いじめっこ
北春日部ロビン
水をやるのも忘れていた朝顔は大分しょんぼりしていた。
土がからからに乾いて、喉が渇いたって文句を言っているようだ。
「ごめん、ごめん」
多過ぎるんじゃないかと思うくらい慌てて水をやって、その後は家中の掃除に取り掛かる。
台所、風呂、トイレ、全ての部屋を終えて、最後は簾の影に逃げ込みながら雑巾掛けをする。板の廊下は影っていても拭くそばから手品のように素早く乾き、元通りの色に戻る。
これじゃなんだか雑巾掛けした気にならない…今度は少し雑巾をゆるく絞ってみた。
素足には気持ち悪いけど、板の色が一通り濃くなったところで一休みにした。
庭先の木にとまっている蝉の声は調子のいいミーンミーンから、じれったそうなジジジジに変わった。
あの声って本当は蝉じゃなくて、太陽が影を焦がす音なんじゃないかな……なんて思った。
「暑いなぁ…」
最近、独り言が増えた気がする。
それを指摘してくれる人が隣にいないから、仕方ないのかもしれない。
日差しの強い縁側に腰を下ろし、風鈴のかわいい音を聞きながら、もうすぐ帰ってくる左之助を思った。
今年の初めのまだ寒い頃、急に退職してしまった無責任なヤツの代わりに左之助が遠くに行かされた。
「一緒に来ないか?」なんて言われたけど、若い女の子じゃあるまいし、彼一筋という理由だけで、「うん」なんて言えなかった。
それは左之助も分かっていたから、「俺、寂しいな〜」なんて大袈裟に言いながら、せっせとダンボールを車に積んでいた。
「俺がいなくて寂しいからって、一人ですんなよ」
「誰がッ!」
そう言って顔を背けた俺。
すると大きな笑い声の後に、左之助の長い腕が伸びてきて俺の顎を取った。
そして左之助は運転席から身を乗り出すと顔を近づけキスをした。
それはとてもとても長く、まるで永遠の別れのキスみたいだった。
そんなことを考えると、俺は余計に左之助から離れられなくってしまった。
目を閉じて左之助の唇の柔らかさを確かめながら、このまま付いて行ってしまおうか…と何度も思った。呼吸するのも忘れるほど、俺は夢中で左之助の唇を吸い続けた。
「やればできるじゃねぇか。勿体付けやがって」
先に息が上がった左之助はそう言った。
その言葉を聞いた途端、俺はものすごく恥ずかしくなり目を逸らした。
「別に俺は、そんなんじゃ…」
「たまには遊びに来いよ」
「あ、ああ」
そして左之助は勢いよくアクセルを踏み込み遠くへ行った。
夕方だけど、もう夜みたいに辺りは真っ暗だった。
俺は排気ガスの匂いと、からからの冷たい空気を吸いながら、小さくなっても、見えなくなっても、ずっと左之助の行く道を見つめていた。
その日の寒い夜から、俺は一人の生活をはじめなければならなくなった。
左之助のいなくなった部屋は、すごくがらんとして静かだ。
俺一人には大きすぎる家…結構掃除は好きなほうだけど、やっぱり一人じゃつまらない。
小競り合いをしながらでも、左之助とする雑巾掛けレースは楽しかった。
そんなことを思った夜は少しだけ淋しくなって、左之助の箪笥から、こっそりシャツを引っ張り出して左之助の匂いに包まれながら眠ることもある。バレることはないと分かっていても、次の日にはきれいに洗濯をして、そそくさと元の場所に戻す。
そんなことを繰り返しているうちに、左之助の匂いはだんだんと薄れ、代わりに柔軟剤の匂いしかしなくなってしまった。
時々は左之助の社宅に陣中見舞いに行った。
予想はしていたが、ズボラな左之助の部屋は、泥棒に入られたように荒れていた。
料理なんてしないヤツだから、コンビニで買った弁当のパックが台所に山積みになっていたり、布団も滅多に干さないらしく、キノコが生えそうなくらい湿気が溜まっていた。
俺は左之助に合鍵を貰っていたから、連絡もせずに勝手に部屋に入り、掃除をして、布団を干して、料理を作って左之助を待った。
突然の俺の来訪を左之助が当然知る由もない。
だが、必要以上に驚き喜ぶ左之助の姿を見るのはとても楽しかった。
来るなら連絡くらいよこせ!と、その度に言われたが、俺は聞こえないふりをしていた。
