子守歌

子守歌



 これは?

剣心が訊く。俺は答える。

 船の甲板ですべって転んだところへ樽が降ってきやがった。
 生憎ささくれが立ってて、ぐさりだ。


剣心は笑う。

 こっちは?

 火事場で慌ててすっ転んだときに、尖った石くれでざっくり。

 転んでばかりではないか。


今度は少し苦笑い。

 これもか?

 これはちがう。人んちの庭で木登りしてるのを見つかって、矢を射られた。

 呆れたな。よく今まで命があったものだ。

 ああ。打たれ強いのが俺の売りだからな。


俺はそう言って、笑った。


    嵐。雷鳴。横なぐりの雨。荒れる海。
    船は木の葉のように揺れていた。
    帆の索が切れる。帆が広がって風をはらみ、船は横倒しになる。
    切り落とせ。だれかが叫んだ。男たちがマストに群がる。
    俺も行こうとして、手を離した。
    船が反対にあおられた。身体が持ち上げられ、胃が変に浮き上がる。
    強い衝撃。息ができない。胸が破裂する。目がかすむ。
    かすんだ視野のなか、マストが折れるのが見えた。
    枯れ枝のように折れて、海に吸い込まれていく。
    群がっていた男たちが、ばらばらと蟻のように散り落ちた。
    背中に灼けつく痛み。血まみれの肩を手で探ると、木っ端が刺さっていた。
    力まかせに引き抜く。腐った木っ端はいやな音を立てて折れた。
    ぬめる手で、取り当てた救命具を腰に縛りつける。
    手が震える。海水が目にしみて涙が止まらない。指が冷たい。縄が逃げる。
    失われる感覚。雷鳴。うねり。波。


俺は剣心の頬に手をあてる。
やわらかい頬。
親指を左右に動かすと、潤んだ瞳が少し細まった。
きれいな目。ふしぎな目。
透明な光が、揺らいでとけた。
反対の頬に頬で触れる。
やわらかく、あたたかい。
そっと擦り合わせる。羽毛で触れるように微かに。静かに。
触れ合ったところから剣心のぬくもりが俺の中に染みとおる。
全身を満たして、包み込む。


    火事。悲鳴。はぜる炎。煙。
    燃えさかる建物から女が走り出してきた。服も髪も燃えている。
    女は腕に抱いた包みを俺に差し出す。濡れた布の中に赤ん坊。
    だが子どもは息をしていない。紫色の唇。半開きの目。
    女がうつろな目で俺を見て、建物を指差す。女の口が動いた。
    たすけて。こどもが。
    俺は水をかぶって建物に飛び込んだ。
    炎の壁の向こうに子どもが倒れている。
    俺を見ている。倒れた柱の下から顔を出して、俺を見ている。
    立ち止まった俺の眼前で、壁が崩れ梁が落ちた。
    俺は燃え落ちる建物を走り出た。
    つまずいて転んだ拍子に、尖った石が腿を裂いた。
    激痛に体が跳ね上がる。
    地面を転がり、震える手で傷口を縛る俺を、つまずいて蹴飛ばした女が見ていた。
    女の黒い口から焦げた砂がこぼれて、落ちた。


俺は剣心の髪をすく。細い髪が指の間を滑る。
なだらかな頭。しなやかな髪。髪のなかは少し湿って、ひんやりとしている。
無垢な毛髪が俺の手指に戯れる。絡みもせず走り抜ける。

剣心が耳元で俺の名を囁く。
歯と舌のすき間から漏れる、普段より少しかすれた声。溜め息に似た声。静かな声。
俺の耳穴を震わせ、鼓膜を揺らし、頭骨を満たす。
鳴動は背骨のなかを伝い下り、俺の中心に到達する。


    白昼の奇襲。略奪。暴行。惨殺。
    吊るされた死骸。
    日が経ち、死体は乾燥する。縮む。
    骸が子どもほどに小さくなった新月の夜。俺たちは奪還を試みた。
    失敗。罠。待ち伏せ。皆殺し。
    俺は木の上に逃れて、潜んだ。
    闇雲に射られた無数の矢。間の悪い的中。腕をえぐる、深い疼痛。
    腕は痺れて動かなくなった。ぶら下がる、死んだ肉塊。
    死に物狂いで馬を奪った。体を伏せて、一気に走り抜ける。
    かたまった腕は、鉛の振り子。不様に揺れて、重心を崩す。
    持ち上げ、上体の下敷きにすると、思い出したように激痛が走った。
    かまわず逃げる。
    逃げる俺を、吊るされた死骸が見送った。
    小さな影と大きな影。倍に増えた屍が、夜明けの空に揺れていた。


