◇web拍手お礼小話14◇ (ダイバーシリーズ)

※「わらくる」その後のお話です。

サンドフライにご用心


「ほんと久しぶりよね、剣くんと一緒に潜るのなんて。一体いつぶりかしら」
「十年? じゃきかないよね。最後サイパンだもんね」
「うわー、そっかー。サイパンなんだ!」
 時尾はためいきまじりに空を仰いだ。
 南国ポナペの青い空に雲が流れている。
 綿菓子をちぎったようなうすい雲。
 ヤシの木の真っ黒い影。
 波を切る二台の水上オートバイ。
 リゾートのビーチから見ると、あらゆるものごとが遠くて近いのはなぜだろう。手の届かない風景は、どこか切なくて愛おしい。
 見ると剣心も目で水上オートバイを追っていた。駆っているのは左之助とリッチーだ。
 そっと微笑を含んでデッキチェアに背をあずける。

 今日も朝から二本のファンダイブをして、遅めのランチをすませたところだった。一応『海屋』のツアーという形にしてはいるものの、他の四名の参加者もみな気心の知れた古い馴染みで、旅にも慣れたベテランダイバーでもあるから楽なものだ。
 今もそれぞれ、部屋でくつろいだり、ビーチで本を読んだり、シュノーケルをしたりと、思いおもいに過ごしている。
 それにしても――。
「ジェットスキーが二台もあるなんてすごいわね。どうしたの?」
 高価なうえに、必需品でもない、純粋なファンライド用スタンドアップ(一人乗り)マシンだ。離島の小さなダイビングサービスにあるようなものではない。
「もう廃棄されるっていうのをリッチーが修理したんだ。だからほとんどタダ。かかった費用なんて修理用の部品ぐらいのものだよ」
「へえー。すごいのね、リッチー」
「手先の器用さは半端じゃないからね」
 ときどき全くくだらないものを作るのは玉に瑕だが。
 話しているところへ、噂のリッチーが戻ってきた。
『だれかいく?』
 現在の免許制度では小型特殊船舶の専用免許が必要な水上オートバイだが、剣心も時尾も改正前の船舶免許を持っているから運転は可能だ。
「時ちゃん、乗ってみる?」
「うん、やりたい! 扱い教えて?」
 剣心のレクチャーは簡単だが的を射ていた。
 うんうん、とうなずきながら聞いていた時尾だったが、最後に「ちょっとやってみるね。見てて」と言った剣心がTシャツを脱ごうとするのを見て、慌てて制止した。
「あっ……と、ストップ!」
「え?」
 なに?
 剣心は驚いているが。
「……んーと。Tシャツ、着といた方がいいんじゃないかしら。日射しも強いし。ほら、左之っちも言ってたじゃない?」
――生水は飲まないように、節水にご協力を、日射しが桁外れに強いので日焼け止めはしっかりと、悪名高いサンドフライは噛まれるとものすごくかゆいので虫除けはとにかく念入りに……エトセトラ、エトセトラ。
 到着後すぐにゲストになされるオリエンテーションの注意事項だ。
「ああ。まあでもちょっとだし。走りにくいから」
「でもサンドフライが……」
「サンドフライ?」
 そんなものが出るのは夕方だ。
 剣心は首をかしげて、それから威勢よくTシャツを脱いでしまった。
「えーっと……」
 時尾が目のやり場に困って視線を泳がせていることには気づかないらしい。そのまま軽快にエンジンを作動させると、小さな弧を描いてデモンストレーションを見せた。
「こんな感じ」
 屈託のない笑顔は南の島そのもので、ポナペに来てからのこの半年が剣心にどれだけプラスの作用をもたらしているかを教えてくれる。もっとも、プラスに作用しているのは南の島の外的環境だけでなくパートナーの存在こそ大きいものであろうことは容易に想像のつくところではあるが――。
 けど、ちょっとやりすぎよね?
 背中のなかでも肩胛骨のくぼみなどという自分では見えにくいところに濃く残るあれは、不注意ではなくきっとわざとだ。多分、知らせる方が親切だろう。損な役回りだが。
 時尾は軽く肩をすくめた。
「時ちゃん?」
「剣くん、後でバンソコあげるね。水仕事用のやつ、たくさんもってきてるから」
「絆創膏?」
 でも別にケガはしてないけど? という表情をしている。
「あのねえ、剣くん。多分気づいてないんだと思うんだけど」
「なにを?」
 少し首をかしげた素直に不思議そうな様子はあんまり無邪気で、こんな子どもみたいな顔を見ていると、ちょっと悪戯をしてみたくなる左之助の気持ちもわからないではないけれども。
 ふうぅ。
 時尾にもわからなくなってきた。これは一体、「かわいそう」なのか、「かわいい」のか、あるいは単に「ごちそうさま」なだけなのか。
「剣くんさ、Tシャツとかラッシュガードとか、着ておくようにした方がいいかも。結構目についちゃうから。おっきなサンドフライちゃんに咬まれた痕」
 そこまで言ってもまだわからないようだったが、海上をごきげんで疾駆する「大きなサンドフライちゃん」を目で示すと、やっと理解に及んだらしい。
 そう、そのサンドフライは夕方ではなく概して熱い夜に出現する。
 そういう話題でかわいそうなほど真っ赤になってうろたえるさまは、いつも時尾にゆでられるタコかエビを連想させるのだが、このときはなぜか妙な着想が降りてきた。
 ♪ピコピコピコピコ♪ピコピコピコピコ♪ピンッ♪
――満点?
 「欽ちゃんの仮装大賞」である。赤いランプは一気に全点灯。
――っていうか優勝かしら。
 時尾がそんな馬鹿なことを考えているとはつゆ知らず、剣心はあわあわおろおろとうろたえ、何度も失敗しながらTシャツを着た。そして着たかと思うと、やおら水上オートバイのエンジンを全開にした。
「えっ、剣くん!?」
 激した剣心とジェット機構つき乗り物の組み合わせなど動く凶器、走る破壊兵器だ。危険の度が過ぎる。
「やだ、ちょ……! 待って、ストップ! だめって! 危ないって!」
 無論、止まるわけがない。第一、もう遅い。ストップ、と言った頃にはもう水しぶきを上げて一直線にターゲットをめざしていたのだから。
「左―之助――! 貴様――!!」
 一気に狂暴化した危険な物体が「大きなサンドフライちゃん」めがけて突進する。
「左之っち、危ない! 逃げて!」
「う―お――!」
「のわーっ!?」
 ワケがわからないながらも、そこは野生の勘。すかさず身の危険(とその度合い)を察知した左之助は、必死になって逃げに逃げた。
 逃げる左之助。追う剣心。エンジン音と怒号と悲鳴。なんとも時ならぬ騒動である。
 だがほどなく時尾は気づいた。
 大型の水上オートバイだけに、ここは小柄な剣心に不利らしい。乗せる体重が軽い分、左之助ほど小回りがきかないのだ。現に、大きなマシンを取り回しきれずに振り回され気味だ。どうやら左之助も気づいているらしい。よくよく見れば、もうさほど本気で逃げ回っているわけではなさそうだ。
 ということは――。
 追って追われてする二台をしばらく見守って、時尾はふっと肩をすくめた。
「どーぞ、ごゆっくり」
 デッキチェアに戻って目を閉じ、南国の太陽に身を浸すことにした。
 高く低く響く二つのエンジン音が、時尾の耳には、むつまじい二重奏に聞こえる。


2009/8/20〜
拍手









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