左之助には言ってないけど、台所で俺を見つけた時の左之助の目は、とろけるほどに甘くなる。後ろから抱きつく逞しい腕は、一人の時間が長い所為か、一緒にいた頃よりも、とても力強く感じた。また、その力強さの中にも優しさを感じ、頭の上から聞えてくる懐かしい声に俺は包丁を握る力さえ失ってしまう。
背後にいる左之助の息遣いに、いつしか俺も左之助と同じ気持ちになって、気がつくと振り返りながら背伸びをしていた。
「やっぱいいな、剣心」
「左之も」
唇が離れると俺たちはそう言った。そして、長いことおあずけされていた犬のように左之助の手が俺の体のあちこちに這い回る。すごく嬉しいくせに、素直に身を委ねることが照れ臭い俺は、白々しく拒否する素振りをしてしまう。
だが、どんなに身を捩っても、左之助は容易に俺を抱き寄せた。
「そんなに嫌がるなよぉ」
「え…? あ、んッ…」
猫に甚振られているネズミみたいだと思った。猫はもちろん左之助。
威勢のいい野獣は思うままに俺を優しく虐めた。そして俺もまた、嬉しい気持ちを隠しながら大人しく虐められていた。あんなことや、こんなことをされながら…
「くくっ、左之…」
刺激的だった夜の出来事を思い出し、俺は誰もいない家で独り言に似た妄想声を出した。
そして、いつの間にか縁側で膝を縮めて左右にゴロゴロと転がっていたことに気付く。
きっとスケベな顔だったに違いない。簾があってよかったと思った。
だが起き上がってみると、隣の犬が垣根から目と鼻を覗かせていて、俺と目が合うとゴチソウサマと言いたげな声でくぅ〜んと鳴いた。
多分、気のせいだろうけど、俺は犬にまで心の中を見透かされた気がして恥ずかしくなった。
洗濯と掃除で半日が過ぎてしまい、俺は簡単な昼食を済ませた後、買い物に行こうと決めた。
左之助に、日焼けはするな!と、きつく言われていたから、日焼け止めを体のあちこちにたっぷりと塗る。長袖の下の腕、陽に当たるか当たらないかの微妙な足首、手は指先まで、それから顔と首と耳の裏も…さらさらタイプだけど、結構肌が重くなった気がした。
この帽子は絶対に忘れるな!の言葉を思い出したが、農家の奥さん達が被るような項まで隠れる布の付いた帽子は流石に恥ずかしくて被れない。俺が日に焼けないように、と言いながら、実は色白好きだからという理由で結局自分のためにヤツが買ってくれたものだけど、俺は街中でも恥かしくない地味なキャスケットを選んだ。
左之助は俺がこの帽子を被ると、顔があんまり見えなくなるし、子供みたいだからヤダ、なんて言ってたけど、あれのほうが俺はヤダ。畑仕事をするわけでもないし、ただ買い物に行くだけなんだから…玄関の壁に掛かった日除け帽子を尻目に俺はドアを抜け鍵を掛けた。
買い物の途中、お姉さんとか奥さんとか言われたが、俺は反論もせず愛想を良くして肉や野菜をまけてもらった。お陰で予定の3分の2の予算で買い物は済んだ。
時間にしては大したことないが、炎天下の中を歩いてきた俺は、汗と日焼け止めクリームでどろどろになってしまった。
肉の鮮度よりも自分の体から発する匂いと汗には耐えられず、帽子と靴を脱ぐと、買ってきた物もそのままに風呂場へ直行した。
「はぁ〜さっぱり!」
風呂から上がった俺は、またまた独り言を呟いて、買い物袋の中身を急いで冷蔵庫にしまった。
冷凍庫からアイスを、竹製のマガジンラックからは団扇を取り出し、畳の上に足を伸ばす。
喉の奥へとソーダ味が流れ落ち、胃だけでなく内臓全部にじわじわと冷気が広がっていく。
大きくかじり過ぎると頭がキンキンと痛くなって、手のはらでこめかみを叩いたり摩ったりした。
残った棒を咥えたまま横になり、アイスのお陰で涼しくなったくせに団扇で顔を扇いだ。
ゆっくりと顔の上を通り過ぎる生ぬるい風は、いつも俺に眠気をプレゼントしてくれる。
団扇を握る右手の握力は次第に緩み、やがてパタッと畳に落ちた。30分だけ、と自分に約束をしてから目を閉じた。
遠くなる意識の中でチリンという風鈴のいい音が聞える。
寝汗を掻いた体に纏わり付くような重たくて穏やかな風……そろそろ起きなくちゃ、と目を開けた。
……団扇? ……左之?
