オハナ*ハナハナ*ハナザカリ
緋村さんはいついかなる時も常に非常にクールである。
つき合いはじめて半年になるが、ごくわずかな例外を除き、いついかなる時もその非常なクールさが崩れたことは、まあない。
だからそんな言葉も、いつも通り抑揚の少ないひんやりとした声音で、形のよい唇の間から静かにすべり出てきた。
「なに。食べたことがない? それは驚いた」
しかしおれは生まれてこのかた、そんなものを食べつけている人間というものに会ったことがない。だからどちらかというと「それは驚いた」はむしろおれが言うにもっともな科白だと思われるが如何。
「そうか」
緋村さんはつと手をのばし、あの美しい、おれが緋村さんの身体でもっとも好ましく思ういくつかの部分のひとつである、あの完璧に美しい指を、紅いつつじの一輪にそえた。
「南無」
そう言って緋村さんは花を摘みとり、摘みとった花を口に運び、蜜を吸った。それはとてもエロティックな情景だった。さかさまにした花の根元を口に含むとき、緋村さんの小さな口はきゅっと小さくすぼまり、扇のようなまつげはうっとりと伏せられ、そして蜜を吸い出す唇は「ぢゅ」と濡れた音をたてた。さらに二度。「ぢゅ……、ぢゅぅー」。吸い終えて、緋村さんは品よく唇を舐める。
「こんなにおいしいのに」
おれを見つめる緋村さんの目は、味わった蜜の余韻に潤んでいた。
「そうか。この味を知らないのか」
おれはごくんとつばをのむ。
「試してみるか?」
柔らかに動く緋村さんの唇は、花の色が移りでもしたように紅く、花の蜜が沁みでもしたようにてらてらと濡れ光っている。
うちの庭は不詳な薬品類を使ったりしていないから心配しなくていいとか何とか言いながら、おれに横顔を見せて緋村さんは庭に佇む。花を
選)る。美しい手の美しい指が花を摘みとる一連の動作が繰り返される。
そうして選りだした一輪を手折る緋村さんの姿は、選ばれた白い花の色形や風情も含めて、一瞬一瞬がそうあるべく定められているかのように美しく、そしてどうしようもなく緋村さん的だった。わずかにうなだれて見える首から、スレンダーな背中の凛々しい上半分とセクシーな下半分、きりっとした細腰、しなやかな脚へと、一本芯の通った硬質な立ち姿。
おれはごくんとつばをのむ。
指間に花を挟んだ緋村さんの手が優雅にひるがえって、ゆっくりと近づいてきた。
目を閉じて、慎ましやかな花のくちづけを、おれは受ける。
青い草の匂い。こまかにけばだった花弁の触感。ベルベットのような柔らかさ。吸い出した蜜のみずみずしい甘み。そして、いつ唇が触れても不思議のない近さに迫る緋村さんの手の存在感。はね返ってくる自分の息の熱さ。
ぢゅ……。
えもいわれぬ快感が全身を駆け抜けた。
ぢゅぢゅっ。ぢゅ、ぢゅー………。
思うさま吸って、舌をゆるめ、まぶたを上げる。
遠ざかる指先の名残りを惜しみ、指から手、手から腕、腕から顔へと視線を辿らせていくと。
じっとおれを見つめている秀麗な顔。
眼鏡の奥から、物言いたげに潤んだ目がおれを見つめている。
どうにもお邪魔な眼鏡を外すと、おれが緋村さんの身体でもっとも心奪われる部分である、あの夜の海みたいに輝く瞳が姿をあらわした。雲間の月だ。何度見てもハッとする。長い睫毛をしたがえて澄み渡る雄弁な瞳に、目も言葉も息も奪われる。ぐっさり射抜かれて動けなくなる。
「少し、閉じろ」
緋村さんに触れられて気づいた。
いつのまにか、ぱっかり大きな口を開けてしまっていたらしい。
言われたとおりにすると、のせられていた指が唇を離れた。
ひとを吸い込むあの目。いつも怜悧なあの泉の目を、ついぞ見たことがないほど熱く潤ませて、目尻の薄い皮膚をかすかに火照らせて、じいいぃぃっとおれを見つめる緋村さん。
爪先立って背伸びをした緋村さんの睫毛があえかに震えた。
そしてごく薄く開かれたふたひらの
葩から蜜が香り立つ。
たどたどしくも蠱惑的な花のくちづけに、我を忘れた。
了/2008.5.27〜12.31(2009/1/1再録)
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