ロクシタン
―――塗って塗ってー。
―――ハイハイ。
最近の夜のお決まりコース。
片付けや歯磨きや水の用事が済んだところで、俺が言う。
あいつが銀色のチューブを持ってやってくる。
差し出した手の片方が、細くて小さくて白い手に挟まれる。
なんとなくのお約束。
なぜか向かい合って正座するのも。
俺がちょっと子供ぶってねだるのも。
あいつがちょっと仕方なさそうなふりをするのも。
手を動かしながら、熱いココアを飲むときと似た感じでそうっと目を細めるのも。
―――海の仕事は過酷なんだから、ちゃんと手入れしとけ。
まだ寒くもならない頃に、そんなことを言って、ハンドクリームのチューブを差し出された。
―――なに、ご奉仕してくれんの。
まさか真面目に検討するとは思わなかった。
それこそお約束の反撃を想定して言ったのに。
白い硬いクリームは手肌の中にやわらかく崩れる。
いかにもフランス製の、化粧品らしい強い香りが立ち上がる。
いっそ新鮮なほどレトロな、銀幕の女優から漂ってきそうな香り。
剣心の手が、それはそれは丁寧にあたたかくなったクリームを擦り込んでいく。
指の先、指と爪の間、爪の生え際、関節のしわ、指の付け根の毛穴の一つひとつまで。
彼の繊細な指先こそ毎日の水仕事でほの白くかさついて傷んでいるが、それもけなげに動き回るうちにしなやかに潤って澄んでいく。
言葉が途切れ、香りと沈黙があふれる。
真剣な顔で一心に俺の手に取り組む剣心は、頭から丸かぶりしたいほどいじらしかった。
俺は知らないことにしている。
こいつが実はけっこう手フェチだとか。
だからこの新しい日課が、こいつにとっては結構スリリングな時間だとか。
やがて黙りこくってしまうのはちょっとドキドキしてるからだとか。
まばたきがせわしなくなって肩に力が入りはじめたら相当ドキドキしてるだとか。
クリームを擦りこむ指が一時停止するようになったらドキドキも限界に近いだとか。
それから、このクリームのことだとか。
―――えっ! 左之っち、それってすごい有名なやつよ?! すんごい高いのよ? 一本三千円とかするのよ?
―――三千円――?!
いわく、通りすがりに試供品を使ってみたら悪くなかったからとかなんとか。
が、まちがっても男が(あるいは女でも)普通に“通りすがる”ような種類の店でもなければ、ひょいと使ってみることのできるような気軽な雰囲気でもないらしい。
そしてこのハンドクリームは、いわゆる事情通の間で噂の隠れた名品なのだとか。
待て待て。
つまりじゃあ、あの剣心が、口コミで噂のハンドクリームを買うためにわざわざ女性用輸入化粧品店に行ったのか。
はみがき粉のチューブほどのサイズで三千円。
それを、自分のものには無頓着かつ極めて堅実で、詰め替え用のメリットさえ特売底値を待って買う剣心が。
俺のために。
いくら評判がいいとはいえ。
うわ、どうしよう。
しれっとした顔して持ち出したのが、実はそんな、だなんて。
あらためてそう考えると、しみじみ嬉しくて愛しくて、もう目茶苦茶もみくちゃにしたくなる。
でも俺は知らないことになっているので。
嬉しすぎて言ってしまうのが勿体ないので。
好きだとか、嬉しいだとか、有難うだとか、そんな言葉ではもう全然間に合わないので。
なので、額のあたりがわんわんするほどの、じたばたするほどの嬉しい気持ちを、黙ってお返しにこめてみる。
今度は俺の番。
しっとりとぬくもった小さな手を、掌の間に閉じ込める。
まめで器用で凶暴で傷つきやすい小さな手を、すっかり覆い隠して蓋をする。
それから、雪をつき固めたようなひっそりとした指の、爪の一枚一枚、しわの一本一本、華奢な骨のでっぱりの一つひとつ、血管のすきとおる滑らかな肌の端から端までを指で辿る。
隈なく隈なく、繰り返し繰り返し。できるだけそうっと、いつまでも。
クリームはもうすっかり馴染んで、絡み合った手は四つとも深く潤ってつやつやになっているけれど。
了/2006.1.1〜3.8
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