「左之ッ!」
俺は寝起きのくせに大声を出し飛び起きた。
寝ぼけ眼の俺の視界には、待ち焦がれていた左之助が俺の隣で横になり、団扇で俺を扇いでいる姿が飛び込んできた。
俺が左之助の名前を開口一番で叫んだことに満足気な表情だ。起き上がった左之助は今度は自分の顔を扇いだ。
『おかえり』を言うことも忘れたままの俺は、恋しかった左之助に体を引きずるようにして近付いた。左之助は、そんな俺を優しい瞳に映している。胡坐をかいた膝に俺は手を乗せた。
「随分早かったじゃないか」
「なに言ってんだよ、予定通りだぜ?」
「えっ?…今、何時だ?」
「4時半。帰ってきたのは30分前だけどな」
「なんだよ!それならすぐに起こせよ!30分も……勿体無い」
俺は予定よりかなり寝過ごしてしまった自分に腹が立った。
左之助の休暇は一週間…1分たりとも無駄にしたくなかったのに……。
それなのに、俺は睡魔に負けて、左之助と過ごす貴重な時間を30分も台無しにしてしまった。
腹立たしさはすぐに消えたが、今度は情けなくて悔しくて……午前中の疲れが今更どっと出てきた気がして、もう一度畳に崩れた。
「そう言うなって。俺は結構楽しかったぜ?」
「どうしてだ?」
左之助は、膨れっ面の俺の顔に団扇で風を送ってくれた。
そして、首に掛けたタオルで俺の汗を拭いながら左之助は言った。
「剣心の寝顔なんて久しぶりだし、可愛い寝言も聞けたしな」
「寝言って……俺、なんて言ってた?」
「そんなの教えられっかよ、それこそ勿体無いぜ」
「すっごい気になる……」
「じゃあ、食ってもいい?」
「は?」
「腹ペコなんだよ、俺。満腹になったら教えてやる」
「あ、ああ。分かった。すぐ作るから」
起き上がり左之助の前を通り過ぎようとすると、いきなり手首を掴まれた。
嫌な予感がして左之助との間に距離を取ると、座っていた左之助も立ち上がった。
「放せよ、腹減ったんだろ?」
「ああ、減った」
「じゃあ、放せ」
「やなこった。どれどれ? 言いつけどおり焼けてねぇな……よくできました」
そう言って、左之助は俺の腕をペロっと舐めた。
俺がその腕をぶんぶん振ると、反対側から腰に手が伸びてくる。
そのまま簡単に抱き寄せられて、左之助の胸に俺の顔が当たった。
手首はいつの間にか自由になっていて、代わりに頭の裏に手を添えられている。
数ヶ月ぶりの左之助だった。何もかもが左之助で、それ以上でもそれ以下でもなく、完全で完璧な左之助だった。
左之助の胸板は相変わらず俺には丁度よくて、とても落ち着く。俺は、うっかりうっとりしてすぐに白旗を上げそうになった。だが、左之助もなんだか俺の感触を楽しんでいるようだったから、もうすこし降参の意は隠しておこうと思った。
俺の髪を摘んで、撫でて、頬を摺り寄せる左之助が、嬉しくて照れ臭くてもどかしい。
二人の歴史が増えても、こんな場面になると、どうしても俺は積極的になれない……いつも受身で、左之助を待っているだけだ。
あんなに恋しかった左之助を前にして、何もできないでいるこんな不器用な俺を左之助はどう思っているのだろう。
「左之は、俺のこと……好きか?」
なんて芸のない言葉を発してしまったのだろう……そんなことを言いたかったわけじゃないのに。ほんの少しだけだと思っていた俺の不安は、恥ずかしい言葉となって無意識に口から飛び出した。
左之助は俺の両肩に手を乗せ、体を少し離すと腰を屈めて俺を覗きこんだ。
「あ? 何言ってんだ? そんなの当たり前だろ?」