俺は剣心の背中に手を回す。
くたびれた布越しに、肩の肉。薄く、小さい。
この肩を抱くたびに、俺は驚く。
俺の腕のなかにいる剣心は、俺の腕の記憶より、いつも少し小さい。
掌を円く動かすと、剣心が腕を上げて俺の背中を抱いた。
肩の下の筋が、うねって流れた。

俺は剣心の腰に手を回す。
細い腰がしなって、さらに細くなった。
俺の腕の輪のなかで泳ぐ。抱き込んだ指先は、俺の脇腹に突き当たった。
指を開いて、剣心の肋骨を撫でる。
下から上。上から下。また下から上へ。
剣心が息を吸い込んで、咽喉をのけぞらせた。
白いのど。濡れた唇。薄く開いて、小さくわななく。
震えるまつげ。伏せたまつげ。長いまつげは頼りなく揺れる。
目覚める小鳥の胸毛のように。
俺は息を詰めて剣心を見つめた。
吸い込んだ空気が胸の中で固まって、俺の気管を圧迫する。
顔を近づけた。空気を求めて水面に浮上するときのように。
剣心の顔に俺の影がおちる。剣心の息が俺の頬をくすぐる。
ふいに、剣心の目が開いた。
紫色の瞳。大きな瞳。
すきとおる膜に光がとけて、ゆれる。流れる。広がる。
薄紫、濃い紫、青、水色、赤、臙脂。
きらめく光の破片。
拡散した色のかけらは渦を巻いて吸い込まれ、そしてまたひとつになる。

澄んだ瞳が、俺を見つめていた。

 大丈夫、大丈夫だから、さの。だから、泣くな。

 だれが、俺がか。どうして。泣いてるのはお前なのに。


剣心が指の背で俺の乾いた頬をすくいあげる。
頬骨のところで手を止め、ゆっくりとひとつまばたく。
指を下ろす。すくう。そしてまばたき。
二度。三度。四度。
ひとつまばたくたびに、涙がひと粒、剣心の頬をすべり降りた。
振り払うように、首を振る。

 俺ではない、お前だ。
 お前は泣かないが、ずっと泣いてる。
 泣いてるお前が俺のなかに入ってきて、泣かないお前の代わりに俺が泣いてる。
 だからさの、これはお前の涙なのだ。


そしてまたひと粒。
大きな涙。光る雫。
指に受けると、宝石のようにきらめいて、爪先から流れて落ちた。
海に身を投げる巫女のように。

 こんなきれいなものが、俺のものであるはずがない。

そう言おうとして、やめた。
俺の頬を撫でる剣心の指があまりに儚かったから。
俺を見上げる剣心の瞳があまりに哀しかったから。
それが俺を映したものだと剣心は言う。
だが俺は知っている。
俺は汚い。醜い。酷い。
騙した、盗んだ、逃げた、殺した、だから?
俺は平気だ。
自分の罪に心を痛め他人のために涙を流す剣心とは、雪と炭。


剣心の手が俺の頭を撫でる。
小さい手。細い指。指先で地肌をなぞり、髪をすく。
ゆっくりと何度も繰り返す。
俺は引き寄せられるまま、黙って剣心の胸に身体をあずけた。
剣心が両腕で俺を抱きしめる。左手で背中をさすり、右手で頭を撫でる。
まるで子どもをあやすように静かに。穏やかに。
俺はじっと目を閉じて、剣心を感じる。
薄い胸がそっと上下する。
鼓動。呼吸音。衣ずれ。ひそやかに動く手。硬く締まった腕。剣心の、匂い。
剣心のぬくもりと哀しみが俺を包み込む。
剣心のやさしさと痛みが俺のなかに沁み入ってくる。
そして俺をとかす。
とけた俺は剣心に流れ込む。
交わり、混じり合い、とけ落ちて、そうして俺たちはひとつになる。
ひとつになって、どこかに流れていく。
どこか遠いところへ。
音も重さもない、眩しいところへ。
場所でも時間でもない、果てしないどこかへ。




了/2004.02.25
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「臥待月」佐倉裕さまに捧げます。










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