五時だって。わりい、でもおまえ全然起きねえから。メシ食うんだろ」
いや起きてはいたんだが。
ただ目が開かなくて身体が動かなかっただけで。
「こーら、寝るな。マジで遅れるぞー」
うるさいなあ、もう。
ていうかそもそも誰のせいでこんな。
「しゃーねーなあ、ったく。とりあえずシャワーでも浴びて目ぇ覚ませよ。その間に朝メシしといてやっからさ」
うっわ、しかもなんだ、その恩着せがましい言い方は。
腹立たしいので全身の力を思い切り抜いてやる。
どうだ、重いだろう。まいったか。
「メシなにがいい? あ、でもあんま難しいのはカンベンな」
そんなことは言われるまでもない。
でもやっぱりちょっと意趣返しをしてやりたい今日この頃。
「はあっ? うなとろごはん?! っておまえ、この状況で朝からそんなもん食うのか?」
当てつけに決まってるだろ馬鹿。気づけ。
それにそもそも鰻のストックなんてありませんから。
ってことで、めかぶとろろごはんで。
ほんとはとろろ抜きでいいんだが、そこはホレまあ色々と。
野菜かごに丹波の山の芋がございますのでお後よろしくー。
あ、もちろん下ろし金じゃなくすり鉢でよろしくー。
―――ふふふふふ。
「風呂、一人で大丈夫か? オレが入れてやろっか? なんだよ照れんなよ今さら。どうせぜえーんぶ……って、イーデデデデ! スミマセンゴメンナサイ、わかりましたって、ちゃんと用意しときますって」
ていうか、なんでそんなにほくほく顔なんだお前は。
反省しろ反省!
熱いシャワーに打たれて、やっと目と頭が冴えてきた。でもやっぱり身体が重い。えー、重いっていうか何ていうか……。どうしよう、仕事行けるかな、マジで。いや、いかん。何が何でも行く。行くしかない。
一度きれいにしてくれていたらしく、とりたてて洗うほどの必要はなかったが、事後の対策のためにざっと身体を検分する。毎度ながらほとんど肝試しの気分を味わって、今日はハイネックを着ることに決めた。まだ暑いが、でもまあ真夏ほど困らずには済むか。
おっとと。
「ど、どうした剣心! 大丈夫か!?」
どうって、いや別にシャワーが手から滑って跳ねただけなんだが。
「剣心……! ちょ、おい、剣心! おいってば!」
いやだからちょっと足が滑っただけで……。っていうかなにもそんなに慌てなくても。
とは思ったものの、抱える腕の力とか顔を撫でる手指のぬくもりとかがやっぱりとんでもなく気持ちよくて、そのまま眠りに戻りたくなる。
「……今日休むか?」
おーい、いかんぞー。シゴトシゴトー。がんばれ俺ー。
「え? これってお前、ひょっとして熱とか……あんのか?」
いえ、それはないと思いますが。
だってお前の掌のが余裕でぬくい。と思う。
「真面目に? でもやっぱなんか……。ああ、もういいや、とりあえず測っとけ。ちょい待ち。体温計とってくる」
だから熱なんか……。
――――
体温計?
体温計だとおーーーー?!!
「ぶっ……! ちょ、おま、バカちが、そんなんじゃ……わーーーっ!!」
アホ! 馬鹿! 変態! ケダモノ!! クソバカバカバカ!!!
「いでっ、ちょ、やめろって危な……ええっ! 待て待て待てちょっと待てー! んなもん投げんなーー!」
自業自得!!
「はっ、反省してます本気でっ」
あーたーりーまーえっっ!!
くっそむかつく。心底むかつく。あんなもんソッコー捨ててやる。そんで次は絶対デジタル式の丈夫なやつ買う。水銀とか危なくないし。乱暴にしても平気だし。あ、いや、それより耳で測るやつとかどうよ。それなら絶対あんなことできないし。っていうかどのみち二度とさせませんが!
「ごめんてば。な?」
このほんとに反省してるとは断じて思えない態度のでかさをどうしてくれよう。
――――ん?
ちょっと待て。
これってもしかして俺が“よしよし”されてるんじゃ。
そうじゃなくて、俺は正当な権利として本気で怒ってるんであって。
「んー」
おい。
そんなんでごまかそうとするな。
そんなことで騙される俺じゃないぞ。
ない。
はず。
なんだが。
「すぐメシすっから、髪乾かしとけ」
えーっと。
「ひとりでできるか? ん? よーし、いい子だ」
っていうかおまえ、自分のが十も年下ってわかってるのか?