「本当か?」
「ああ。どうしたんだ、剣心?」
「えっと……俺は、左之を好きなのに……左之みたいに自分から、その……色々できないし…だから……」
俺の言葉を聞くと左之助は鼻で笑った。そして俺の両腕を掴むと自分の体に巻きつける。
そのまま俺を抱いて自分は下になり畳の上に転がった。
「じゃあ、これならどうだ?目ぇ瞑ってるから剣心の好きにしていいぞ?」
「で、でも……」
「好きだぜ、剣心」
左之助はそう言って短いキスをして目を閉じた。俺は左之助の上で生意気そうな顔をまじまじと見つめた。
おっかなびっくり整った眉毛にゆっくりと指を滑らせ、そのまま横に流れて耳ごと両手で包む。指先で耳の裏を撫でると左之助はフフンと笑った。
親指で頬に触れているうちに片手だけは、いつの間にか唇まで辿り着いていた。下唇に乗った親指は自分の指とは思えないほど、やらしい動きをしている。でも、何故か止められない……下唇を少し下げて、開いた隙間に人差し指を近づけると、左之助の温かい舌が指先に当たった。ちょっとドキッとしたが、俺は指を引っ込めるどころか更に奥へと入れてみたくなった。すると左之助の舌は左之助とは別の生き物のように俺の指に纏わり付いた。キスをした時とは違う舌の感触に、俺の心音は知らずしらずに早くなっていった。左之助の口の中に飲み込まれた俺の指と左之助の舌が淫らな音を立て、俺はだんだん興奮してきた。指を抜くと同時に自分の唇を左之助に重ねた。そしてすぐに舌をねじ入れ、今度は舌同士を絡み合わせる。徐々に顔が熱くなっていく……俺はキスをしたまま左之助のシャツを捲り上げ、ハーフパンツの紐を解く。
汗ばんだ肌に俺の手を這い回しながら、広すぎる体を隅から隅まで可愛がりたいと思った。
夢中になって左之助を触れまわし、舐めまわした。
時々、こっそり左之助の顔を覗くと、快感を思わせる表情が見える。
その快感を低下させたくない、もっともっと上昇させたい……いつの間にか俺は左之助を満足させたいと考えていた。
「剣、心…」
荒い息遣いで俺の名を呼ぶ左之助が堪らなく愛しい。俺はその声に応えるように左之助の唇に吸い付いた。
こんなに大きな左之助が、なんだかとても危うく見えて、壊してしまいたいと思う反面、大事に慎重に接したいとも思う。切ない悲鳴を上げれば、焦らしてみたくもなるし、すぐにもっと今以上の快感を与えたくもなる。
左之助はじわじわと俺を矛盾だらけの男にした。
「左之…」
「剣心…」
「好きだ…」
「俺も」
いつもなら照れ臭くて自分からは言えないこんな言葉も、今は素直に伝えられる。
色んな思いが頭の中をぐるぐる廻っていても発した言葉は真実で、俺は自分の思考回路の構造に感心した。事の最中だというのに、そんなことを考えられる部分があったということにも驚き、また感心もする。
悩ましい声を上げる左之助に、俺は奉仕するかのようだった。
でもそれを少しも卑屈には感じない。寧ろ嬉しいような、誇らしいような……今まで感じたことのなかった支配する側の気分。
味を占めはじめた俺は、これでもかというように左之助を優しく虐める楽しみを知ってしまった。
簾が2枚しか下りていなくても、外からの視線なんて気にならないほどだった。
左之助は俺の頭に両手を乗せたまま果てた。左之助の足の間から顔を上げると、脇に手が滑り込んで引き寄せられる。
俺の顔が左之助の目の前に到着するまでに、俺の胸から下は左之助の敏感になった部分と擦れた。妙な呻き声を上げながらも、力強い左之助の上腕は見事な山を作りながら自分の体の上に俺を重ねた。
