いつかまた出会える日があるならと、今はただ
こんな夜はよるべなさが身にしみる。
破(や)れ堂の古びた床板に降ろした尻の下から、泥がしみるように、しみてくる。
鉄拵え(ごしらえ)の鞘を握り直すと、鍔が小さな音を立てた。
人を斬らない逆刃(さかば)の刀に数日で慣れたというのに、ひとりでいることには三月経った今でもまだ馴染めないとみえる。ふとした折に、こうして思い出したようなよるべなさが忍び寄っては、剣心を揺らがせる。
――なんと弱い。
とは、もう思わない。
弱いものだったのだ。はじめから。自分は。
おろかにも、ずっと一人で生きているつもりでいた。本当にひとりになったことなど、実は一度としてなかったものを。親や師匠ばかりではない。あの人買い達。それに、剣心と同様に売られようとしていた子どもたち。長州の志士も。
そして――。
巴。
ずっと一人で生きているつもりでいた。
そうではなかったと。だれともつながらず、何にも属していないことが、こうもよるべないものなのだと。巴を得て、失って、そして流浪に出て、初めて知った。
こんなにも弱かったのかと驚いたのは、あれは流浪(なが)れ始めて間もない頃だった。この期に及んでまだ自分がなにものかであると思っていたのだったとしたら笑える話だが、そうではないと、今では知っている。
唐突なよるべなさの理由に、心当たりはある。
宵に会った、あの子どもだ。
――獣のような目をしていた。
否。獣のような、ではない。獣そのものだ。それも手負いの。
山間の盆地に春はまだ浅い。底冷えのする夜を、あのあかぎれた手足をかじかませてすごしているにちがいない。
――不憫な子でしてのう。
連れていた親爺の口調がさほど不憫そうでなかったのは、たまたま拾っただけの子に情がないからではなかったろう。
戦乱に次ぐ戦乱を経て、先日の鳥羽伏見での幕府軍敗退。「新時代」はいよいよ現実味を帯びたものになりつつある。だれもが明日の知れぬこの時代に、その程度の不幸はいくらでも転がっている。だれにでもやってくる。大人も子どもも、世の中は今、獣でなければ家畜のような目をした人間ばかりだ。
――さて、十になるやならずや。口もきけんし、自分のことには首も振らんので歳もわかりませんが、こんな小(ち)さな子が、一体どんな目にあったものか。
生まれつき声を持たないのではないだろう。湯に入れようと子どもの赤い鉢巻きに手をかけて吠えられたことが一度あったと、親爺は苦笑していた。
手足の大きいしっかりした身体をしてはいたが、酷(むご)いほどに痩せていた。だが、口よりも物を言う意志の強い目は、何にも負けまいと闘っていた。傷を負いながら――いや、負っているからこそ、痛みは怒りとなって彼を燃え立たせていた。
よく知っている種類の感情だ。
大切なものを奪われた怒り。失った悲しみ。助けられなかった悔しさ。憎悪と後悔。奪ったものへの。奪った世界への。
その幼さで知るには早すぎたであろう喪失の絶望。それはきっと、あの子の人生を変えるに充分すぎる。
そう、知っている。
あれも同じような目をして自分を見ていた。
――縁。
燃えるような、凍るような、獣の目で見ていた。あれは憎悪というよりも絶望と狂気のまなざしだった。あの戦場のまっただ中で、だれよりも傷ついて獣だった。
脳裏に雪景色が甦る。降り積もった雪を染める血。血が止まらない。傷口を抑えても何をしても止まらない。血を吸う雪に恨みさえ覚えた。まるでそれが巴の命を吸っていくように思えて。手にかけたのは自分だというのに。
たまらず逆刃刀にすがった。
握る手に額を押しつけ、波が去るのを耐えて待つ。情景と恐怖と焦燥の、気が狂いそうな波だ。呑み込まれまいとただただ耐える。
波の中でふと、今日会ったあの子どもの顔が再来した。
――きっと彼も。
そう、きっとあの子も、そんな何かを見たのだろう。恐怖と絶望を知ったのだろう。今も抱えているのだろう。
だが、なぜだろう、不思議に彼はそれだけではないような気がするのは。絶望の中になお烈しい生命の熱を感じるのは。まだ終わってはいない。希望はある。無性にそう思えて仕方がない。希望が見せる幻想か。だがそうであってほしいと思う。そうなってほしいと希(ねが)う。
――俺などに希われても迷惑かもしれぬが。
それでも希わずにおれなかった。祈らずにおれなかった。
だれにかは判らず、何をかさえも判らない。
ただただ押し潰されそうな祈りの念に固く目を閉じ、うなだれる。
いつしか落ちた眠りの中で、成長した魂の半身と夢に再会したが、目覚めた時には忘れていた。
了/2009.1.1〜6/29(2009/8/7再録)
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