かぐや姫と夜行虫
夜、左之助が目を覚ますと、剣心がいなかった。
左之助はベッドを出て用を足し、戻ってきて少し考えた。
珍しくはない。よくあることだ。たいていは外のウッドテラスにいる。あるいはロッジ前のデッキチェア。そうでなければ、浜辺の椰子のハンモック。
最初の頃は驚いたし、心配もしたが、今では慌てない。剣心にはひとりになる時間が必要なのだ。好きだとか愛だとか、信じているとかいないとか、そういう話とはちがう次元で、ひとりでいる時間が彼にはどうしても必要なのだ。
左之助はベッドに戻り、目を閉じた。
そうしてひとりでいる時、剣心が何を考えているのかいないのか、左之助にはわからない。無理にわかる必要はなかろうと今では思っている。ただそういうものだと受け止めている。
だが、シーツが体温になじむ頃、左之助はまたぱかりと目を開け、起き上がった。テラスをのぞいたが気配はない。素肌にパーカーを羽織って、ロッジを出た。
夜風がハンモックをやさしく揺らしていた。
空は透き通るように深く暗く、針穴の星の硬質な光が粉砂糖のように散りばめられていた。
剣心は、空に目を向けて、波の音を聴いていた。
背後から、砂を踏みしめる音が聞こえた。
誰かはわかっている。
振り向くと、左之助は手をポケットに入れたまま軽く挙げて見せた。剣心の口角が小さく上がった。その笑みに何を感じてか、左之助が口をへの字に曲げて笑う。
「何よ」
「お前それ、ただの変質者」
腿まである丈長のパーカーの下は素っ裸だったのだ。
左之助は黙って肩をすくめ、剣心のそばに歩み寄った。
「来るな、来るな」
笑みを含んだ制止にかまわず、左之助は剣心の額に口づけた。
剣心が左之助を見上げる。見つめるまなざしに吹い寄せられるように左之助の顔が近づき、唇が重なる。ハンモックが揺れて、こぼれた髪が風になびく。
剣心は左之助を見上げた。
じっと見つめていると、左之助がハンモックごと剣心を抱きしめた。首に腕を回そうとしたが、ハンモックキャンディーになっているので手が出ない。大人しく抱きしめられたまま、体を預けた。
どうした、とは訊かない。わかっている。時にわけのない寂しさが左之助を襲うのだ。それは、恋だとか愛だとか、信じているとかいないとか、そんなこととは関係のない次元で起こる。誰にも何にも触れがたい、言葉にできない種類のものなのだろう。以前は自分のせいかと苛んだこともあったが、もう今はそんな風には考えない。ただそういうものなのだと受け止められるようになった。そしてそんなとき、黄昏にひとり取り残された子どものように佇む左之助に、剣心は黙って寄り添う。あるいはそっと手を握る。そうでなければ、力いっぱいぎゅうぎゅうに抱きしめる。
その時、それが剣心の目に入ってきた。
「おお」
「ん? どした?」
左之助の目が剣心の視線の先を追う。
「おおう」
夜行虫だった。
海面近くにいるのだろう、波頭が、星を散りばめたようにキラキラと輝いていた。
しばらく二人して言葉もなく海を眺めた。穏やかな波の音だけが夜の浜辺を満たしている。
「帰るか」
剣心が言い、左之助がうなづいた。
そして剣心をハンモックから降ろし、地上に戻す。
左之助がパーカーを開いて言った。
「入る?」
「寄るな、変質者」
「入る? 入る?」
「寄るなってば」
いつになく柔らかい口調で言い合う二人の後には、寄りつ離れつする足跡が残されていった。
2010/11/13〜2011/8/17
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