ようやく視線が最短になると、ニィッと笑い、俺を上に乗せたまま手を伸ばして団扇を掴んだ。生ぬるい風も、汗を掻いた後は気持ちよかった。気怠そうな左之助は、団扇を扇ぐ間中、ずっと目尻が下がっていた。
そんな左之助を見ると、俺は取るに足らない達成感をほんのちょっとだけ得た。
やがて団扇が止まると、俺の背中に左之助の腕ががばっと絡み付いて、突然左右に体を揺らす。
「剣心にやられたぁ〜〜」
「なんだよ、その言い方…」
「じゃあ……剣心にいじめられた〜〜」
「なんだよ、それ。少しも変わってないぞ…」
く〜ん、く〜ん……
隣の犬が、また顔を覗かせていた。純粋すぎるふたつの目は、俺を現実に引き戻す。
左之助に乱れたシャツを被せ、俺は左之助から離れ、犬に背を向けた。
「おい、剣心。犬相手に照れんなよ…」
「だ、だって、今日2回目だぞ。あの犬にからかわれたの…」
「なぁんだ、やっぱり一人でやってたのか。しかも窓全開で…」
「全開じゃない! それに俺はそんなことしてないッ!」
「じゃあ、何してたんだよ?」
「それは……」
左之助との熱い一夜を思い出して、へんな声を出していた……なんて死んでも言えやしない。
俺は言葉を濁して台所に逃げようと思い立ち上がった。
「ちょっと待った」
数十分前と同じ……左之助に手首を掴まれた。俺を見上げる左之助の目は輝いている。
俺の嫌な予感は腹が立つほどに的中する。特に左之助が相手の場合は……。
引っ張られ、引きずられ、帰省用の大きなバックが置いてあるところまで連れて行かれた。
俺の手首を放さないまま、片手でバックを漁る左之助……がさがさと音を立てながら大き目の包みを取り出した。
「ほれ、土産だ」
「?」
やっと開放された手で、俺は包みを開けてみた。
中身は浴衣だった。しかも何故か女物……俺は何も言わず、その包みを閉じ直した。
怪訝な表情をした左之助は、ふぅ〜っと大きく溜息を吐き頭を落とした。
諦めたかな? ……そう思って、俺もひとつ溜息を吐いた。
「じゃあ、いいよ。風呂入って来い」
「俺より左之、先に入っていいぞ」
「俺は後でいい。剣心にいじめられたから疲れた……少し寝る」
「……」
俺は何も言い返せず、左之助に言われるまま風呂に入ることにした。
風呂を出たら、チューチューアイスをはんぶんこして食べよう。
そうすれば、少しは左之助の機嫌も直るだろう。
湯船に浸かると汗が引くまでに時間が掛かるし、怠くなる……そう思ってカラスの行水にした。
洗面所で体を拭いていると、ドアから左之助が顔だけ出した。
「随分早ぇな」
「シャワーだけだから」
「ふ〜ん……あッ、剣心、そっちの壁汚ぇ! 掃除サボったな!?」
「え?どこだ?……うわッ、よせ!止めろ、左之! や〜だって、オイ! 人の話聞けぇ!」
振り返るとウエストに白い紐がキュッと結ばれた。
呆気に取られた俺とは裏腹に、左之助は満足そうに口を開く。
「へへへ……やっぱ似合うじゃん」
「ふざけるな!脱ぐぞ!」
「脱いだらやっちゃうけど?」
油断していると、いつも左之助に都合のいい二択式になっている。
@浴衣は脱げるけど、左之助にやられる
A浴衣を着ていればやられないけど、ノーパン。(既にお触りしてます…)
本当に都合が良過ぎて、呆れてしまう。俺は無駄だとは分かっていても試しに抗議してみる。
「どっちも嫌だ」
「聞こえませ〜ん」
出た!『聞こえませ〜ん』!!