――――やれやれ。
まあいい、ここは折れといてやろう。
子どものお守りはラクじゃないなあ、まったく。
ふうー。
なんだかんだですっかり目が覚めた。
だが急がないと。時間がない。
「なあなあ、とろろってこんなんでいいのか? テンイチのスープばりにどろっどろなんだけど」
お?
なんだ、意外と手際いいじゃないか。
ちょっと苦労させてやろうと思って、わざわざ目の詰んだ山の芋をすり鉢で下ろすなんていう手ごわいメニューを選んだつもりだったのに。
さすが力馬鹿。
「え? ああなんだ、ダシで薄めんのか。道理でコテコテだと思った。ダシこれでいいのか? へ? 冷蔵庫のビン? ってこっちか。ん、いい感じいい感じ」
あっさりクリアしてしまった。
うーむ、甘かったか。
と思っていると、意外なところで意趣返しが功を奏していた。
左之助がしきりに両手を掻きむしっている。
さてはかゆいのだ。
生の長芋や里芋を素手で調理すると、シュウ酸カルシウムが悪さをして、手指がかゆくなる。慣れの問題か体質によるものか、多少の個人差はあるが、いずれにせよあの様子ではかなり辛いにちがいない。しめしめ。
水で洗っても落ちないかゆみにイライラしながら、ヒステリックに掻きむしっている。
「んなこと言ったってかゆいんだよっ。……へ? ああ、こうか?」
広げた両手に小麦粉をばらばらと振りかけてやった。
よくこすり合わせたところへ、次はお酢。匂いがキライだとかなんだとかゴネるのを無視して、小麦粉まみれの手にどばどばと注ぐ。
息を止めても鼻が酸い咽喉が酸いとうるさいので、片手で左之助の鼻をつまんでやって、さらに酢をかける。
え? 痛い? って、そんなに?
掻きむしった傷にしみるのかと思い、早いが水で流させた。
だが効果は充分だったらしい。
「うお、ほんとだ、全然かゆくねえ。お前すげえな、剣心」
嬉しそうに掲げた両手を見て、わかった。
手がひどく荒れている。
海の荒仕事のせいだ。
まだ秋もかかりのこの時期に、酢がしみるほどに、荒れている。
だからだ。
思えば丈夫な左之助の皮が、たかが山の芋の成分ごときに負けるはずもない。
「おっし、できたぞ、めかぶとろろごはん。ほいよ仕上げにカツオブシ、と。わほー、カンペキ?」
そういえばゆうべも指がどうとかこうとか言ってたようないなかったような………?
い、いいいいかんいかん! 考えなくていいいい! どうどう、どうどう。
「さっ、食え食え。時間ねえぞ」
冷静に冷静に。食事食事。仕事仕事。
合掌。
ぱくり。
――――あ。
「あったりまえじゃん。オレが作ったんだぜ?」
それはともかく。
じゃあまあ、ひとつおすそわけでも。
はい、あーん。
「おおー、ほんとだ、旨いな。つかオレって天才?」
いーえ、ちがいます。芋とダシと先生がいいんです。
「ちょっと貸してみ」
ほへ?
って、なんでだよ、いいって。
とかいって、なんかさっきより美味しかったりして。
気のせいかな。気のせいだよな。うん、きっとそうだ。
でも、やけに嬉しそうな顔の左之助が、またひと匙すくって、はいあーん。
思うにそんな悠長なことしてる時間はないんだが。
それにそもそも俺ってこんな甘やかされ体質じゃなかったはずなんだが。
「大丈夫大丈夫。車で送ってやっからさ」
いや、そういう問題じゃなく。
「な。ホレ」
だからそういう問題じゃ………。
「あーん」
と言って差し出す左之助は、つられて自分も口をあけている。
差し出された左之助の手の先で、左之助が作ってくれためかぶとろろごはんは、何かもっとずっと違う貴重なご馳走に見える。
――――ま、いっか。
あーーん。
目を閉じて口を開けると、切ないほどの美味しさが口いっぱいに広がった。
了/2005.11.12〜2006.1.1
│拍手│