グッドモーニング
午前八時三十分。
クルーズ船のトップリーフは朝一色に染まる。
夜が明けきって朝になり、陽が照りつけ始めるまでのわずかな時間。
目覚めて間もない新鮮な空はこれ以上ないほど爽快に息づき、海上をわたる風はゆっくりと一日の準備運動を始める。
夕暮れと並ぶ美しいそのひとときを夕暮れ以上に剣心は好み、船に乗り込んだ二日目から既に、起き抜けの早朝ダイブを終えて九時の朝食が始まるまでをここで過ごすのが日課になっていた。
屋上の広いデッキの左舷前方に、白いデッキチェアが仲良くふたつ。
見渡す視界を遮るものは何もない。
左之助が少し遅れてはしご階段を上がってきた。トーストをくわえ、片手にはマグカップ。食べ盛り食いしん坊青年は朝食までの三十分が待てないのである。
ピーナッツバターをたっぷり塗ったかりかりの薄切りトーストが今日は昨日より一枚増えて二枚重ねになっているのを見て、剣心が笑った。
「お前、絶対太ってるぞ、この船乗って」
「ふぉんふぉーふふぉっふぉふぉふぉーふぉーう」
「“運動してるから大丈夫”? さあ、どうだか」
謎の左之助語をあっさり翻訳した後で軽く切り捨て、口元に微笑を残したままデッキチェアに背を戻す。
笑顔をうつされた左之助も自分の居場所を確保して嬉しそうに朝飯前の虫養いを始める。ピーナッツバタートーストと粉を溶いただけのインスタントコーヒーが、今は天上のごちそうである。
「どのへん?」
そう訊ねた左之助の目は、剣心の手元に伏せられた本に留まっている。読んでいるのは、日本から持ってきた探偵小説ではなく、船のゲスト用本棚にあった『沈黙の艦隊』コミックス版だ。乗船初日から持参本そっちのけでかかりきりになっている剣心だったが。
「八巻」
「全部って何巻?」
「三十……何巻か」
「絶対ムリ」
「帰って漫画喫茶」
自称「はまっている」剣心が真顔で言い、左之助が欧米人のような仕草で片眉を上げる。そしてさっきから伏せられたまま進んでいない本に手を伸ばした。
日中や夕暮れには常連も多いが、朝のわずかな時間にわざわざ屋上まで昇ってくる人影は他にない。空と風と朝を独り占めしていると頁を繰る手も自然と止まるのだろう。
本はよく読み込まれて年季が入っていた。バカンスを海で過ごしたたくさんの人たちに読み継がれてきた幸せな本だ。
手元に引き寄せると、剣心がついてきた。
本より随分大きなおまけは、左之助が寝そべっているデッキチェアに自分も浅く腰を掛け、本のお返しとばかりに、残り少なくなった二枚目を左之助の口からもぎ取った。
「ひとくち」
「あっ、一口でかすぎ。ブーブー」
ひとくち、と言うが早いかサクッと香ばしい音が立ち、パンがごっそり小さくなったのを見て、左之助は戯れにボディパンチを繰り出して抗議した。
笑って取り合わない剣心が差し出したトーストに指ごと噛みつきつつ、膝で剥き出しの腿にニーキックを入れる。攻撃したりされたり避けたり避けられたりしながらはしゃぎ声を上げ、手が触れ、脚が当たり、腕が絡み、腹が擦れるうちに、それは自然に撫でたり撫でられたり抱いたり抱かれたりに変わっていく。
朝の空を背負って弾けるように笑う剣心を見上げて、左之助が眩しそうに目を細める。
澄んだ陽光を浴びる左之助の顔に、剣心が濃く影を作る。
「グッモーーニン、エブリボッディー! ブレエクファーーース! ブレエクファーーース!」
癖のある妙な発音とだみ声ですぐそれと判るネイティブのコックの鶏鳴とフライパンシンバルの間抜けた金属音が、豊潤な朝のひとときを破った。
剣心がデッキチェアに手をついて上体を起こす。
「ごはんだ。じゃあ……いくか……」
独り言めいた呟きと潮っ気を帯びた髪がさらりと流れて、左之助の胸をくすぐった。
「オレは後でもいいけど?」
しなやかに反った白い胴にこの数日でさらによく灼けた鋼の腕が巻きつき締めつける。
顔の横に伸びた腕に舌を這わせながら、左之助が煽る目で剣心を見上げる。
「お前は? どうしたい?」
「そうだな……」
赤毛の頭が思案げに傾いて、見えない階下を覗こうとでもいうように横にのびた。
エンジン音の隙間から食堂の賑わいと厨房の喧噪が聞こえる。汐風には炊事の匂いと蒸気が混じっている。青空が降り注ぐトップリーフは別世界の静けさの中に浮いている。
ほんのり赤らんだ艶めかしい瞳が数回まばたき、じゃあ、と、左之助に戻る。
「いっとく?」
「んー……ん? ご注文はどっち?」
うわ、ださっ。
軽く掠れた声が澄み渡る空に駆け上がった。
了/2006.07.01〜08.16
│拍手│