きっと今からは俺が何を言っても左之助には聞えないだろう……まあ、慣れたといえば慣れたけど。
「俺はパンツを履きたいし、普通の服を着たいんだ」
「聞こえませ〜ん」
「晩飯作らないからな!」
「超聞こえませ〜ん」
「もういいだろ、着替える。あっち行ってろ」
「聞く耳持ちませ〜〜ん!」
「うわッ……」
なんて器用なんだ……俺は情けなくもいとも簡単に帯を巻き付けられてしまった。
それは着付けとはいえない着付けだけど、とりあえず完成はしている。
俺はイライラしながらも、紺色に赤やピンクの朝顔がきれいだな、なんて浴衣に見惚れてしまった。
すると俺の体は一瞬宙に浮き、次の瞬間には左之助の両腕の中に体ごと収まっていた。
その反動で、髪を纏めていたクリップがすっ飛び、くねくねした長い髪が垂れ下がってきた。
俗に言う、お姫様抱っこをする左之助の汗ばんだ胸にも俺の髪が貼り付く。俺はその感触が苦手だから、きっと左之助も気持ち悪いだろうと思って胸から髪を剥がしてやった。
胸に触れると目が合って、俺は目を逸らしてしまう。
「剣心、お人形さんみたいで可愛いぜ」
「下ろせ」
「俺、ロリコンになっちまいそうだ」
「お前、バカだけど、バカは休み休み言えよ」
「お前、ホントは女だろ?」
「そんなわけないだろ……何を今更」
「だよなぁ? まあ、俺は相手が剣心なら、男でも女でもどっちでもいいんだけどよ」
「いいから、下ろせよ!」
「はいはい……じゃあ、いくぜ!?」
「はぁ?」
「一回やってみたかったんだよな。それッ!」
「うわ〜〜〜」
微妙にかみ合わない会話の後に、俺は、すとんと畳に下ろされた。
左之助は何の前触れもなく帯を解き、その端を握ると、俺を軽く突き飛ばし、凧を操るように自分に帯を手繰り寄せる。
体が勝手に回転して俺は少しだけ目が回った。
帯が抜けてフラフラしながら柱に手を突き、倒れないように堪える。
すると左之助は大笑いしながら背後から俺に抱きついた。……と思ったら、また帯を巻いていた。
「お、おい……」
「よかったぜ〜!でも次は「うわ〜〜」じゃなくて「あ〜れぇ〜」な?」
「誰が言うか…」
「よし、準備オッケ〜!ほれッ!」
「う〜わ〜〜……」
俺は何度回されても絶対に「あ〜れぇ〜」なんて言わなかった。コイツ、どSだ……そう思うと余計に言いたくなかったが、軽い吐き気を催しはじめ、不覚にも降参しそうになった。
回が重なるごとに吐き気は増して、俺はもうすぐ限界だと悟った。
目に映るもの全てがゆっくりぐるぐると回って、真っ直ぐ立ちたいのに足に上手く力を込められない。そんな足は思ったとおり頼りなくて、すぐにもつれる。ろくに口も利けなくなった俺は畳に頭を打って、起こされて、懲りずに帯びを巻かれながら決心した。
「もういっちょ〜〜」
「あ〜れぇ……」
「怖ッ、可愛くねぇな、その声……」
「あ、れ……」
「ハハハ……分かったよ、ご苦労さん」
唸るような俺の声と希望のセリフに納得した左之助は、回転する俺を抱き止めて頭を自分の膝の上に乗せた。
左之助の膝枕は、ちょっと高いし、ちょっと硬いけど、俺は好きだ。
腕を伸ばして腰に抱きつくと、左之助は少し前屈みになって、俺の顔を覗き込みながら頭を撫でてくれる。
すると左之助の匂いがもっと近付いて、すごく安心できるんだ。
「左之……」
「あ〜?」
「気持ち悪い……」
本当は、好きだって言おうと思った。でもやっぱり、じっと見つめられてると上手く言えない。
さっきのように左之助が目を瞑ってくれてたら、ちゃんと言えたかもしれない……好きよりも、もっと伝えたい言葉を。
こんなに馬鹿げたことをされても尚、左之助に思いを伝えたい俺は、左之助に負けないくらい、どMなのかもしれない。
俺は腕を上に伸ばし、左之助の目を掌で覆った。
「愛してるぞ、左之」
「よしよし、今度は俺がいじめてやるからな」
俺の言葉を聞いた左之助は頭を撫でながら、俺の浴衣の裾を捲った。
言い終わったと同時に、ゆっくり畳に下ろされて、左之助の唇が俺のそこに重なった。
ワンワン!ワンワン!
