◇web拍手お礼小話9◇  (ジープウェイ)


緋村さんの逆説


 あったけえー……。

 とろんと開いた目に、手が見える。

 横向きに寝ているから視界も横向きだ。
 ちょうど目の前あたりに自分の右手。
 それを緋村さんの両手がはさんでいる。
 覆われた手先から、沁みわたるようなぬくもりが、全身に満ちていく。
 まるで身体ごとすっぽり抱きくるまれているように、深いぬくもりに包まれる。
 実際には、片手だけ、しかも手の先半分、指の部分だけが軽くはさまれているにすぎないというのに。


 手を動かそうとしたことに、別段、意味はなかった。
 理由はない。何かをしようとしたわけでもない。なんとはなしの動作だった。
 だが、思うように動かなかったことによって、それは突然大きな意味を持った。
 なんだこれ。
 手は、病人か老人の手のようにぶるぶると震えていた。
 なんだこれ。なんなんだよこれは。これがおれの手か。これがおれか。
 失神して倒れたのだから、いまこの瞬間に限って言えば、客観的に見てまあ病人の項に入るのだろうと思わなくはない。しかしその手の震え方は、あまりに板についていた。まるでもう長い間ずっとそんな風で、動かなくて当然、震えるのが当たり前、とでもいうように、平然と震えていた。床にどたっと投げ出されて、おれの眼前で、みっともなく、臆面もなく、震えていた。
 涙が出そうだった。


 後で緋村さんは、おそらく突発的な脳貧血のようなものだろうと言ったが、体調不良の正確な理由はわからない。必ず医者に行けとも言われたが、あいにく医者は好まない。
 手足が先の方からざわざわしたと思ったら、ざざーっと冷たくなった。海の潮が引くようだった。
 なんだこれは、と思いながらも、何かよろしくない事態が起こっているのだということはわかった。
 当たり前だ。
 胸と下腹が言いがたく気持ち悪くて、手足は冷たくて、目の前がチカチカと白くかすんでいくのだ。
 これが健康的で望ましい現象のはずがない。
 いや、っていうか、おれこれマジでやばいんじゃ。
 などと焦っていられたうちはまだよかったらしい。
 らしい、などと言うと他人事みたいだが、実際そうなのだからしようがない。
 ホワイトアウトの瞬間は知らない。意識を失って倒れたことさえ覚えていない。
 だから、おれとしては、庭で猫どもと遊んでいた次のシーンが縁側で寝ているシーンだったわけで、つまり気を失ったうえに時間まで失ったことになる。二重の損害だ。


 内臓の不快感は周期的にやってきた。むかつきと便意と背骨の鈍痛だ。身体を折り曲げて忍んでいると、やがて去る。というか、去るまで耐えるしかない。起きようとするとまたザーチカチカが来るのだから、それ以外にどうすることもできない。
 しばらくすると、今度は全身が変に火照りだした。
 ベタベタしたいやな汗が出る。しかし末端は相変わらず冷たい。
 緋村さんは何杯目かの特製塩湯をつくりに行っていて、いなかった。
 手を動かそうとしたのはそのときだ。
 コントロールが利かないことに動揺していたおれは、緋村さんが戻ってきたことに気づかなかった。
 聞き苦しい悪態を、きっと聞かれたのだろう。
 緋村さんは黙っておれの前に膝をつき、持っていた盆を置いて、座った。
 すべての動作は慎重なほどゆっくりと静かに、しかし流れるように行なわれた。
 そして同じ丁寧さで、緋村さんはおれの手に触れた。
 言うことをきかない、みっともない、憎たらしい、役立たずのぶざまな手を、まるでさも大事なものででもあるかのように、そっと優しく掌にはさんだのだ。

 思うのだが、なんでこのひとには判るんだろうか。

 このひとはいつもそうなのだ。
 ちょっと参った程度のときは大袈裟に泣きごとを言って主張しても冷然と突き放すのに、本当にいっぱいいっぱいのギリギリ瀬戸際の悲鳴は、聴きのがさない。
 逃がさずすくいあげて、そして必要なものをくれる。
 それは、もらって初めて気づく種類のものだ。
 やさしさだとか、労わりだとか、肯定だとか、愛情だとか、支持だとか、あるいは叱咤だとか、苦言だとか、酷評だとか、そういうたぐいの。もらって初めて、あるいは失ってようやく、それをどんなに必要としていたのかがわかる種類のものだ。
 ちょうど今みたいに。
 緋村さんの綺麗なあたたかい手がそんなにも優しく包んでくれて、ミゼラブルだったおれの手とおれは救われた。
 もどかしい。そう言ってしまえばただのひとことだが、到底それではおさまらない敗北感が――焦りや苛立ちや口惜しさや憤りや不甲斐なさや惨めさといったような負の感情が、さらさらと洗い流され、陽射しに影が溶けるように消えていく。
 かわりに、あたたかくて親密な静けさに包まれる。

 内臓の不快感はそれからも幾度かやってきたが、不快さは以前ほどではなく、そうこうするうちに気づけばトルソーの火照りもおさまっていた。

 事態は収束に向かいつつあった。

 やがて四肢の脱力が始まり、意識は深い暗いところに引き込まれていく。
 緋村さんはおれの手をサンドイッチにしたまま、じっとその手を見ている。
 ときどき、上に乗っている方の手の指が静かに動いて、この上もない優しさでおれの手をなでる。

 なんなんだろう、これは。

 緋村さんはこんなに綺麗でかっこよくてクールに完結しているのに、なのに緋村さんの手はなんてあったかいんだろう。

 涙が出そうだった。


 羊水に浮かぶ胎児のように身体を丸めているうちに、自分が小さく小さくなって、緋村さんの腕の中にすっぽり抱きくるまれているような気がしてきた。ちょうど猫どもがときどきそうされているように。
 猫。
 そうだ。あいつらもそうだった。ギリギリのところを緋村さんに救われた。
 不思議だ。
 どうして判るのだろう。何がこのひとには聴こえるのだろう。何がこのひとには見えるのだろう。だからなんだろうか。だからおれには見えない道筋がこのひとには見えるのだろうか。だからこんな風でいられるのだろうか。そして、でもだからこんな風に孤高でいるしかないんだろうか。こんなにあったかいのに。
 そう思ったら、理由のわからない涙がこぼれた。
 涙は熱かったが、流れ出した途端に冷えていく。
 けれどおれは緋村さんの胸に抱かれて、絶対的な安心感のなかで、緋村さんの心臓の音を聴いている。緋村さんに似てつつましく上品な、緋村さんの心臓の音。緋村さん自身がそうであるように、泰然として動じない、確信的な鼓動。おれはさらに小さくなって、緋村さんの心臓に中にすっぽり入ってしまう。そこはあたたかい。おれは自分が緋村さんの規則正しい生命の脈動に守られているのを感じる。おれの肉体は機能の回復をじっと待っている。おれの意識は、この降ってわいた恩寵のような貴重なぬくもりを、無心になってただただ感じている。

 だめだ。涙が止まらない。




END/2007.2.17
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