今度は垣根によじ登り、隣の犬が吠えた。
左之助の追い払うジェスチャーを見た犬は、威嚇するように、ウ〜ッと唸っている。
「アイツ、発情期か?剣心とやりたそうじゃねぇ?」
「なに言ってんだか……」
「じゃあ、見てろよ」
左之助は俺を抱き起こし、体を密着させた。
犬の視線がこちらに向いていることを確認すると、大袈裟に唇を尖らせて俺に近付く。
ウ〜ワンワン!ワンワン!
「ほらな!?」
「え〜!?」
「一丁前に妬いてやがるぜ?」
「ウソだ。偶然、偶然……」
「じゃあ今度は剣心がやってみろよ」
「あ、ああ……」
今の左之助と同じように、犬の目を確認し、左之助に唇を近づけた。
く〜ん……
「え〜〜ッ?!」
「モテモテじゃねぇか」
「なんなんだ、あの犬……」
「しょうがねぇから、代わってやっか?!」
「ふざけんな!」
「冗談に決まってんじゃねぇか。まったく可愛いなぁ、剣心は。俺の萌えポイント、ばっちり抑えてて」
「ムカつく……」
それから左之助との1週間の休暇は、なにをするにも隣の犬の監視付きだった。
簾を下ろすと、やたらと吠えるから、いつも2つまでしか下ろせない。挨拶のような左之助からのキスを目撃する度に犬は吠え、俺と目が合うと傷ついたような声を出した。
はじめは事ある毎に俺をからかっていた左之助も、監視の目にはだんだん耐えられなくなって、終いには犬と喧嘩をはじめた。俺が止めると余計に躍起になり、飼い主が留守の間に俺の目を盗んでは、犬小屋に爆竹を投げ入れる始末。
どうにも止まらない左之助の怒りは、俺の浴衣姿を見ないと収まらなくなった。俺は連日帯で弾かれ、左之助が遠くに戻る日には、例のセリフも板に付いてしまった。
左之助は汚れ物をしっかり洗濯機に押し込んで、きれいな服だけをバッグに詰め込みながら言った。
「俺がいなくて寂しいからって、犬とすんなよ」
「ぶっ飛ばすぞ!」
「お〜いいねぇ! ったく、どこまでそそる顔するんだか」
「んッ……おい……」
ワンワン!ワンワン!
唇同士が離れると、左之助は片手を高く上げ、見送りご苦労!と言いながら、縁側からサンダルを履き犬に近付いていった。犬は相変わらず低い声で唸っていたが、左之助はそんなことには構わず、犬に向かって何かぼそぼそと言っていた。唸り声を出していた犬は、左之助が敬礼ポーズで頼んだぞ!と言うと、元気良く、ワン!と一声鳴いた。
何を話していたのか訊ねると、腕を組み得意気に答えた。
「剣心に悪い虫がつかないように、ちゃ〜んと見張っとけ!ってな」
呆れる俺にはお構いなしで、左之助は長い長いキスの余韻だけを残して遠くに戻っていった。
監視なんかなくったって、俺に左之助以外の虫なんてつかないことを分かっているくせに…。
離れていても、俺が何も変わらないことは、ちゃんと分かっているくせに…。
それを態々口にするところが左之助らしいけど、ひとつだけ変わってしまう俺のことも分かっているのだろうか。
離れてしまうと情けないほど左之助が恋しくなるけど、戻って来た時には今まで以上に左之助に夢中になってしまう俺のことを…。
左之助を大事に優しく虐めてしまいたいと思っている、俺のことを…。
完
北春日部ロビン様よりいただきました♪ ロビンさん、ありがとうございますー! ようこ